エピローグ レンズの向こうにある、本物の輝き
「カット! OK、素晴らしい!」
俺の声がスタジオに響き渡ると同時に、張り詰めていた空気がふわりと緩んだ。
数十人のスタッフが一斉に動き出し、「お疲れ様でした!」という声が各所で交わされる。
ここは都内最大級の撮影スタジオ。天井高十メートルの巨大な空間には、複雑に組まれたセットと、数え切れないほどの照明機材が配置されている。
俺の目の前にあるモニターには、今撮り終えたばかりの映像が静止画として映し出されていた。
大手飲料メーカーの新商品CM。その総監督を任されているのが、今の俺、相沢健太だ。
「相沢さん、今のテイク、照明のバランス最高でしたね。商品のシズル感が半端ないです」
照明技師のチーフが、満足げな笑顔で歩み寄ってくる。
「ありがとうございます。やっぱり、あそこでサイドからの光を少し絞ったのが正解でしたね。水滴の輝きが際立ちました」
「いやあ、相沢さんの指示が的確だったからですよ。最初のリテイクの判断、正直迷いましたけど、結果的に大正解でした」
俺は「いえいえ」と謙遜しながらも、胸の奥で確かな手応えを感じていた。
かつて、狭いワンルームマンションで、たった一台の安物カメラとPCに向き合っていた頃とは、何もかもが違う。
ここには、俺のビジョンを共有し、それを実現するために全力を尽くしてくれるプロフェッショナルな仲間たちがいる。
俺の頭の中にあるイメージが、多くの人の手を介して、現実の映像として具現化されていく快感。それは何物にも代えがたいものだった。
「相沢先輩、お疲れ様です! モニターチェック用の予備データ、バックアップ完了しました!」
元気な声と共に駆け寄ってきたのは、アシスタントディレクターの水瀬陽葵(みなせ ひまり)だ。
肩まである黒髪を後ろで一つに束ね、動きやすいパンツスーツに身を包んでいる。手にはタブレットと、大量のメモが挟まれたバインダーを抱えている。
彼女はこの業界に入ってまだ二年目だが、驚くほど優秀で、何より映像に対する情熱が凄まじい。
俺の細かい、時には無茶とも言える指示を完璧に理解し、現場を走り回ってくれる頼もしい相棒だ。
「ありがとう、水瀬。早いな」
「先輩のバックアップへの執着は、もう嫌というほど叩き込まれてますから!」
水瀬は悪戯っぽく笑った。
そう、バックアップ。それは俺にとって、ある種のトラウマであり、同時に最大の武器でもあった教訓だ。
かつて俺は、自分の作品のデータを奪われ、消去されそうになった経験がある。
あの時の絶望と、隠し持っていたバックアップによって逆転した経験が、今の俺の徹底したリスク管理意識の根底にある。
「データは命だからな。……失ってからじゃ、取り返しがつかない」
「はい! 肝に銘じます!」
水瀬は俺の言葉の重みを、どこまで知っているのだろうか。
彼女は俺が以前、『みなみごはん』というチャンネルの裏方をしていて、そこで壮絶なトラブルに巻き込まれたことを知っている。
業界内でもその話は有名で、俺が「著作権を行使して悪質なインフルエンサーを社会的に抹殺した男」として噂されていることも知っているはずだ。
それでも彼女は、そんなゴシップには興味を示さず、あくまで「映像ディレクター・相沢健太」として俺を見てくれている。
「さて、撤収作業が終わったら、今日は解散にしよう。みんな連日の撮影で疲れてるだろうし」
「了解です! あ、先輩。もしよかったら、この後少しだけ時間ありますか? 次のコンテの件で、相談したいことがあって……」
「ああ、いいよ。じゃあ、近くのカフェでも行こうか」
俺たちはスタジオを出て、秋の風が吹く街へと歩き出した。
◇
スタジオ近くのオープンカフェ。
テラス席に座り、コーヒーを飲みながら、俺たちは次のプロジェクトの絵コンテを広げていた。
「ここの導入部分なんですけど、もう少しテンポを速くした方が、若年層の視聴維持率が上がると思うんです。でも、そうすると商品の説明がおろそかになっちゃう気がして……」
水瀬は真剣な表情で、タブレット上のグラフとコンテを見比べている。
俺は彼女の指摘に頷きながら、赤ペンで修正案を書き込んだ。
「確かにその通りだね。じゃあ、説明はナレーションじゃなくて、視覚的なモーショングラフィックスで処理しよう。そうすればテンポを崩さずに情報を伝えられる」
「なるほど! グラフィックで見せるんですね。……すごいです、先輩。いつも私が悩んでるところを、スパッと解決してくれて」
「経験の差だよ。俺も昔は、どうすれば視聴者を飽きさせないか、毎日そればかり考えてたから」
ふと、過去の記憶が蘇る。
美奈の動画を作っていた頃。
料理が下手で、トークもつまらない彼女を、どうやって魅力的に見せるか。
一秒単位でカットを割り、テロップの色やフォントを研究し、効果音のタイミングを調整する。
それはまるで、欠けた石ころを必死に磨いて、ダイヤモンドに見せかけるような作業だった。
当時はそれが「愛情」だと思っていた。彼女のためなら、どんな苦労も厭わなかった。
だが、それは間違いだった。
俺が磨いていたのは彼女自身ではなく、俺が作り出した「虚像」だったのだ。
「先輩? どうしました?」
水瀬の声で我に返る。
彼女が心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
「あ、いや。昔のことをちょっと思い出してただけ」
「昔のこと……あの、『みなみごはん』のことですか?」
彼女は少し躊躇いながら、その名前を口にした。
俺は苦笑して頷く。
「まあね。あの頃は、映像を作るのが『義務』みたいになってたんだ。彼女を輝かせなきゃいけない、失敗させちゃいけないって、そればかり考えてた」
「……今の先輩の映像からは、そんな義務感は感じませんよ」
水瀬は真っ直ぐな瞳で俺を見た。
「先輩の作る映像は、被写体へのリスペクトと、見ている人を楽しませたいっていう『愛』に溢れてます。だから私、先輩の作品が大好きなんです」
その言葉は、温かいスープのように俺の心に染み渡った。
美奈は俺の編集を「古臭い」と言った。西園寺蓮は「ダサい」と嘲笑った。
でも、今の俺の技術を、情熱を、こうして正面から肯定してくれる人がいる。
「利用するため」の言葉ではなく、純粋な感想として。
「ありがとう、水瀬。そう言ってもらえると、救われるよ」
「えへへ、本心ですから」
水瀬は照れくさそうに笑い、コーヒーカップを口に運んだ。
その時、通りの向こう側を歩く一組のカップルが目に入った。
派手な服を着た若い女性が、スマホを見ながら大声で文句を言っている。隣を歩く男性は、大量の買い物袋を持たされ、困ったような顔で彼女の機嫌を伺っていた。
「ねえ、写真撮るの下手すぎ! これじゃインスタ載せられないじゃん!」
「ご、ごめん。もう一回撮るよ」
「あーもう、いい! ほんと使えない!」
かつての俺と美奈を見ているようだった。
あの頃の俺は、あんな風に罵られても、それが自分の役割だと信じ込んでいた。彼女に尽くすことが自分の存在意義だと錯覚していた。
だが、今の俺は違う。
あのカップルを見ても、同情こそすれ、心が痛むことはない。
俺はもう、あの呪縛から完全に解放されたのだ。
「……そういえば、風の噂で聞きましたけど」
水瀬が視線の先に気づいたのか、小さな声で言った。
「あの人たち……佐々木さんと西園寺さん、結構大変みたいですね」
「ああ、みたいだな」
俺は淡々と答えた。
週刊誌やネットニュースで、彼らの末路は嫌でも目に入ってくる。
美奈は多額の借金を背負い、夜の世界に沈んだ。西園寺蓮は業界を追放され、前科者として日陰の道を歩んでいる。
彼らは自らの欲望のために他人を踏みつけにし、その報いを受けた。
「ざまぁみろ」という感情は、もう薄れていた。
今の俺にあるのは、ただの「事実」としての認識だけだ。
彼らがどうなろうと、俺の人生にはもう何の影響もない。
憎しみ続けることすら、彼らにエネルギーを使うことすら、今の俺にはもったいない。
「因果応報、ですかね」
「そうかもしれない。でも、俺にとってはもう終わったことだよ。彼らのおかげで、今の俺があるとも言えるしね」
それは強がりではなく、本心だった。
あの裏切りがなければ、俺はずっと美奈の影として、狭い世界で飼い殺しにされていただろう。
あの痛みがあったからこそ、俺は自分の足で立ち、自分の名前で勝負する覚悟を持てた。
彼らは俺を傷つけた加害者だが、同時に、俺をこの広い世界へと押し出してくれたきっかけでもあったのだ。
「先輩、強いですね」
「強くなんかないよ。ただ、前に進むしかなかっただけさ」
俺は飲み干したカップを置いた。
そうだ。俺にはやるべき仕事がある。見たい景色がある。
過去の亡霊に囚われている暇はない。
「よし、行こうか。明日は朝早いぞ」
「はい!」
俺たちは席を立ち、夕暮れの街へと歩き出した。
ビルのガラスに映る俺たちの姿は、かつての惨めな俺とは違い、背筋が伸びて、確かな足取りで未来へと向かっていた。
◇
その夜。
俺は自宅のキッチンに立っていた。
以前住んでいたワンルームとは比べ物にならない、広々としたシステムキッチンだ。
冷蔵庫から食材を取り出し、包丁を握る。
トントントン、と軽快な音が響く。
今夜のメニューは、オムライスだ。
かつて『みなみごはん』の代名詞だった料理。そして、美奈が「レベルアップ」と称した動画で失敗し、俺のストック動画を盗んでまで公開した因縁の料理。
フライパンにバターを溶かし、鶏肉と玉ねぎを炒める。
香ばしい香りが立ち上る。
ケチャップライスを作り、別のフライパンで卵を焼く。
強火で一気に、かつ繊細に。箸でかき混ぜながら、半熟のトロトロ加減を見極める。
以前は、これを「美奈が作ったこと」にするために、カメラアングルや映り込みに細心の注意を払っていた。
「私が作ったの!」という彼女の嘘を成立させるために、俺は黒子として息を潜めていた。
でも、今は違う。
誰も見ていない。カメラも回っていない。
ただ、俺が俺のために作る、俺の料理だ。
「よし」
皿に盛ったチキンライスの上に、ふわふわの卵を乗せる。
ナイフを入れると、卵が左右に開き、黄金色の中身がとろりと溢れ出した。
完璧な仕上がりだ。
これこそが、俺が追い求めていた「本物」だ。
加工も、演出も、嘘もない。ただそこにある、確かな技術と味。
俺はダイニングテーブルに座り、スプーンを手に取った。
静かな部屋。誰の声もしない。
でも、寂しさはなかった。
ここには自由がある。自分の時間を、自分のために使える贅沢がある。
「いただきます」
一口食べる。
バターの風味と卵の甘み、ケチャップライスの酸味が口いっぱいに広がる。
美味い。
今まで食べたどのオムライスよりも、美味く感じた。
それはきっと、これが「自由の味」だからだろう。
スマホが震えた。
画面を見ると、水瀬からのメッセージだった。
『先輩! さっき話してたコンテの修正案、もう一つ思いついちゃいました! 明日また聞いてもらってもいいですか?』
続いて、可愛らしいスタンプが送られてくる。
俺は思わず口元を緩めた。
仕事熱心すぎる後輩。でも、そんな彼女とのやり取りが、今の俺には心地よかった。
『もちろん。楽しみにしてるよ』
そう返信して、スマホを置く。
俺の人生は、これからだ。
映像ディレクターとして、もっと多くの作品を生み出していきたい。
いつか映画も撮ってみたいし、海外の賞にも挑戦してみたい。
夢は無限に広がっている。
かつて俺は、一人の女性を輝かせることだけに人生を捧げていた。
それはそれで美しい時間だったかもしれないが、あまりにも狭く、脆い世界だった。
今、俺の目の前には、無限の可能性というキャンバスが広がっている。
そこにどんな色を塗り、どんな物語を描くかは、全て俺次第だ。
レンズの向こうにあるのは、加工された虚像の輝きじゃない。
俺自身の努力と才能で掴み取った、本物の輝きだ。
俺は最後のひと口を口に運び、深く満足のため息をついた。
明日はまた、新しい現場が待っている。
最高の映像を撮りに行こう。
俺の、俺たちだけの物語を紡ぐために。
「ごちそうさまでした」
空になった皿をシンクに運び、俺は窓の外を見上げた。
東京の夜景が、宝石箱のようにきらめいている。
その光の一つ一つが、俺を祝福してくれているように見えた。
俺はもう、誰かの影ではない。
相沢健太という一人の主人公として、この光の中で生きていくのだ。
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