第四話 瓦礫の塔とそれぞれの末路

「健太! 健太、いるんでしょ!? 開けてよ!」


ドアの向こうから聞こえる声は、涙で湿り、切迫していた。

俺は一呼吸置いてから、鍵を開け、ドアノブを回した。

ゆっくりとドアが開く。

そこに立っていたのは、かつて五十万人のファンを魅了した「清楚系インフルエンサー」の残骸だった。

髪は乱れ、メイクは涙でドロドロに崩れている。着ているブランド物のワンピースも薄汚れており、足元のヒールは片方が折れかけていた。

佐々木美奈。

俺が全てを捧げ、輝かせようとした女性の成れの果てだ。


「……健太ぁ……」


俺の顔を見た瞬間、美奈の顔がくしゃりと歪んだ。彼女はそのまま俺の胸に飛び込もうとしてきた。

俺は無言で一歩下がり、彼女の体を避ける。美奈はバランスを崩し、玄関のタタキに両膝をついた。


「え……?」


美奈が見上げた俺の目は、きっと冷え切っていたと思う。彼女が一度も見たことのない、他人の目だ。


「なんの用だ、美奈」

「な、なんの用って……酷いよ健太。私、こんなにボロボロなのに……」


美奈は涙を拭いながら、懇願するように俺を見つめる。


「私、蓮に騙されてたの! あの人が全部悪いんだよ! 私はただ、もっと良い動画を作りたくて……でも、あの人が健太のことを悪く言って、私を洗脳して……!」

「洗脳?」

「そうだよ! 私、本当はずっと健太のことが好きだったんだよ? でも、蓮が怖くて逆らえなくて……。ねえ、信じて? 私も被害者なの!」


美奈は必死に言葉を紡ぐ。自分の保身のために、事実を捻じ曲げ、俺の同情を引こうとしている。

かつての俺なら、その涙に絆され、話を聞いてやっていたかもしれない。

だが今の俺には、彼女の言葉がただのノイズにしか聞こえなかった。


「被害者、か」


俺はスマホを取り出し、画面をタップした。スピーカーから再生されるのは、あの日のスタジオでの音声だ。


『尽くす? それが重いのよ』

『健太の編集ってさ、なんか古臭いんだよね』

『やっと清々したー! 蓮くん、ありがと!』


美奈の声が、鮮明に響き渡る。

それを聞いた美奈の顔から、血の気が引いていく。


「こ、これは……違うの、その場のノリで……」

「ノリで人を切り捨てて、ノリで人の作品を奪うのか?」


俺は冷徹に告げる。


「お前は蓮に脅されていたわけじゃない。自分の意思で俺を捨て、蓮を選んだ。俺の機材とデータを奪うことにも同意し、俺を侮辱することを楽しんでいた。……違うか?」


美奈は何も言えず、ただ唇を震わせている。

反論できないのだ。それが紛れもない事実だから。


「……ごめんなさい。謝る。私が悪かったよ。だから……助けて」


美奈はプライドを捨て、床に頭を擦り付けた。


「違約金の請求が来てるの……三千万円なんて払えないよ……。事務所もクビになっちゃって、家も追い出されそうで……。お願い、健太しか頼れる人がいないの。訴えを取り下げて? 許して? もう一度二人でやり直そう? 私、今度は健太の言うこと何でも聞くから! 料理も頑張るから!」


彼女は俺の足にすがりつき、涙ながらに訴える。

その姿は哀れだった。

だが、その哀れさは、彼女自身が招いたものだ。

俺はため息をつき、彼女の手を振り払った。


「無理だ」

「え……?」

「訴えを取り下げるつもりはない。弁護士には、最後まで徹底的にやるように伝えてある。損害賠償も満額請求する」

「そんな……! 私たち、恋人だったじゃない! 愛し合ってたじゃない!」

「愛し合ってた?」


俺は鼻で笑った。


「俺は愛していたよ。でも、お前が愛していたのは『俺』じゃない。俺が作る『便利な環境』と、俺が演出する『輝いている自分』だろ?」


美奈が息を呑む。図星を突かれた顔だ。


「俺が好きだったのは、俺のカメラの中で輝いていた『作品としての佐々木美奈』だけだったんだと、今なら分かる。……中身のない今の君に、もう価値はないよ」


その言葉は、鋭い刃となって美奈を貫いた。

彼女の瞳から、最後の希望の光が消えていく。


「帰ってくれ。二度と俺の前に現れるな」


俺は冷たく言い放ち、ドアを閉めようとした。

美奈が悲鳴を上げてドアにしがみつく。


「嫌だ! お願い、見捨てないで! 私、一人じゃ生きていけない! 健太ぁぁぁぁ!」


その叫びを無視して、俺は力を込めてドアを閉めた。

ガチャリ。

鍵をかける音が、二人の関係の完全なる終わりを告げた。

ドアの向こうで美奈が泣き叫び、ドアを叩く音がしばらく続いていたが、やがて力尽きたのか、静かになった。


          ◇


それから数ヶ月後。

季節は巡り、街は初冬の冷たい空気に包まれていた。

俺は都心のオフィスビルの一室にいた。

ここは大手映像制作会社『ネクスト・クリエイション』の編集室だ。

俺の目の前にある巨大なモニターには、人気アーティストのミュージックビデオの仮編集映像が映し出されている。


「相沢くん、ここのカット割り、すごくいいね。曲のリズムと完璧に合ってる」


声をかけてきたのは、チーフディレクターの男性だ。

俺は『みなみごはん』の暴露動画がきっかけで、その高い編集技術と構成力が業界人の目に留まり、この会社からスカウトを受けたのだ。

最初はフリーランスとしていくつかの案件を請け負っていたが、仕事の速さとクオリティが評価され、今では正社員としてディレクター職を任されている。


「ありがとうございます。でも、ここの色彩調整はもう少し詰めたいです。アーティストの表情をもっと際立たせたいので」

「なるほど、こだわりだね。いいよ、任せる。君のセンスを信頼してるから」


信頼。

その言葉が、今の俺には何よりも心地よかった。

かつては「古臭い」と罵られ、否定された俺の技術が、ここでは「プロの仕事」として正当に評価され、必要とされている。

俺は充実感を感じながら、キーボードを叩いた。


休憩時間、俺はスマホでニュースサイトをチェックした。

芸能ゴシップの欄に、小さく懐かしい名前を見つけた。


『元人気インフルエンサー「みなみ」、風俗店勤務か? 借金返済のため転落人生』


記事によると、美奈は多額の損害賠償と違約金を支払うために、水商売を経て風俗店に身を落としたらしい。ネット上では「あの清楚系が」「因果応報」と揶揄されているが、今の俺には何の感情も湧かなかった。

彼女はもう、俺の人生とは何の関係もない赤の他人だ。


そして、もう一人。西園寺蓮。

彼の末路はさらに悲惨だった。

あの炎上騒動の後、彼は全てのクライアントから契約を切られ、数千万円の借金を背負った。

さらに、過去に彼が著作権侵害を行っていた他の被害者たちからも次々と訴訟を起こされ、刑事事件として立件された。

現在は執行猶予付きの判決を受け、社会的に抹殺された状態で日雇いの肉体労働をして食いつないでいるという噂だ。


俺はふと、窓の外を見た。

ビルの下を行き交う人々の中に、作業着姿でうなだれて歩く男の姿が見えた気がした。

金髪は黒く染まり、派手なアクセサリーも失せ、生気を失った顔。

もしあれが蓮だとしても、俺が彼に声をかけることはないだろう。

彼らは自分たちの欲望のために他人を踏み躙り、その報いを受けた。ただそれだけのことだ。


「相沢さーん、次の打ち合わせ始まりますよー!」


同僚の明るい声に、俺は振り返った。


「はい、今行きます!」


俺はスマホをポケットにしまい、立ち上がった。

かつて俺は、狭いワンルームで、一人の女性のためだけに尽くすことが幸せだと思っていた。

だが、それは間違いだった。

俺の技術は、もっと広い世界で、多くの人を感動させるためにある。

そして、そんな俺を正当に評価し、支えてくれる仲間たちがいる。


会議室に入ると、新しいプロジェクトのメンバーたちが俺を待っていた。

その中には、最近新しく入ったアシスタントの女性もいる。

彼女は真面目で、映像制作に対して熱い情熱を持っており、俺の指示を一言一句メモするような勉強熱心な子だ。


「相沢先輩、前回の編集データ、整理しておきました! 確認お願いします!」


彼女がキラキラした目で俺を見る。

そこには、かつての美奈のような「利用してやろう」という下心はない。純粋な尊敬と信頼の色だけが見える。


「ありがとう。助かるよ」


俺が微笑むと、彼女は嬉しそうに顔を赤らめた。

もしかしたら、ここからまた新しい何かが始まるかもしれない。

だが、焦る必要はない。

今の俺には、確かな技術と、それを活かせる場所がある。それだけで十分だ。


俺は資料を広げ、自信に満ちた声で話し始めた。

古臭いと言われた俺の技術が、最先端のクリエイティブとして世界に発信されていく。

その未来への道は、もう誰にも邪魔されることなく、真っ直ぐに続いていた。

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