第2話 鏡の中の違和感

 コメント欄が、最近少しだけ変わってきた。


『ミナトさん、もっと長い動画が見たいです!』

『チャイちゃんが遊んでるところ、ずっと見ていたい♡』

『24時間ライブ配信とかできませんか?』


 リクエストが増えるたびに、スマホが震える。脳に蜜が注がれる。


 そうだ。もっと長い動画を撮ればいい。そうすれば、もっと「いいね」が増える。もっとコメントが増える。もっと、もっと――


 私は通販サイトで、24時間録画対応のネットワークカメラを注文した。「動体検知機能付き」「スマホで遠隔確認可能」。レビューには「ペットの見守りに最適」と書いてあった。


 完璧だ。


 これで、ユウとチャイが遊んでいるところを、いつでも記録できる。そして、その映像をみんなに見せられる。


 カメラが届いたのは、注文から二日後だった。


 廊下の突き当たり、ユウの遺影の対角線上に、私はカメラを設置した。


 この位置なら、廊下全体が映る。チャイが「ユウ」と遊ぶ姿も、完璧に捉えられるはずだ。


 設定を済ませ、スマホのアプリと連携させる。画面には、リアルタイムで廊下の映像が映し出された。


 誰もいない、静かな廊下。


 壁に飾られたユウの遺影。


 そして、その下の隅で丸まっている、チャイ。


 チャイは、もう以前のように廊下で遊ぶことはなくなっていた。ただ、隅でじっと動かない。時々、私の方をちらりと見るだけ。


 その目には、何も映っていない。


 いや、違う。チャイはきっと、ユウが見えているんだ。ただ、私には見えないだけ。


 だから、カメラが必要なんだ。カメラなら、きっとユウを捉えてくれる。


 私はSNSに投稿した。


『みんなのリクエストに応えて、24時間カメラを設置しました! これでユウ君とチャイの様子、いつでもお見せできます♡』


 即座に、コメントが流れ始める。


『楽しみ!』

『ライブ配信待ってます!』

『ミナトさん、優しい♡』


 震える。脳が痺れる。


 でも、一つだけ、違うコメントがあった。


『ミナトさん、無理しないでね。カメラで監視するより、チャイちゃんと直接遊んであげた方がいいと思う』


 心臓が、ギュッと締め付けられる。


 監視? 違う。これは「記録」だ。「愛の証」だ。


 私はそのコメントをブロックした。


 画面から、そのアカウントが消える。


 残ったのは、温かいコメントだけ。


 これでいい。


 その夜、私はスマホでカメラの映像を確認しながら眠りについた。


 画面の中の廊下は、静かだった。チャイは隅で丸まったまま、動かない。


 ユウは――まだ映らない。


 でも、きっとそのうち映る。そう信じて、私は目を閉じた。


 スマホを握りしめたまま。


 夢を見た。


 階段を降りるユウの背中。


「待って、ユウ君」


 私は必死で腕を掴む。


「どこに行くの? 私を置いていくの?」


 ユウが振り返る。その顔は――疲れ切っていた。


「ミナト、もう限界なんだ」


「何が? 私、何かした?」


「君は……君は、僕を愛してるんじゃない。『愛される自分』を愛してるだけだ」


 違う。そんなことない。


「私はユウ君だけを愛してる。だから、他の誰とも話さないで。私だけを見て」


「それが、もう無理なんだよ」


 ユウが階段を降りようとする。私は腕を掴む。強く。もっと強く。


「離して、ミナト」


「嫌だ。絶対に離さない」


 もみ合いになる。


 そして――


 ユウの体が、バランスを崩す。


 階段を、転げ落ちていく。


 ゴトン、ゴトン、ゴトン。


 最後に聞こえたのは、鈍い音。


 階段の下で、ユウが倒れている。血が流れている。


 でも、ユウは笑っていた。いや、笑っているように見えた。そう見えなければ、私は――


 目が覚めた。


 全身が汗でびっしょりだった。心臓が早鐘を打っている。


 夢だ。ただの夢。


 ユウは事故で死んだ。私は何もしていない。何も。


 スマホを握る手が震える。画面を見ると、カメラの映像が映っている。


 廊下には――


 何もいない。


 チャイもいない。


 どこに行ったんだろう。


 私は慌ててベッドから飛び降りた。寝室のドアを開けると、そこに――


 チャイがいた。


 ドアの前に、じっと座って、私を見上げていた。


 まるで、「廊下に行かせないため」に見張っているかのように。


「チャイ……?」


 チャイは鳴かなかった。ただ、じっと私を見つめている。


 その目には、諦めと、絶望と、そして――わずかな希望のようなものが残っていた。


 まるで、「まだ引き返せる。今ならまだ」と言っているかのように。


 でも、私にはそれが理解できなかった。


「お腹空いたの?」


 チャイは首を横に振るような仕草をした。いや、気のせいだ。猫が首を振るわけがない。


 私はチャイを抱き上げようとしたが、チャイは素早く逃げた。廊下の隅へ。


 そして、またじっと私を見つめる。


 スマホが震えた。


 新しい通知。500いいね。


 ああ。この感覚。


 脳に蜜が注がれる。チャイのことなんて、どうでもよくなる。


 私はスマホの画面に没入した。


 翌朝、私は録画された映像を見返していた。


 深夜2時から3時の映像。


 廊下には、誰もいない。チャイは映っていない。


 ただ、時々、寝室のドアが少しだけ開いて、チャイの顔が覗く。廊下を確認して、またドアが閉まる。


 まるで、何かが廊下に来ないか、見張っているかのように。


 でも、廊下には何も来ない。


 私が期待していた「ユウの姿」は、どこにも映っていなかった。


 失望が、胸を締め付ける。


 でも、すぐにスマホが震えた。


 アヤノからの着信だった。


 アヤノ。


 ユウと私が付き合っていた頃から知っている、元同僚。ユウの友人でもあった。


 ユウが死んでから、何度か連絡をくれていたけど、私は返事をしていなかった。


 だって、アヤノは私のことを理解してくれない。「ユウは事故だった」と言っても、何か疑うような目で見てくる。


 でも、今日は何となく、電話に出てしまった。


「もしもし」


「ミナト! やっと出てくれた」


 アヤノの声は、安堵と心配が混じっていた。


「最近、SNS更新しすぎじゃない? 大丈夫?」


「大丈夫だよ。みんなが応援してくれてるし」


「みんなって……フォロワーのこと?」


「そうだよ。みんな優しいの。ユウのことも、理解してくれてる」


 電話の向こうで、アヤノが深くため息をついた。


「ミナト、ユウのこと、本当に覚えてないの?」


「何のこと?」


「あの日、階段で何があったか」


 心臓が止まりそうになった。


「事故だったよ。ユウが階段から落ちて――」


「ミナト、嘘をつかないで」


 アヤノの声が、厳しくなる。


「ユウは私に言ってたんだ。『ミナトの束縛が、もう限界だ』って。『どこに行くにも監視される。誰と話しても嫉妬される。もう耐えられない』って」


「そんなこと――」


「あの日、ユウは別れを切り出すつもりだったんだよ。マンションを出て、しばらく距離を置こうって」


 違う。


 ユウは私を愛していた。


「でも、あなたが階段で引き止めた。もみ合いになって、ユウが落ちた」


「違う!」


 私は叫んでいた。


「ユウは私を愛してた。私たちは幸せだった。あなたが嫉妬してるだけ」


「嫉妬? ミナト、私は――」


「もういい。電話、切るね」


「待って、ミナト! あなた、このままじゃ――」


 私は電話を切った。


 スマホを床に叩きつけたくなる衝動を、必死で抑える。


 震える手で、廊下に向かった。


「ユウ君、愛してるよ」


 誰もいない空間に向かって、私は呼びかけた。


 返事はない。


「ねえ、ユウ君。私のこと、愛してるよね」


 沈黙。


 でも、私は待つ。


 そして――


「愛してる」


 私自身の口から、その言葉が出た。


 声色を変えて。少し低く。ユウの声に似せて。


「私もだよ、ミナト」


 また、私の口から。


 涙が溢れた。


 ほら、ユウは愛してくれてる。アヤノが何を言おうと、これが真実だ。


 廊下の隅で、チャイが私を見ていた。


 その目には――もう何も残っていなかった。


 諦め。完全な諦め。


 そして、チャイは立ち上がった。


 ゆっくりと、私に向かって歩いてくる。


 いつもなら逃げるのに、今日は違った。


 チャイは私の足元まで来て、見上げた。


 その目に、最後の何かが光った。


 そして――


 チャイが飛びかかってきた。


「痛っ!」


 鋭い爪が、私の腕を引っ掻いた。


 血が滲む。テグスの傷に重なって、新しい傷が刻まれる。


「やめて、チャイ!」


 チャイは止まらなかった。


 もう一度、飛びかかってくる。今度は顔を狙って。


 私は咄嗟に腕で顔を庇った。爪が腕に食い込む。


「何するの! ユウ君が怒ってるの!?」


 チャイは私を睨んでいた。


 その目には、涙のようなものが浮かんでいた。


 猫が泣くわけがない。でも、確かに何かが光っていた。


 それは、怒りでも、憎しみでもなく――


 悲しみだった。


 深い、深い悲しみ。


 まるで、「もう手遅れだ」と言っているかのような。


 チャイは、もう一度だけ私を見て、それから廊下の隅に戻った。


 丸くなって、もう動かない。


 私の腕からは、血が滴り落ちていた。


 でも、痛みよりも先に来たのは――


 スマホの通知音だった。


 私は腕の傷を適当に拭いて、スマホを取り出した。


 新しいコメントが来ている。


『ミナトさん、大丈夫ですか? 最近、顔色悪く見えます』


 顔色?


 私は洗面所に向かった。


 鏡を見る。


 そこに映っていたのは――


 痩せ細った女。


 目の下には深いクマ。頬はこけて、唇は血の気がない。


 髪はパサついて、肌は荒れている。


 腕には、無数の傷。テグスの傷と、チャイの引っかき傷と、自分でも覚えていない傷。


 首筋には――


 何かが食い込んでいるような、赤い線。


 これが、私?


 違う。これは違う。


 私はスマホを取り出して、自撮りモードにした。


 フィルターを選ぶ。「美肌」「明るさ補正」「小顔効果」。


 画面の中の私は――


 綺麗だった。


 肌は滑らかで、目は輝いていて、笑顔が自然だった。


 傷は消えている。クマも消えている。


 これだ。これが「本当の私」だ。


 鏡に映っているのは、偽物だ。現実じゃない。


 私はスマホの画面を見つめた。


 ここに映っているのが、真実。


 私は写真を撮った。何枚も、何枚も。


 そして、一番「幸せそう」に見える写真を選んで、投稿した。


『ユウ君と毎日幸せです♡ みんな、応援ありがとう!』


 投稿ボタンを押す。


 すぐに、通知が鳴り始めた。


 震える。震える。止まらない。


『可愛い!』

『幸せそう!』

『ミナトさん、本当に愛されてますね』


 そう。私は愛されている。


 ユウが愛してくれている。


 フォロワーが愛してくれている。


 だから、鏡に映る「やつれた女」は、私じゃない。


 脳に蜜が注がれる。全身が痺れる。


 首筋の糸が、さらに締まる。


 でも、気持ちいい。


 この感覚があれば、他には何もいらない。


 その夜、私はカメラの録画を確認していた。


 昼間の映像。


 廊下に私が立っている。


「ユウ君、愛してるよ」


 私の声。


 そして――


「愛してる」


 また私の声。低く、ユウの真似をして。


「私もだよ、ミナト」


 画面の中の私は、一人で会話をしていた。


 誰もいない廊下で。


 そして、涙を流していた。


 その姿は――


 狂っていた。


 客観的に見れば、完全に狂っていた。


 でも、私は笑った。


 だって、ユウは確かにそこにいた。私には聞こえたんだから。


 カメラに映らないだけ。


 それから、チャイが私に飛びかかるシーン。


 画面の中のチャイは、必死だった。


 爪を立てて、何度も、何度も、私を引っ掻く。


 まるで、「目を覚ませ」と言っているかのように。


 でも、私は理解しなかった。


「ユウ君が怒ってるの!?」


 画面の中の私は、そう叫んでいた。


 チャイの最後の警告を、完全に誤解していた。


 録画を止める。


 でも、もう一度、深夜の映像を見返した。


 チャイが寝室のドアの前で見張っているシーン。


 私は気づいていなかった。


 チャイは、私を廊下に行かせないようにしていたんだ。


 なぜ?


 廊下に、何かあるの?


 いや、違う。


 廊下には何もない。


 ただ、廊下に行く「私」が危険なんだ。


 一人で会話をして、テグスで自作自演して、現実と虚構の区別がつかなくなっている「私」が。


 チャイは、それを止めようとしていた。


 でも、私は理解しなかった。


 そして、チャイは諦めた。


 スマホが鳴った。


 アヤノからのメッセージだった。


『ミナト、まだあの部屋に住んでるの? 引っ越した方がいい。あの部屋には、ユウの死の記憶が染み付いてる。あなたを壊してる』


 私はメッセージを読んで、すぐにブロックした。


 アヤノは私の幸せを妬んでいるだけ。


 ユウと私の愛を、理解できないだけ。


 でも、メッセージの最後の一文が、頭に残った。


『ユウが死んだのは事故じゃない。あなたを守ろうとして、階段から――』


 違う。


 ユウは私を愛していた。


 私を守るために死んだんじゃない。


 私と一緒にいたくて、でも階段で足を滑らせて――


 いや、違う。


 私が、腕を掴んで、もみ合いになって――


 違う、違う、違う。


 考えたくない。


 私はスマホを握りしめた。


 通知を確認する。新しい「いいね」。600。


 脳が痺れる。蜜が注がれる。


 嫌な記憶が、甘い快感で上書きされていく。


 これでいい。


 これが正しい。


 深夜、私はまた廊下に立っていた。


 カメラが、私を撮影している。


 でも、もう気にしない。


 カメラに何が映っていようと、私には私の真実がある。


「ユウ君」


 呼びかける。


 返事はない。


 でも、私は待つ。


 そして、自分の声で答える。


「ここにいるよ、ミナト」


 涙が溢れる。


「ずっと一緒だよね」


「ずっと一緒だよ」


 私は廊下で、一人で会話を続けた。


 テグスを握りしめた手からは、血が滴る。


 首筋の見えない糸は、さらに食い込む。


 でも、気づかない。


 ただ、スマホの通知音だけが、私を現実に繋ぎ止めていた。


 いや、違う。


 スマホの通知音だけが、私を「虚構」に繋ぎ止めていた。


 そして、私はもう、どちらが現実なのか分からなくなっていた。


 翌朝、私はSNSを開いた。


 昨夜投稿した自撮り写真に、1,000いいねがついていた。


 1,000。


 この数字を見た瞬間、全身が震えた。


 脳が爆発しそうなほどの快感。


 これだ。これが欲しかった。


 コメント欄を開く。


『ミナトさん、輝いてる!』

『幸せそうで良かった!』

『ユウさん、きっと喜んでますね』


 でも、その中に一つだけ、違うコメントがあった。


『ミナトさん、首に変な線ありませんか? 大丈夫ですか?』


 首の線?


 私は鏡を見た。


 確かに、首筋に赤い線が走っている。


 まるで、何かに締め付けられているかのような。


 でも、触っても何もない。


 きっと、寝違えただけ。


 私はそのコメントをブロックした。


 そして、新しい投稿を準備する。


 今日は、チャイとユウが遊んでいる動画を撮ろう。


 私はテグスを手に取った。


 指の傷が開いて、血が滲む。


 でも、痛みは快感に変わる。


 これが「愛の証」だから。


 廊下に立つ。


 チャイは、もう隅で動かない。


 目を閉じて、呼吸も浅い。


 でも、私は気づかない。


「チャイ、ユウ君が遊びたいって」


 テグスを揺らす。


 チャイは反応しない。


「ねえ、チャイ。お願い」


 もっと強く揺らす。


 血が滴る。


 チャイが、ゆっくりと目を開けた。


 その目には、もう何も残っていなかった。


 生きる気力も、怒りも、悲しみも。


 ただ、空っぽ。


 でも、チャイは立ち上がった。


 最後の力を振り絞って。


 そして、テグスに向かって、前足を伸ばした。


 私は録画ボタンを押した。


「そう、いい子だね」


 チャイの体が、ふらついている。


 でも、私は気づかない。


 カメラの画面しか見ていないから。


 撮影が終わると、チャイは崩れるように倒れた。


 でも、私は動画の編集に夢中だった。


 フィルターをかける。明るさを上げる。


 完璧だ。


 投稿する。


 すぐに、通知が鳴り始める。


 震える。痺れる。


 脳に蜜が注がれる。


 首筋の糸が、きつく締まる。


 でも、気持ちいい。


 これが、私の幸せ。


 廊下の隅で、チャイが小さく鳴いた。


 それは、最後の声だった。


 でも、私には聞こえなかった。


 スマホの通知音しか、もう聞こえなかったから。


【第2話 終】

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