第5話 半年間の牢獄
季節が巡り、セミの鳴き声が聞こえる夏が来て、そして去っていった。
私がリョウ義兄さんの会社に通い始めてから、半年が経過していた。 私の生活は、秒刻みのスケジュールの繰り返しだ。
早朝四時:起床、家事をこなす。 午前八時:義兄の車で出社。 九時〜十七時:ひたすらテキストと向き合い、パソコンで実技演習。 帰宅後〜深夜一時:義母の命令による家事と、翌日の食事の仕込み。
睡眠時間は、わずか三時間ほど。
鏡に映る私の顔色は悪く、目の下には消えない隈ができている。 けれど、私の頭の中は以前とは違っていた。
「……合格だ」
社長室のデスクで、リョウさんがペラリと紙をめくった。 先日受験した、日商簿記検定の合否通知書だ。
そこには、**「合格」**の二文字が記されていた。
「あ……」
半年間の詰め込み教育と、鬼のような小テストの日々。 まさか本当に受かるとは思わなくて、私は呆然と証書を見つめた。
「よ、よかったです……。これで少しは、義兄さんのお役に立てるでしょうか」
経理の仕事を手伝えるかもしれない。 そう思って尋ねると、リョウさんは鼻で笑った。
「実務経験のない人間に帳簿は任せられない」
「……そうですか」
「だから、次はこれだ」
彼が新たに差し出したのは、『ファイナンシャル・プランナー』と『マイクロソフト オフィス スペシャリスト(MOS)』のテキストだった。
「えっ、まだやるんですか?」
「当たり前だ。簿記だけ持っている主婦なんて山ほどいる。パソコンスキルと金銭知識、これをセットで身につけろ」
有無を言わせない口調。
「文句があるなら辞めてもいいぞ。その代わり、家で母さんの相手を一日中することになるが」
私は口をつぐんだ。 義母と一日中顔を合わせるくらいなら、ここで無言の義兄と向き合って勉強している方がマシだった。
それに、知識が増えることは嫌いではなかった。 社会と繋がっている、唯一の細い糸のように感じていたから。
◇
しかし、家庭での私の居場所は、完全に失われていた。
ある夜、久しぶりに夫のユウジとリビングで顔を合わせた。 彼はスマホゲームに夢中で、私が帰ってきても顔も上げない。
「ユウジ、あのね。私、簿記の資格取れたんだよ」
少しだけ褒めてほしくて、報告した。 けれど、返ってきたのは空虚な反応だった。
「へー、すごいじゃん。……あ、クソッ、また負けた」
「……ねえ、聞いてる?」
「聞いてるって。資格とか取ってどうすんの? 母さんも言ってたよ。『変な知恵つけさせて、生意気になったら困る』って」
ユウジは画面から目を離さないまま、面倒くさそうに言った。
「俺はさ、ミユにはニコニコして家のことやっててくれればそれでいいんだよ。 兄貴のとこに行ってるのも、母さんの機嫌とるためだろ? 適当にやっとけよ」
――プツン。
私の中で、何かが切れる音がした。
この人は、私を見ていない。 私の努力も、苦しみも、何一つ見ようとしない。 彼にとって私は、都合のいい「付属品」でしかないのだ。
◇
その夜、私はベッドの中で、声を殺して泣いた。
資格を取っても、現実は何も変わらない。 義母に給料を搾取され、夫には関心を持たれず、義兄には課題を与えられるだけ。
ここは牢獄だ。出口のない、半年間の牢獄。
私は一生、この家で飼い殺しにされる運命なのだろうか。
翌朝。 いつものように義兄の車に乗り込む。
オフィスに着くと、リョウさんが珍しく私を呼び止めた。
「おい、相沢」
苗字で呼ばれるのは、初めてだった。 彼の手には、一通の分厚い茶封筒が握られていた。
「今日は勉強はしなくていい」
「え……?」
「その代わり、これを見ろ」
彼はその封筒を、無造作に私の胸元へ押し付けた。 ずっしりと重い、その封筒。
まだ私は知らなかった。
その重みが、私の人生を劇的に変える――「自由への鍵」だということを。
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