第4話 仕事は“勉強”?
オフィスでの初日。 私が一日中向き合っていたのは、パソコンでも伝票でもなかった。
分厚い、簿記のテキストだ。
カチ、カチ、とリョウさんがキーボードを叩く音だけが響く静寂の中。 私は必死に、文字を目で追う。
大学を卒業して数年。 勉強なんて久しぶりすぎて、内容がなかなか頭に入ってこない。
「……手が止まっているぞ」
不意に声がして、私はビクリと顔を上げた。 いつの間にか、リョウさんが私のデスクの横に立っていた。
「す、すみません。難しくて……」
「分からないところは?」
「えっと、ここの仕訳の意味が……」
私が指差すと、リョウさんは覗き込み、淡々とした口調で解説を始めた。
その説明は驚くほど分かりやすく、論理的だった。 ただ、口調は相変わらず冷たい。
「理解したか?」
「は、はい。なんとか」
「なら次へ進め。今日中にその章までは終わらせろ」
彼はそれだけ言うと、すぐに自分の席へ戻ってしまう。
私は小さく溜息をついた。
どうして私は、ここでこんなことをしているのだろう。 義母は「雑用」と言っていたのに、リョウさんは私に資格を取らせようとしている。
それが彼の会社の役に立つのだろうか?
◇
昼休み。 リョウさんは「外で食う」と言って出て行ってしまった。
私は持参した自分用のおにぎりをデスクで食べる。 朝、家族の残り物で作った、冷えたおにぎり。
もぐもぐと口を動かしながら、ふと気になっていたことを考える。
――お金のことだ。
義母は「食い扶持分は働け」と言った。 ということは、ここでの労働には対価が発生しているはずだ。
もし、少しでも自分でお金がもらえるなら。 コンビニで好きなスイーツを買ったり、新しい化粧水を買ったりできるかもしれない。
そんな些細な希望が、胸に浮かんだ。
◇
午後。戻ってきたリョウさんに、私は勇気を振り絞って尋ねた。
「あの、リョウ義兄さん」
「なんだ」
「その……ここでの、私のお給料についてなんですが」
リョウさんの手が止まる。 彼はゆっくりと私の方を向き、無表情のまま言った。
「給料なら、母さんに渡している」
「え……?」
「『ミユの管理は私がするから、給料は家に入れてくれ』と言われている。今朝、前払いとして半年分、母さんの口座に振り込んだ」
――血の気が引いていくのが分かった。
お義母さんの口座に。 しかも、半年分も。
それじゃあ、私は結局……。
「私には、一円も入らないんでしょうか……」
蚊の鳴くような声で呟くと、リョウさんは冷ややかに答えた。
「お前は専業主婦だろう。生活費は弟が稼いでいるし、衣食住は足りているはずだ。金を持って何に使うつもりだ?」
その言葉は、正論のように聞こえて、私の心を深くえぐった。
ああ、そうだ。 この人は、私が家でどんな扱いを受けているか知らない。
いや、知っていたとしても興味がないのだ。 私を「弟に養われている女」としか見ていない。
「……いえ。なんでも、ありません」
私は俯き、再びテキストに視線を落とした。
文字が涙で滲んで見えない。 ここでは「無料の家政婦」ではなく「無料の事務員」になるだけだった。
逃げ道なんて、どこにもない。
◇
十七時。定時になると、リョウさんは「帰るぞ」と私を促した。
車で家まで送られ、玄関で別れる。
「あ、おかえりミユさん」
待ち構えていた義母が、私を見るなり口元を歪めた。
「一日中座って勉強してただけでしょ? 疲れてないわよね。 さあ、夕飯の支度とお風呂掃除、急いでやってちょうだい」
休む間もなく、家事という名の労働が始まる。
けれど、私の鞄の中には、あの重たいテキストが入っていた。 リョウさんは言ったのだ。 「明日、今日やった範囲のテストをする」と。
◇
深夜一時。 私は眠い目をこすりながら、キッチンの隅でテキストを開いた。
やらないと、明日またあの冷たい目で叱責される。 それだけは避けたかった。
――これが、私の新しい地獄。
そう思っていた。
けれど、不思議だった。 家事という「消えてなくなる作業」と違い。
勉強した知識は、確かに私の頭の中に積み重なっていく感覚があった。
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