第2話 無料の家政婦


 季節が巡り、私がこの家に来てから数ヶ月が経とうとしていた。


 私の日常は、ますます色のないものになっていた。


「ミユさん、あそこの窓枠、埃が残ってるわよ」


「庭の雑草、まだ抜いてないの? ご近所に見っともないわ」


「夕飯の買い物、ついでにクリーニングも取ってきて。三時には戻ってね」


 義母のフミエからの指示は、日に日に細かく、そして遠慮がなくなっていた。


 最初は「新しく入った嫁への指導」という体裁だった。  それが今では、完全に「使用人への命令」に変わっている。


     ◇


 ある日の午後。


 リビングで義母が友人たちとお茶会を開いていた。  私は台所で、彼女たちが食べるケーキの準備とお茶の用意に追われている。


「あらあ、フミエさん。お嫁さん、よく働くわねえ。羨ましいわ」


 友人の一人が、台所に立つ私を見て言った。  すると義母は、優越感に浸ったような声で答える。


「まあねえ。うちは男所帯だったから、やっと楽ができるわよ」


 カチャ、とカップを置く音。


「あの子、他に能がないから。これくらいやってもらわないとね。  ……ふふ、食い扶持分は働いてもらわないと」


 ――食い扶持。


 お盆を持つ手が震えた。


 私は専業主婦として家庭に入ったはずだ。  ユウジが「君には家を守ってほしい」と言ったから、仕事も辞めたのに。


 義母にとって私は、ただ飯を食う居候に過ぎないらしい。


     ◇


 夜、義父のシゲルが帰宅する。  「おかえりなさい」と出迎えても、彼は私を見ようともしない。


「おい、ビール」


「はい、どうぞ」


「……ぬるいな」


「申し訳ありません」


 義父は不機嫌そうに舌打ちをすると、テレビの野球中継に視線を戻した。


 「ありがとう」も「美味しかった」もない。


 ここにあるのは、終わりのない労働と、減点方式の評価だけ。


 深夜、家事を終えて寝室に戻ると、夫のユウジはすでに高いびきをかいて寝ていた。  起こさないように、そっとベッドの端に潜り込む。


 天井を見上げながら、私はぼんやりと考えた。


 家政婦なら、給料が出る。  家政婦なら、労働基準法に守られる。  家政婦なら、「ありがとう」と言われることもあるだろう。


 でも私には、そのどれもない。


 私は、二十四時間三百六十五日拘束の――「無料の家政婦」なのだ。


 ――逃げたい。


 ふと、そんな言葉が脳裏をよぎる。  でも、どこへ?


 実家は遠方だし、心配をかけたくない。  貯金も結婚式の費用でほとんど使い果たした。  今は自由になるお金も持たされていない。


 私には、この家以外に行き場がなかった。


     ◇


 翌朝。


 朝食の後片付けをしていると、義母が改まった様子で私を呼んだ。


「ミユさん、ちょっと座りなさい」


「はい……なんでしょうか」


 何かミスをしただろうか。心臓が嫌な音を立てる。  しかし、義母の口から出たのは予想外の言葉だった。


「あなた、明日からリョウの会社に行きなさい」


「……え?」


 私は耳を疑った。  リョウさんとは、あの無口で怖い義兄のことだ。


「リョウったら、事務員が辞めちゃったとかで困ってるみたいなのよ。  新しく雇うのもお金がかかるし……ほら、あなたなら暇でしょう?」


「ひ、暇だなんて……家のこともありますし」


「家のことは私が適当にやるわよ。どうせあなたは専門的なことなんてできないでしょうけど、雑用くらいならできるでしょ?」


 義母の目は笑っていなかった。


 これは提案ではない。  拒否権のない「決定事項」なのだ。


「お兄ちゃん、神経質なところがあるから大変かもしれないけど。  まあ、家族の役に立てるんだから感謝しなさいよ」


 有無を言わせぬ口調で、話は打ち切られた。


 あの、冷徹な義兄の仕事を手伝う?  「邪魔だ」と言い放った、あの人の下で?


 私の絶望は、さらに深まった気がした。


 けれど私はまだ知らなかったのだ。


 それが、この牢獄から抜け出すための――最初の一歩になることを。

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