第5話 戻る女
優里亜が自主退学してから一ヶ月。彼女の中で曜日の感覚が消えた。
朝に起きる理由がない。
制服を着る必要もない。
提出物も締切もない。
自由は、思ったよりも重く、苦しいものだと初めて彼女は知った。
はじめの頃は「少し休めばいい」と母親も言っていた。
だが現実は、休みが長くなるほど空気が変わる。
視線が減り、会話も減り、期待もなくなる。
リビングで昼過ぎにパンをかじっていると、母親が言った。
「そろそろ、何かしなさいよ」
責める口調ではなかった。
だから余計に刺さった。
「何かって?」
「バイトでも、通信でも。家にずっといるのは違うんじゃないの?」
正論だった。
正論には、逃げ場がない。
求人アプリを開いた。
「未経験歓迎」の文字がやけに冷たく見えた。
歓迎って、本当に歓迎しているわけじゃなくて、誰でもいいっていう意味。
コンビニ、居酒屋、倉庫仕分け。
高校中退の欄にチェックするたび、画面の向こうで評価が下がっていく気がした。
五件落ちた。
そのうち一件は面接まで行った。
「どうして辞めたの?」
その質問に優里亜は、うまく答えられなかった。
「人間関係で少し」
面接官はうなずいたが、目が閉じた。そこで終わったと分かった。
四件目は、駅から離れた小さな写真店だった。
応募理由の欄に困り、正直に書いた。
近いから。
それでも行った。
理由を聞かれなかったから。
古ぼけた小さな店は、外看板の文字が少し剥げている。
「フォトスタジオ ミナト」
ドアを開けると、乾いた空気とプリンターの匂いがした。
「いらっしゃい」
出てきたのは、想像より若い女性だった。
30代半ばくらい。
髪を後ろで一つにまとめている。
「面接の?」
「はい」
「履歴書ある?」
渡すと、その場で目を通した。
沈黙が長い。
取り繕った志望動機を書かなかったことを後悔した。
「退学なのね」
声に同情はなく、優里亜への評価。
「遅刻する?」
「しません」
「無断欠勤は?」
「しません」
「泣きながら仕事するタイプ?」
意味が分からず、言葉に詰まった。
店のソファーに座り、彼女は続けた。
「ここはさ、慰めてもらいに来る場所じゃないから。分かる?」
胸がちくりとした。
「はい」
それしか言えなかった。
採用はその場で決まった。
「時給は最低ライン。最初は掃除と受付。覚えられなかったら終わり。いい?」
優しさはなかったけれど、でも嘘もなかった。
それが逆に彼女を信用できた。
初日は、ほとんど立ちっぱなしだった。
証明写真。
家族写真。
就活用の撮影。
笑顔の練習をしている人たちを見ていると、別の世界の住人のように思えた。
自分はそこから外れた人間。
そういう線引きが、頭の中で勝手に引かれていく。
レジ操作で一度ミスをした。
「まって」
女性店主が言った。
怒鳴らないけど、でも声が硬い。
「焦るなら、その倍ゆっくりやりな」
「・・・はい」
「速さは慣れで上がる。雑は一生直らない」
その言葉だけが残った。
閉店後、シャッターを半分閉めたところで聞かれた。
「なんで辞めたの、高校」
嘘をつく気力がなかった。
「男交際関係で」
間髪入れず返ってきた。
「くだらないね」
グサッと来た。
でも否定できなかった。
「でも、そういう理由で落ちる子は多いよね」
少しだけ、彼女の声が柔らかくなった。
「問題はそこじゃなくてさ、その後どうするかってことだよなぁ」
優里亜は黙った。
答えを持っていなかった。
帰り道、駅のガラスに自分が映った。
制服でもない。
私服でもない。
中途半端な格好。
どこにも属していない顔だった。
でも、今日は一つだけ違った。
「おつかれさん」
そう言われたのだ。
誰かに。
たったそれだけで、心の中で小さな灯りがともった。
消えていなかった。
まだ。
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