サイドストーリー 偽りの女神、堕ちる
紫色のネオンサインがチカチカと点滅する、薄暗い待機室。
湿気を含んだカビ臭い空気と、安っぽい香水の匂いが混じり合った独特の空間で、私はパイプ椅子に座り、スマートフォンをぼんやりと眺めていた。
画面の左上には、ヒビが入っている。先週、酔っ払った客に投げつけられた時にできた傷だ。修理に出す金なんてない。今の私には、明日の食事代すら怪しいのだから。
「美奈ちゃん、指名入ったよー。準備して」
無愛想なボーイの声に、私は「はーい」と力なく返事をした。
鏡を見る。そこには、かつて「清楚系インフルエンサー」として五十万人のファンに愛された佐々木美奈の面影は、もうどこにもなかった。
肌は荒れ、目の下にはクマができ、厚化粧で必死に隠している。髪はパサつき、かつての艶やかな栗色の輝きはない。
私が今いるのは、表社会から弾き出された人間が行き着く吹き溜まりのような風俗店だ。
数ヶ月前まで、私は光の中にいたはずなのに。どうしてこんなことになってしまったのだろう。
スマホの画面には、ニュースアプリの通知が表示されていた。
『天才映像作家・相沢健太、国際的な広告賞を受賞』
その名前を見た瞬間、心臓が焼けるような痛みに襲われた。
健太。
私の元カレであり、私を輝かせてくれていた魔法使い。
そして、私が裏切り、踏みつけにし、捨てた男。
画面の中の彼は、自信に満ちた表情でトロフィーを掲げている。その隣には、彼を支える優秀そうなスタッフたちが笑顔で並んでいた。
かつて、その隣にいたのは私だった。
あの場所は、私のものだったはずなのに。
◇
時計の針を少し巻き戻そう。
あの日、私は世界の頂点にいた。
私のチャンネル『みなみごはん』の登録者数が五十万人を突破した夜。私は有頂天だった。
スマホの通知は止まらない。
『おめでとう!』『みなみちゃん可愛い!』『憧れます!』
数え切れないほどの賞賛の言葉。それら全てが、私という人間の価値を証明しているように思えた。
私は特別なんだ。私は愛されているんだ。私の笑顔一つで、これだけの人が動くんだ。
その一方で、隣にいる健太のことが、急に色褪せて見え始めた。
彼は地味で、真面目すぎる。
「美奈、明日の撮影の段取りだけど……」「コメントへの返信は丁寧にしないと……」
口を開けば仕事の話ばかり。私の成功を一緒に祝うよりも、次の動画のクオリティを気にしている。
そんな彼が、私の華やかな世界にふさわしくない「ノイズ」のように感じられた。
もっと刺激的で、もっと私を高い場所へ連れて行ってくれる人がいるはずだ。
そう思っていた時に現れたのが、西園寺蓮だった。
蓮は健太とは正反対だった。
派手で、強引で、自信満々。「俺と組めばもっと稼げる」「お前の魅力をもっと引き出せる」と、甘い言葉を囁いてくれた。
彼の隣に並ぶと、自分がドラマのヒロインになったような気分になれた。
健太の作る動画は確かに丁寧だったけど、どこか古臭くて地味だった。蓮の言う通り、もっと派手な編集や企画をやれば、私は登録者百万人だって夢じゃない。
そう信じてしまったのだ。
だから私は、健太を捨てた。
何の迷いもなかった。むしろ、今まで私の才能に寄生していた彼を切り捨てて、「自由」になれたとさえ思っていた。
「健太、私たちもう終わりにしない?」
あの時の健太の顔。呆然として、傷ついたような表情。
それを見ても、私の心は痛まなかった。むしろ、「やっと分かってくれた?」という安堵感すらあった。
蓮と一緒に彼をスタジオから追い出し、彼の機材とデータを奪った時も、私は勝ち誇っていた。
「これで全部私のものだ」
健太の技術も、努力の結晶も、これからは私が自由に使える資産になる。そう思っていた。
なんて愚かだったんだろう。
資産だと思っていたものが、彼がいなければただの「ガラクタ」でしかないことに、当時の私は気づいていなかったのだ。
地獄の入り口は、すぐに口を開けた。
蓮との「新生みなみごはん」の活動は、最初から破綻していた。
まず、料理ができない。
これまでは健太が下ごしらえから火加減まで完璧に管理してくれていたから、私は最後にパセリを散らして「完成!」と言うだけでよかった。
でも、蓮は何もしてくれない。
「おい、もっと美味そうに作れよ」とカメラ越しに命令するだけ。
焦げ付くフライパン、生焼けの肉、盛り付けの汚さ。
それを誤魔化そうと蓮が派手なエフェクトをかけるけど、それが余計に料理の不味さを際立たせていた。
「なにこれ……全然可愛くない……」
完成した動画を見て、私は愕然とした。
画面の中の私は、青白い顔をしていて、引きつった笑顔を浮かべている。音声は割れているし、編集のテンポも悪い。
コメント欄には「前の方が良かった」「劣化してる」という言葉が並ぶ。
私は怖くなった。魔法が解けていくのが分かったからだ。
でも、蓮は認めようとしなかった。
「アンチの仕業だ」「健太の信者が荒らしてる」と責任転嫁し、私にもそう思い込ませた。
私もそれに縋った。「私は悪くない、健太のせいだ」と自分に言い聞かせないと、精神が崩壊しそうだったから。
そんな時、健太が残していったストック動画を見つけた。
再生した瞬間、涙が出そうになった。
そこには、完璧に美しい私がいた。
柔らかい光に包まれ、手際よく(見えるように編集されて)料理をし、幸せそうに微笑む私。
料理の湯気一つ、BGMのタイミング一つとっても、全てが完璧に計算されている。
「……すごい」
悔しいけれど、認めざるを得なかった。健太の動画は、私を一番美しく見せる魔法そのものだったのだ。
「これを使おう」
蓮がそう言った時、私は一瞬躊躇したけど、すぐに頷いた。
これさえ出せば、ファンは戻ってくる。アンチも黙る。
私の人気は復活する。
そう信じて、私たちはその動画をアップロードした。
結果は予想通りだった。再生数は伸び、称賛のコメントが溢れた。
私は安堵した。やっぱり私は輝けるんだ。健太がいなくても、素材さえあれば私は大丈夫なんだ。
それが、破滅へのカウントダウンだとも知らずに。
◇
あの日。
私のスマホに届いた一通のメールが、世界を反転させた。
『アカウント停止のお知らせ』
意味が分からなかった。手が震えて、スマホを落としそうになった。
私のチャンネルが消えている。五十万人のフォロワーが、過去の動画が、私の生きてきた証が、全て消滅してしまった。
理由は「著作権侵害」。
健太だ。彼がやったんだ。
あの大人しくて、私の言うことなら何でも聞いてくれた健太が、こんな容赦のない報復をしてくるなんて想像もしていなかった。
「蓮くん! どうしよう!」
私はパニックになり、蓮に助けを求めた。
彼は私の新しいプロデューサーで、彼氏で、私を導いてくれる王子様のはずだった。
でも、彼は私を冷たく突き放した。
「俺は知らねえよ。お前が勝手にやったんだろ?」
「え……?」
耳を疑った。
一緒に笑って、「これを使おう」と言ったのは彼だ。
私の背中を押して、共犯者になったのは彼のはずだ。
それなのに、彼は自分の保身のために私を切り捨てた。
「僕も騙されていました」
そんなタイトルの謝罪動画を出され、私は全ての罪を被せられた。
信じていた人に裏切られる痛みが、これほど鋭く、惨めなものだなんて知らなかった。
健太も、あの日こんな気持ちだったのだろうか。
因果応報という言葉が、頭の中でリフレインする。
そして、トドメの暴露動画。
私が料理をしていないこと、性格が悪いこと、ファンを馬鹿にしていたこと。
隠してきた醜い裏側が、全世界に晒された。
SNSは炎上し、私のスマホは通知で埋め尽くされた。
『死ね』『嘘つき』『詐欺師』
かつて「可愛い」と言ってくれた人たちが、今は私に石を投げつけてくる。
企業からは損害賠償の請求が届き、事務所からは解雇通知が来た。
家賃も払えず、タワマンを追い出され、行く当てもない。
私の手元に残ったのは、膨大な借金と、孤独だけだった。
「……健太なら」
雨の降る夜、私はボロボロの服を着て、健太のアパートの前に立っていた。
最後の希望だった。
彼なら許してくれるかもしれない。
彼は私に尽くしてくれていた。私を愛してくれていた。
私が泣いて謝れば、「仕方ないなぁ」と苦笑いして、また受け入れてくれるかもしれない。
そうすれば、また二人で動画を作れる。借金だってなんとかなるかもしれない。
そんな、虫のいい妄想を抱いていた。
ドアが開いた瞬間、私は彼の胸に飛び込もうとした。
でも、彼は冷たく身を引いた。
その目は、私が知っている優しい健太の目ではなかった。
汚いものを見るような、冷徹な他人の目。
「俺が好きだったのは、俺のカメラの中で輝いていた『作品としての佐々木美奈』だけだったんだ」
その言葉を聞いた時、私の心臓が凍りついた。
彼は私という人間を愛していたわけじゃなかった。
彼が愛していたのは、彼自身が作り上げた「虚像」だったのだ。
そして、その虚像を演じられなくなった中身のない私には、もう何の価値もないと、彼は宣告したのだ。
「中身のない今の君に、もう価値はないよ」
その言葉は、どんな罵詈雑言よりも深く、残酷に私を切り裂いた。
ドアが閉ざされる音。
ガチャリ、と鍵がかかる音。
それが、私の人生の終わりの音だった。
雨の中で泣き叫んでも、ドアは二度と開かなかった。
魔法使いは去り、私はただの、何も持たない、無力で愚かな女に戻ったのだ。
◇
「おい美奈! 早く行けよ!」
ボーイの怒鳴り声で、私は我に返った。
慌てて立ち上がり、作り笑顔を浮かべる。
「はい、ただいまー!」
待機室を出て、廊下を歩く。
ハイヒールの音がコツコツと響く。
これから会う客は、どんな人だろう。酒臭いおじさんか、乱暴な若者か。
誰でもいい。お金さえ払ってくれれば、私は誰にでも媚びる。
プライドなんて、とっくの昔に捨てた。
借金を返すためには、こうして体を売るしかないのだ。
店の廊下の壁に掛かったテレビモニターに、再び健太のニュースが映った。
授賞式のスピーチで、彼は穏やかに微笑んでいる。
『この賞は、僕を支えてくれたスタッフ、そして僕を信じてくれた全ての人たちのおかげです。過去のどんな経験も、今の僕を作る糧になっています』
過去の経験。
それは、私との日々のことも含まれているのだろうか。
私が彼を利用し、裏切ったあの日々さえも、彼は「糧」にして、さらに高く飛躍したというのか。
私は彼にとって、もう憎しみの対象ですらない。ただの通過点、踏み台になった石ころの一つに過ぎないのだ。
「……ずるいよ、健太」
涙が滲んで、視界が歪む。
あなたがいないと、私は何もできないのに。
あなたは私がいなくても、いや、私がいないからこそ、こんなに輝いている。
私があなたの足枷だったんだね。
私があなたを利用していたつもりで、実は私があなたに生かされていたんだね。
気づくのが遅すぎた。
本当に、何もかもが遅すぎた。
「美奈ちゃん、こっち」
個室のドアが開く。
中には、下卑た笑みを浮かべた男が座っている。
私は涙をぐっと飲み込み、営業用の安っぽい笑顔を顔に貼り付けた。
「初めましてぇ、美奈ですぅ。よろしくお願いしまぁす」
甘ったるい声を作る。
かつては五十万人を魅了した声。今は、たった一人の男の欲求を満たすためだけに使われる声。
ドアが閉まる。
健太の輝かしい姿が、閉ざされたドアの向こうに消える。
私は暗い部屋の中で、男の隣に座る。
ここが、今の私の居場所。
偽りの女神が堕ちた、冷たくて暗い、泥の底。
かつて私が捨てた「地味で退屈な幸せ」が、どれほど尊く、温かいものだったか。
それを思い知らされるためだけに、私はこれからも生きていくのだろう。
一生消えない後悔と共に。
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