サイドストーリー 偽りの王、泥に塗れる

「おい、そこの新人! 何ボサッとしてんだ! さっさとその資材運べよ!」


怒声と共に、ヘルメットを被った現場監督の唾が飛んでくる。

冷たい冬の風が吹き荒れる建設現場。薄汚れた作業着に身を包んだ俺、西園寺蓮は、凍える手で重い鉄パイプを握りしめていた。

手袋越しでも伝わってくる冷たさが、軍手を通して指先の感覚を奪っていく。かつて、最新のMacBookのキーボードを軽やかに叩き、数百万の金を動かしていたこの指が、今は泥と錆に塗れている。


「す、すみません……今やります」


力なく返事をして、俺はよろめきながら資材を肩に担いだ。

重い。肩に食い込む鈍い痛みが、今の俺の惨めな現実を突きつけてくる。

なぜだ。なぜ俺がこんなところにいる。

俺は選ばれた人間だったはずだ。数百万人の登録者を抱え、企業案件一つでサラリーマンの年収を軽く稼ぎ出し、女も金も思いのままにしていた「天才映像クリエイター」西園寺蓮だったはずだ。

それがどうして、日給一万円の日雇い労働者として、底辺を這いつくばっているんだ。


昼休憩のチャイムが鳴り、俺は逃げるように現場の隅にある喫煙所へ向かった。

コンビニで買った一番安いおにぎりをかじりながら、ポケットから画面のヒビ割れたスマホを取り出す。

回線も一番安いプランに変更したせいで、画像の読み込みすら遅い。

だが、それでも見えてしまう。

SNSのタイムラインに流れてくる、華やかな世界のニュースが。


『新進気鋭の映像ディレクター、相沢健太氏が手掛ける新作MVが公開初日でミリオン達成』


その見出しを見た瞬間、喉の奥から苦い胆汁のようなものがこみ上げてきた。

相沢健太。

かつて俺が「無能」「陰キャ」「ダサい」と見下し、嘲笑いながら切り捨てた男。

そいつが今、俺が喉から手が出るほど欲しかった地位と名声を手にしている。

そして俺は、その男によって全てを奪われ、このザマだ。


悔しい。憎い。

だが、それ以上に……あの時の自分の浅はかさと愚かさが、呪いのように俺を苛み続けている。

俺の人生が狂い始めたのは、間違いなくあの日――「清楚系インフルエンサー」佐々木美奈と出会い、彼女を俺のモノにしようと決めた、あの日からだった。


          ◇


数ヶ月前。俺は人生の絶頂にいた。

手掛ける動画は軒並みバズり、港区のタワーマンションに住み、夜な夜なモデルやインフルエンサーの女たちとパーティー三昧。

世の中の全てが俺を中心に回っていると本気で信じていた。

そんな俺の目に留まったのが、『みなみごはん』というチャンネルで急上昇していた佐々木美奈だった。

顔は抜群にいい。清楚で家庭的、男が理想とする「彼女」を具現化したような女。

だが、動画の編集は地味で古臭かった。


「もったいねえなあ。俺がプロデュースすれば、もっと化けるのに」


そう思った俺は、すぐに彼女に接触した。DMを送れば、反応はすぐに来た。彼女のような承認欲求と上昇志向の強い女は、俺のような「格上」の誘いを断らない。

数回の高級ディナーと、甘い言葉。そして俺のブランド力をちらつかせれば、彼女を落とすのは赤子の手をひねるより簡単だった。


唯一の障害は、彼女の「彼氏」兼「裏方」である相沢健太とかいう男だった。

一度会ったことがあるが、見るからに冴えない、地味な男だった。美奈の才能に寄生して、裏方気取りでへばりついているコバンザメ。俺はそう認識していた。

だから、排除することにした。

美奈を唆し、「あんな男と一緒にいたら君の価値が下がる」「俺なら君をもっと高いステージへ連れて行ける」と吹き込み、彼女自身の手で彼を捨てさせた。


あの日、スタジオで健太を追い出した時の高揚感は最高だった。

必死に作った機材やデータを「置いていけ」と言われた時の、あの男の絶望に歪んだ顔。

悔しさを押し殺して、何も言い返せずにすごすごと出ていく背中。

俺は勝ったのだと思った。

他人の努力を奪い取り、それを自分の踏み台にしてさらに高く跳ぶ。それが俺のやり方であり、勝者の特権だと信じて疑わなかった。


「へへっ、これで五十万人の登録者は俺たちのモンだ。チョロいもんだぜ」


健太が出て行った後のスタジオで、俺は美奈の腰を抱きながらそう笑った。

美奈も「蓮くんのおかげで清々した!」と笑っていた。

俺たちは、自分たちが「王」と「女王」になった気でいた。

だが、その玉座が、健太という名の土台の上に辛うじて乗っていただけの、脆い砂上の楼閣だとは気づいていなかったのだ。


地獄の始まりは、健太がいなくなってすぐのことだった。

俺は意気揚々と編集作業に取り掛かった。俺のセンスで、あの地味な動画をスタイリッシュで最先端のものに生まれ変わらせてやる。そう意気込んでいた。

しかし、現実は甘くなかった。


「なんだよこれ……色が全然合わねえ! なんでこんなにノイズが乗るんだよ!」


編集ソフトの画面に向かって、俺は何度叫んだか分からない。

美奈の肌の色が綺麗に出ない。料理が美味しそうに見えない。カットのテンポが悪い。

俺が得意としていたのは、派手なテロップと効果音で強引に押し切るバラエティ動画だ。繊細な色調整や、視聴者の食欲を刺激するような「間」の取り方が求められる料理動画とは、勝手が違いすぎた。


「ねえ蓮くん、まだ? 今日の投稿時間に間に合わないよ?」

「うるせえ! 今やってんだよ!」


美奈からの催促に苛立ちが募る。

さらに、撮影現場もカオスだった。

これまでは健太が全ての準備を整えていたらしいが、俺にはそんな知識はない。美奈も美奈で、「私は座って喋るだけ」というスタンスを崩さない。

結果、段取りはグダグダ、料理は失敗続き、現場の空気は最悪。

それでもなんとか動画を一本作り上げて公開したが、結果は散々だった。


『編集見にくい』

『画質落ちた?』

『料理まずそう』


プライドの高い俺にとって、そのコメントの数々は耐え難い屈辱だった。

俺のセンスが否定されたんじゃない。素材(美奈)と環境が悪いんだ。俺は悪くない。

そう自分に言い聞かせながらも、焦りは日に日に増していった。

再生数は落ち込み、クライアントからは「クオリティが下がっている」と苦言を呈された。

このままではマズい。俺のブランドに傷がつく。


そんな時、デスクトップの片隅に見つけたのが、健太が置いていったHDDだった。

中には、彼が完成間近まで仕上げていたストック動画が入っていた。

再生してみると、悔しいほどに完成度が高かった。

美奈の笑顔は輝き、料理は湯気を立てて美味しそうに映っている。

俺が何十時間かけても到達できなかったクオリティが、そこにはあった。


「……これだ」


悪魔の囁きが聞こえた気がした。

これを俺の名前で出せばいい。少しテロップを変えて、俺のロゴを入れれば、誰も気づかないだろう。

健太はどうせ何も言ってこない。あんな気弱そうな男だ、泣き寝入りするに決まっている。

それに、元カレのデータを彼女が使うことの何が悪い? 手切れ金代わりに置いていったんだから、所有権はこちらにあるはずだ。


俺は躊躇なく、その動画を自分の作品としてアップロードした。

結果は即座に出た。再生数は爆発的に伸び、コメント欄は称賛で埋め尽くされた。

俺は安堵すると同時に、歪んだ優越感に浸った。

ざまあみろ健太。お前の作品は、俺の名前で世に出ることで初めて価値を持ったんだ。お前はただの下請け、俺がその手柄を頂戴してやる。

そう思っていた。

あの警告メールが届くまでは。


          ◇


『著作権侵害による申し立て』

その通知を見た時の衝撃は、頭をハンマーで殴られたようだった。

健太が動いた? あの陰キャが?

しかも、ただの削除要請じゃない。アカウント停止(BAN)を狙った徹底的な攻撃だ。

美奈のチャンネルが一瞬で消え去った時、俺は初めて底知れぬ恐怖を感じた。

奴は本気だ。俺たちを完全に潰しに来ている。


だが、俺にはまだ逃げ道があると思った。

俺のチャンネルは無事だ。美奈を切り捨てて、自分だけ被害者面をすれば助かる。

俺は即座に美奈を見捨てた。

泣きつく彼女を突き放し、「お前に騙された」というシナリオの謝罪動画を撮影した。

完璧な演技だったと思う。涙ながらに謝罪し、美奈に全責任を押し付ける。

これで信者たちは俺を擁護し、批判の矛先は美奈に向かうはずだ。

動画をアップロードし、俺は深く息を吐いた。

危なかった。だが、俺は生き残った。所詮、健太も美奈も、俺という天才の前では無力な雑魚に過ぎない。


そう確信して、冷えたコーヒーを飲もうとした時だった。

スマホが震えた。

SNSの通知が異常な速度で増えている。

嫌な予感がして画面を開くと、そこには健太が投稿した『暴露動画』が拡散されていた。


『西園寺蓮氏の「自分は知らなかった」という主張について』


指が震えて、再生ボタンがなかなか押せない。

ようやく再生された動画から聞こえてきたのは、他でもない俺自身の声だった。


『お前のデータは置いていけ。手切れ金代わりだ』

『あいつのデータ盗んで使い潰そうぜ。バレなきゃ犯罪じゃないし』

『ファンなんて金づるだろ? 適当に騙せばいい』


「あ……あぁ……」


心臓が早鐘を打つ。冷や汗が背中を伝う。

いつだ? いつ録音された?

スタジオでの会話。電話での会話。

俺が最も傲慢で、最も無防備だった瞬間の言葉たちが、消せないデジタルタトゥーとなって世界中にばら撒かれている。

「知らなかった」という俺の嘘が、俺自身の声によって粉々に粉砕されたのだ。


終わった。

直感的にそう悟った。

その直後から、俺のスマホは鳴り止まらなくなった。

クライアントからの怒号。違約金の請求。事務所からの解雇通知。

これまで築き上げてきた全てが、ドミノ倒しのように崩れ去っていく音が聞こえるようだった。

俺は部屋の隅で頭を抱え、獣のように叫んだ。

誰か嘘だと言ってくれ。夢だと言ってくれ。

俺は西園寺蓮だぞ。選ばれた人間だぞ。こんなことで終わっていいはずがない。


だが、現実は残酷だった。

数日後、俺の元には弁護士を通じて内容証明が届いた。

健太からの損害賠償請求。そして、過去に俺が権利を侵害していた他のクリエイターたちからの訴状の山。

賠償額は合計で数千万円に達した。

タワマンも、高級車も、ブランド品も、全て売り払った。それでも足りなかった。

ネット上では俺の個人情報が特定され、実家にも嫌がらせが及んだ。

俺は文字通り、全てを失ったのだ。


          ◇


「おい、西園寺! 休憩終わりだぞ!」


現場監督の太い声で、俺は現実に引き戻された。

冷え切ったおにぎりを口に押し込み、俺は立ち上がる。

足が重い。だが、働かなければ明日の飯も食えない。借金の膨大な利息を払うこともできない。


現場に戻ろうとした時、ふと、ビルの壁面に設置された大型ビジョンが目に入った。

そこに映し出されていたのは、最新のミュージックビデオのCMだった。

洗練された映像美、心揺さぶるカット割り。

そして、最後に誇らしげに表示されるクレジット。

『Director: Kenta Aizawa』


「……ははっ」


乾いた笑いが漏れた。

美しい。悔しいけれど、認めざるを得ないほどに、その映像は美しかった。

俺には作れない。逆立ちしても、一生かかっても、俺にはあんな映像は作れない。

俺が「古臭い」と馬鹿にしていた彼の技術は、実は「本物」だったのだ。

俺はただ、派手なガワで中身のなさを誤魔化していただけの、ハリボテの王様だった。

そして、その本物を使いこなし、輝かせていたのは彼自身だったのだ。

俺が彼から奪ったつもりになっていたものは、彼がいなければただのゴミ屑に過ぎなかった。


美奈はどうしているだろうか。

噂では、借金を返すために風俗に落ちたとも聞く。

俺たちは共犯者だった。他人の才能を食い物にし、楽をして甘い汁を吸おうとした泥棒猫たち。

その報いがこれだ。

俺は泥にまみれ、彼女は夜の闇に消えた。

そして、俺たちが踏み台にしたはずの男は、遥か高みの空で輝いている。


「……くそっ、くそぉ……!」


俺はヘルメットを目深に被り、溢れ出る涙を隠した。

後悔しても、もう遅い。

あの時、彼を認め、彼と協力する道を選んでいれば。

いや、もっと前、彼から奪おうなどと考えなければ。

そんな「もしも」を数えても、失ったものは二度と戻らない。

俺に残されたのは、莫大な借金と、一生消えない前科と、ネット上に残り続ける汚名だけだ。


「おい、西園寺! 何泣いてんだ! さっさと働け!」

「はい……!」


俺は涙を袖で乱暴に拭い、再び重い鉄パイプを担ぎ上げた。

肩に食い込む痛みだけが、今の俺に残された唯一の現実だった。

かつて見下していた男の輝きが、ビルのガラスに反射して、俺の惨めな姿を照らし出している。

その眩しい光から逃げるように、俺は薄暗い現場の奥へと足を踏み入れた。


これが、他人の人生を狂わせ、嘲笑った男の末路だ。

俺は一生、この泥沼の中で、自分の愚かさを噛み締めながら生きていくしかないのだ。

遠くで響く都会の喧騒が、俺を嘲笑っているように聞こえた。

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