第3話 さよなら、チャイ(完結編)

 スマホの画面に、通知が表示される。


『【動体検知】午前3時27分 - 動きを検知しました』


 私は寝ぼけた頭でアプリを開いた。


 カメラの映像が表示される。


 廊下の隅。


 何かが横たわっている。


 でも、カメラは「物体」としてしか認識していない。「ペット」でも「生物」でもなく、ただの「物体」。


 私は目を凝らした。


 それは――チャイだった。


 でも、動かない。


 まるで、置物のように。


 私は慌ててベッドから飛び降りた。


 廊下に走る。


「チャイ!」


 チャイは、廊下の隅で横たわっていた。


 目を閉じて、動かない。


 触ると――冷たかった。


「チャイ? ねえ、チャイ?」


 揺すっても、反応がない。


 体は硬くなり始めていた。


 いつから?


 昨夜、最後にチャイを見たのはいつだっけ。


 思い出せない。


 動画撮影に夢中で、チャイのことなんて――


「起きて、チャイ。お願い」


 でも、チャイは動かなかった。


 私は震える手で、スマホを取り出した。


 検索する。「猫 動かない 冷たい」


 画面には、「緊急」「すぐに病院へ」という文字が並ぶ。


 でも、その下に通知が表示される。


 新しい「いいね」。


 脳が、一瞬だけ痺れた。


 いや、違う。今はチャイだ。


 私はチャイを抱き上げた。


 軽かった。


 骨と皮だけのように、軽かった。


 最寄りの動物病院に駆け込んだのは、朝7時だった。


 受付の女性は、チャイを見て顔色を変えた。


「すぐに先生を呼びます」


 待合室で待つ間、私はスマホを握りしめていた。


 通知が来る。また来る。


 昨夜投稿した動画に、コメントがついている。


『チャイちゃん、今日は元気ないね』

『大丈夫? 病院連れてった方がいいよ』


 今、連れてきてる。


 でも、もう遅いかもしれない。


 診察室に呼ばれた。


 獣医の中年男性は、チャイを丁寧に診察した。


 聴診器を当てる。体温を測る。瞳孔を確認する。


 やがて、彼は深いため息をついた。


「飼い主さん」


「はい」


「この子は……もう、手遅れです」


 心臓が止まりそうになった。


「え……?」


「栄養失調と、極度のストレスによる衰弱です。いつから餌をあげていませんでしたか?」


「あげてました。ちゃんと」


 私の声は震えていた。


「本当に?」


 獣医の目が、厳しくなる。


「この子の胃の中、ほとんど空っぽです。少なくとも数日は、まともに食べていない」


「でも、私――」


 言葉が出てこなかった。


 餌、あげたっけ?


 昨日は? 一昨日は?


 思い出せない。


 動画撮影に夢中で、餌皿を見ることすらしていなかった。


「それに、この傷」


 獣医はチャイの爪を見せた。


「フローリングを引っ掻き続けた痕です。相当なストレス状態だったはずです」


 チャイの爪は、すり減っていた。


 血が滲んでいた。


 廊下で、カリカリと音を立てていたのは――


「飼い主さん、ペットを飼う資格、本当にあったんですか?」


 獣医の言葉が、胸に突き刺さった。


 でも、私は答えられなかった。


 ただ、スマホが震えた。


 新しい通知。


 脳が、反射的に反応した。


 甘い蜜が――


 いや、違う。今は違う。


「安楽死という選択肢もありますが……」


 獣医の言葉が、遠くに聞こえた。


 私の耳には、スマホの通知音しか聞こえなかった。


 チャイは、その日の午後に息を引き取った。


 私の腕の中で。


 最後に、チャイは目を開けた。


 その目は、私を見ていた。


 でも、そこには何も映っていなかった。


 怒りも、悲しみも、愛情も。


 ただ、空っぽ。


 諦めの、その先。


 チャイの口が、わずかに動いた。


 最後の声を出そうとしているかのように。


 私は耳を近づけた。


 そして――


 ピロン。


 スマホの通知音が鳴った。


 チャイの最後の声は、その音にかき消された。


 いや、違う。


 私の耳には、チャイの声が「通知音」として聞こえたんだ。


 脳が、もう区別できなくなっていた。


 チャイの体から、力が抜けた。


 呼吸が止まった。


 心臓が止まった。


 私の腕の中で、チャイは死んだ。


 でも、私の最初の反応は――


 スマホを確認することだった。


 新しい「いいね」。800。


 脳が痺れた。


 涙が溢れた。


 でも、それは悲しみの涙なのか、快感の涙なのか、もう分からなかった。


 家に帰ると、私はチャイの遺体を廊下の隅に置いた。


 そして、カメラの録画を全て見返すことにした。


 最初から。全部。


 真実を知らなければならない。


 何が起きていたのか。


 私は、何をしていたのか。


 一週間前の映像。


 廊下で、私が一人で踊っている。


 スマホから音楽が流れている。


「ユウ君、見てる?」


 誰もいない空間に話しかける。


「一緒に踊ろう」


 私は、目に見えない誰かの手を取るような仕草をして、回る。


 その背後で――


 チャイが、私の背中を前足で叩いている。


 何度も、何度も。


「気づいて」と言っているかのように。


 でも、私は気づかない。


 踊り続ける。


 やがて、チャイは諦めたように、廊下の隅に座り込む。


 もう、私を見ようともしない。


 五日前の映像。


 私は廊下で、テグスを引いている。


 指から血が滴っている。


 でも、止めない。


「ほら、チャイ。ユウ君が遊びたいって」


 チャイは、餌皿の前でじっと座っている。


 空っぽの餌皿を見つめている。


 でも、私は気づかない。


 カメラの画角だけを気にして、テグスを引き続ける。


「チャイ、こっち来て」


 チャイは動かない。


 私は、イライラした様子で近づいていく。


 そして――チャイを無理やり抱き上げる。


 チャイが鳴く。苦しそうに。


 でも、私はカメラの前に連れて行き、テグスの前に置く。


「遊んで」


 命令するように。


 チャイは、諦めたように、テグスに前足を伸ばす。


 私は満足そうに、録画ボタンを押す。


 三日前の映像。


 私は廊下で、一人で会話をしている。


「ユウ君、愛してる」


 声色を変えて、「愛してる」と答える。


「ずっと一緒だよね」


 また声色を変えて、「ずっと一緒だよ」


 その様子を、カメラが冷徹に記録している。


 客観的に見れば、完全に狂っている。


 一人の女が、誰もいない廊下で、一人二役の会話を続けている。


 その間、チャイは水入れの前に座っている。


 水入れは空だった。


 でも、私は気づかない。


 会話に夢中で、チャイの存在すら忘れている。


 昨日の映像。


 私は、スマホを見つめたまま、床に座り込んでいる。


 画面を見続けて、何時間も動かない。


 指は痙攣するように、画面をスクロールし続けている。


「いいね」を確認する。コメントを読む。また「いいね」を確認する。


 その繰り返し。


 チャイは、廊下の隅で倒れている。


 もう動けないほど衰弱している。


 でも、私は見ていない。


 スマホの画面しか見ていない。


 やがて、チャイが小さく鳴く。


 助けを求めるように。


 でも――


 ピロン。


 通知音が鳴った。


 私は反射的にスマホを見る。


 新しい「いいね」。


 笑顔になる。


 チャイの声は、完全に無視された。


 映像を見終えた時、私は床に座り込んでいた。


 涙が止まらなかった。


 でも、悲しいのか、怖いのか、自分でも分からなかった。


 私は――チャイを殺した。


 直接手を下したわけじゃない。


 でも、ネグレクトして、餓死させた。


 その間、私は何をしていた?


 スマホを見ていた。


 「いいね」を数えていた。


 存在しないユウとの会話を楽しんでいた。


 現実を見ていなかった。


 スマホが震えた。


 新しいメッセージ。


 アヤノからだった。


『ミナト、もう限界だよ。あなたはユウを愛していたんじゃない。「愛される自分」を愛していただけ。ユウが苦しんでいたこと、本当に気づいてなかったの? あの日、階段で――』


 メッセージは長文だった。


 でも、私は最後まで読まなかった。


 指が、反射的に動いた。


「ブロック」をタップする。


 アヤノのアカウントが、画面から消える。


 存在しなかったことになる。


 スッキリした。


 でも、その直後――


 アヤノから電話がかかってきた。


 別の番号から。


 私は出なかった。


 また電話。


 また出ない。


 三回目の電話の後、メッセージが届いた。


 知らない番号から。


『ミナト、私だよ。アヤノ。お願い、話を聞いて。このままじゃあなた、本当に――』


 私は、その番号もブロックした。


 そして、スマホの電源を切った。


 静寂。


 初めて、通知音のない静寂。


 でも、耳鳴りがする。


 ピロン、ピロン、という幻聴。


 脳が、通知音を求めて痙攣している。


 私は耐えられなくて、すぐに電源を入れ直した。


 画面が光る。


 通知が流れ込んでくる。


 50、60、70――


 脳に蜜が注がれる。


 ああ、これだ。


 これがなければ、私は生きていけない。


 チャイの遺体は、動物病院で火葬してもらった。


 小さな骨壺に入れられて、戻ってきた。


 私は、それを廊下の隅に置いた。


 ユウの遺影の隣に。


 そして、SNSに投稿した。


『チャイが虹の橋を渡りました。短い間だったけど、たくさんの幸せをありがとう。きっと天国で、ユウ君と一緒に遊んでるね♡』


 写真は、骨壺を美しく撮影したもの。フィルターで、柔らかい光に包まれているように加工した。


 投稿すると、すぐにコメントが流れ始めた。


『悲しいです……』

『チャイちゃん、安らかに』

『ミナトさん、辛いですよね。でも、きっとチャイちゃんは幸せだったと思います』


 幸せ?


 チャイは、幸せだったのだろうか。


 餓死寸前まで放置されて。


 狂った飼い主に、無理やり演技をさせられて。


 最後は、通知音にかき消されて死んでいった。


 でも、コメント欄には「幸せだった」と書いてある。


 だから、きっとそうなんだ。


 私は、そう信じることにした。


 通知が鳴る。また鳴る。


 脳が痺れる。


 涙が溢れる。


 でも、もう何の涙なのか分からない。


 それから三ヶ月が経った。


 私は、新しい猫を迎えることにした。


 ペットショップで、生後三ヶ月の子猫を見つけた。


 ベージュの毛並み。チャイにそっくりだった。


 私は、その猫を抱き上げた。


 軽くて、温かくて、生きていた。


「君の名前は――ユウだよ」


 子猫が、小さく鳴いた。


 私は、その猫を家に連れて帰った。


 SNSに投稿した。


『新しい家族が増えました。名前はユウ。きっと、天国のユウ君が贈ってくれた子だと思います♡』


 写真は、子猫を抱く私の笑顔。フィルターで、肌は滑らかに、目は輝いて見える。


 首筋の赤い線は、加工で消した。


 指の傷も、消した。


 完璧な、「幸せな私」。


 投稿すると、すぐにコメントが流れ始めた。


『可愛い!』

『良かったですね!』

『ユウ君、きっと喜んでますね♡』

『ミナトさん、本当に優しい人ですね』


 震える。痺れる。


 脳に蜜が注がれる。


 首筋の糸が、きつく締まる。


 でも、気持ちいい。


 私は、また幸せになれる。


 新しい猫「ユウ」がいれば。


 そして、「いいね」があれば。


 廊下に、24時間カメラを設置した。


 新しい猫「ユウ」が、幽霊と遊ぶ姿を記録するために。


 私は、テグスを手に取った。


 指には、まだ古い傷が残っている。


 でも、すぐに新しい傷が重なるだろう。


 それでいい。


 これが、私の「愛の証」だから。


「ユウ、遊ぼう」


 子猫の「ユウ」は、まだ私に慣れていなくて、隅で震えている。


 でも、すぐに慣れるだろう。


 チャイみたいに。


 そして――チャイみたいに、諦めるだろう。


 でも、それでいい。


 カメラが回っている限り。


 「いいね」が増え続ける限り。


 私は、幸せだから。


 さらに一年が経った。


 私は、あのマンションを出ることになった。


 理由は――思い出せない。


 誰かに勧められたような気がする。


 でも、誰だったか思い出せない。


 新しいマンションに引っ越す前に、部屋を掃除していると、廊下の隅で何かを見つけた。


 小さな骨壺。


 チャイの遺骨だった。


 それと――


 もう一つ、小さな骨壺。


 これは、何だっけ?


 ああ、そうだ。


 子猫の「ユウ」だ。


 いつ死んだんだっけ。


 思い出せない。


 でも、SNSの投稿を見返せば分かるだろう。


 私は、二つの骨壺を段ボールに詰めた。


 そして、新しいマンションに向かった。


 新しい猫も、もう迎えてある。


 今度の名前は――何にしようかな。


 数ヶ月後。


 あのマンションには、新しい住人が越してきた。


 25歳の女性。名前はサヤ。


 不動産屋が説明する。


「前の住人は、ちょっと精神的に参っちゃって転居したんですけど、部屋自体は綺麗ですよ。家賃も相場より安いですし」


「そうなんですね」


 サヤは、部屋を見回した。


 綺麗な部屋。日当たりもいい。


 廊下の突き当たりには、なぜか小さなネジ穴がいくつか開いていた。


「これ、何ですか?」


「ああ、前の住人が何か設置してたみたいですね。棚とかかな」


 サヤは気にせず、契約することにした。


 引っ越しから一週間後。


 サヤは、暇つぶしにSNSを見ていた。


 おすすめ動画に、一つの動画が表示される。


 タイトル:『猫が幽霊と遊んでいる!?』


 再生してみると――


 ベージュの猫が、誰もいない廊下で楽しそうに遊んでいる。


 コメント欄には、温かい言葉が並んでいる。


『優しい幽霊さんですね』

『猫が懐いてるなら安心♡』

『この部屋に住んでます!私も同じ現象が!』


 最後のコメントが気になって、サヤはプロフィールを確認した。


 投稿者の名前は――ミナト。


 そして、投稿された場所の住所を見ると――


 ここだった。


 この部屋。


 サヤは、少しだけ背筋が寒くなった。


 でも、すぐに笑った。


「面白い。私も猫飼おうかな」


 そして、コメント欄に書き込んだ。


『私も今この部屋に住んでます!何か不思議なこと起きたら報告しますね♡』


 投稿すると、すぐに「いいね」がついた。


 サヤは、その感覚が少しだけ心地よかった。


 もっと「いいね」が欲しくなった。


 翌日、サヤはペットショップに向かった。


 三ヶ月後。


 サヤのSNSには、猫の動画が毎日投稿されるようになっていた。


 タイトル:『うちの猫、誰もいない廊下で遊んでる!幽霊さんいるのかな?』


 コメント欄には、温かい言葉が並ぶ。


『可愛い!』

『優しい幽霊さんですね』

『前の住人さんと同じ現象だ!』


 サヤは、スマホを握りしめていた。


 画面の向こうで、「いいね」が増えていく。


 脳が、少しだけ痺れた。


 気持ちいい。


 もっと欲しい。


 廊下を見ると、猫が何かにじゃれついていた。


 でも、よく見ると――


 サヤの左手に、透明な糸が握られていた。


 指に、少しだけ食い込んでいた。


 でも、サヤは気づかなかった。


 スマホの画面しか見ていなかったから。


 廊下の隅。


 二つの小さな骨壺が、まだそこに置かれていた。


 前の住人が忘れていったもの。


 その隣に、新しい猫の水入れが置かれている。


 空っぽだった。


 でも、誰も気づかない。


 スマホの通知音だけが、部屋に響き続けていた。


【第3話 終】


【完結】


エピローグ:ループは続く

 それから何年も経った。


 あのマンションには、何人もの住人が入れ替わった。


 みんな、若い女性。


 みんな、猫を飼っていた。


 そして、みんな――


 同じ動画を投稿していた。


『猫が幽霊と遊んでいる!』


 コメント欄には、いつも同じ言葉が並ぶ。


『優しい幽霊さんですね』

『可愛い♡』

『癒やされる』


 そして、新しい住人が、また同じことを繰り返す。


 テグスを握りしめて。


 「いいね」を数えて。


 猫を痩せ細らせて。


 現実を見ないで。


 スマホの画面だけを見つめて。


 ループは、永遠に続く。


 誰も、気づかない。


 自分が、前の住人と同じことをしていることに。


 誰も、止められない。


 「いいね」の中毒から、抜け出せないから。


 そして――


 廊下の隅には、小さな骨壺が増え続けていた。


 誰も、それに気づかなかった。


 スマホの画面の向こう側の、温かいコメントに夢中で。


 ピロン。


 また、通知音が鳴る。


 誰かのスマホで。


 どこかの部屋で。


 そして、また誰かが――


 笑顔でスマホを見つめている。


 首筋には、赤い線。


 指には、テグスの傷。


 でも、気づかない。


 画面の中では、完璧な笑顔だから。


 フィルターが、全てを美しく見せてくれるから。


 ループは、続く。


 永遠に。


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いいねが止まらない SNS依存が招いた、ふたりと一匹の育児記録 ソコニ @mi33x

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