第8話 告白と選択


 翌朝八時。


 私は必要最低限の荷物を詰め込んだボストンバッグ一つで、リョウさんの車に乗り込んだ。


 エンジンがかかり、車が動き出す。  バックミラーの中で、あの灰色の家がどんどん小さくなっていく。


 義母も、ユウジも。  私が二度と帰らないとは、夢にも思っていないだろう。


 胸のつかえが取れたように、呼吸が楽になった。


「……着いたぞ」


 連れてこられたのは、会社から徒歩圏内にあるデザイナーズマンションだった。


 オートロックを抜け、通された部屋は広くて清潔で。  自由の象徴のように、眩しく見えた。


「す、すごい……本当にここに住んでいいんですか?」


「ああ。家賃も光熱費も会社持ちだ。気にするな」


 リョウさんは私のバッグをソファに置くと、窓の外を眺めた。


     ◇


 静寂が満ちる二人きりの空間。  私は改めて、彼の背中に声をかけた。


「リョウさん。……本当に、ありがとうございました。  私、一生かけてこの恩をお返しします」


「恩なんていい」


「でも、不思議なんです。どうして、そこまでしてくれるんですか?  ただの『優秀な人材』だからって、ここまで……」


 昨日の問いかけを、もう一度繰り返す。  リョウさんはしばらく黙っていたが、やがて観念したように大きく息を吐き、私の方を向いた。


「……優秀だから、だけじゃない」


 彼は少しだけ視線を逸らし、独り言のように呟いた。


「俺は……お前がユウジと結婚すると聞いた時、正直、反対だった」


「えっ? 私が、嫌いだったからですか?」


「逆だ」


 強い否定の言葉に、私は息を呑む。  リョウさんは意を決したように、私を真っ直ぐに見据えた。


「初めて会った時から、惹かれていた。  ……お前の、そのひたむきで、誰にでも優しいところに」


「……え?」


 思考が停止した。  リョウさんが? 私を?


「だが、お前は弟の恋人で、すぐに妻になった。俺が入る隙なんてなかった。  だから……距離を置いたんだ」


 彼は苦しげに顔を歪めた。


「近くにいれば、余計な感情が湧く。  弟の家庭を壊したくないから、あえて冷たく接して、関わらないようにした」


     ◇


「でも、お前は幸せじゃなかった」


 リョウさんの声に怒りが滲む。


「笑顔が消え、痩せていき、ボロボロになっていくお前を見て……。  俺は、ユウジを殺してやりたいくらい憎かった。  そして、何もできない自分も憎かった」


 彼は一歩、私に近づいた。


「もう我慢の限界だったんだ。世間体も、弟への義理もどうでもいい。  ……俺は、お前を助けたかった。ただ、それだけだ」


 不器用で、重たくて、熱い告白。  私のために、彼はすべてを投げ打ってくれた。


 その事実が、凍っていた私の心にじんわりと染み渡る。


「……リョウさん」


 私は、初めて「義兄さん」を付けずに彼を呼んだ。


「その気持ち、すごく嬉しいです。  ……でも、ごめんなさい。今はまだ、答えられません」


「分かってる。お前はまだ、戸籍上はあいつの妻だ」


「はい。だから……まずは戦います」


 私は涙を拭い、彼を見つめ返した。


「ちゃんと離婚して、自立して、誰に恥じることもない『相沢ミユ』になります」


 それは、私なりの精一杯の「答え」。


「それが終わったら……その時は、また一緒にご飯を食べてくれませんか?  上司と部下じゃなくて、一人の男性と女性として」


 リョウさんは驚いたように目を丸くし、それから。  今度こそ、はっきりと優しく笑った。


「ああ。……楽しみに待っている」


     ◇


 私たちは「共犯者」から、未来を約束した「パートナー」になった。


 でもその前に、片付けなければならないゴミがある。


 さあ、反撃の時間だ。


 私は携帯を取り出し、着信履歴に残っていた「夫」の文字をタップした。

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