静かの海にわきて流るる
巳波 叶居/叭居
静かの海にわきて流るる
「まもなくカグヤ・カンパニー月面支社に到着します」というアナウンスの声で、僕はまどろみから覚めた。瞼を開けば目に映るのは、宇宙船の白い天井。そして窓の外に広がる星空と、広大なレゴリスの野原。
じき到着だ、と思うや否や、頭に装着した感情生成AI《Emo-AI》が小さく震える。本社から支給された最新型だ。閉ざされた環境で過ごさざるを得ないせいか、月面都市では情緒不安定になりやすいと言われており、Emo-AIの装着と管理資格の取得は義務となっていた。薄いヘッドバンド状の機器から細い歌声のような起動音がすると、特殊な音波や電気刺激によって脳内物質が調整される。すると僕の心に新しい仕事への意欲や期待感が、違和感なく湧き起こってきた。僕は少し安堵する。「感情生成AI」なんて呼ばれてるけど、Emo-AIは感情をゼロから生成することはできない。自分の中に在る感情を増幅するだけのシステムだ。到着のタイミングでこの感情が生成されるよう地球出立時に
船を降り、カグヤ・カンパニー月面支社の専用
「お仕事を楽しみにされているようですね。ご不安はありませんか」
顔認証の時に僕の表情を分析したのだろう。エレベーターで不意にアンドロイドが話しかけてきた。月面支社の業務サポートアンドロイドは高性能で、日常的なメンタルサポートも行ってると聞いてたが、これもその一環だろうか。
「ええ、不安が無いわけではないですが。Emo-AIもありますし」
「
エレベーターを降り、「こちらです」とアンドロイドが案内した先は、広くてやや雑然とした部屋だった。地球本社のアトリエとほとんど雰囲気は変わらない。打ちっぱなしの灰色の壁に、作業用の机と椅子。資材が並ぶ金属ラック。唯一、作業机の正面で保護ケースの中に座した物だけが、地球には無いものだった。
「こちらが『かぐや人形』のオリジナルとなります。天才彫刻家ミカド・シンとわが社のレゴリス加工技術によって生み出された、唯一無二の傑作です」
アンドロイドが心なしか誇らしげな声で説明する。さもありなんという美しさに、僕も目を奪われる。かぐや人形。薄暗いケースの中でもほのかに輝くその姿は、まさに御伽話のかぐや姫。人々を虜にした絶世の美女そのものだ。伝統的な日本人形に似た顔立ちは、ぱっと見は素朴だが、角度を変えると品良く微笑んだ表情となり、それがなんとも言えず魅力的だ。長い髪や、身に纏う十二単のなめらかな表現も、優美そのもの。主素材である当社が誇る特殊素材『ルナ・ジルコニア』は、内側に虹を宿したホワイトオパールのように輝き、原料が無彩色のレゴリスであることを完全に忘れさせていた。
きれいだ、と素直に思う反面、その美しさを直視すると、背筋に冷たく電流めいた感覚が走る。
僕の祖父も月生まれだった。当時の差別も知る世代で、ゆえにミカド・シンは子供の頃から憧れの存在だったという。それは僕にとってもそうだった。少し彫刻が好きなだけの凡才の僕にとって、彼は神とも思える存在だった。美術館で彼の木彫作品を初めて見た時、同じ素材と道具でここまで圧倒的な物が作れるのかと打ちのめされた。
翌朝。目を覚ますとEmo-AIの細い歌声が耳をくすぐった。社員宿舎のベッドから体を起こせば、初仕事が待ち遠しい気持ちで心が満たされる。Emo-AIは正しく動作し、僕はそれを正しく管理できている。自己の感情の正確な把握は、質の高い仕事を日々要求される
ドアの前には昨夜注文しておいた朝食がすでに運ばれてた。社員食堂も二四時間開いていると説明はされたが、朝はひとりで過ごしたい。僕は顔を洗い、朝食を済ませ、一息ついて作業着に着替える。宿舎とアトリエは目と鼻の先だ。誰とすれ違うこともなくアトリエに到着すると、僕は早速仕事を始めた。
資材ラックに並んだレプリカの原型を、ひとつ手に取る。かぐや人形のオリジナルをスキャンし、ルナ・ジルコニアを主素材として3Dプリンターで出力されたそれは、姿形こそオリジナルに瓜二つだが、どこか魂が抜けた面持ちだ。3Dプリンターの改良は社内で日々進めており、外形の再現は完璧にできているはずなのだが、ミカド・シンによるオリジナルとは「何か」が違ってる。その「何か」の原因を見抜き、専用の
僕はオリジナルとレプリカの原型を、舐めるように見比べる。引継ぎ作業は地球本社で入念に行ってきた。「何か」はいつも違う場所にあるのだ。時には目元に。頬に唇に。背に流れる長い髪に。纏った衣の襞に。あるいは衣の裾にうっすら浮かぶ、桜の花のひとひらに。
髪と肩だ、と判断して、僕は鑿を入れる。すると人形の表情が心持ち変わる気配がある。もう一度見比べ、今度はより慎重に、頬に鑢をかける。するとルナ・ジルコニアに閉じ込められていた虹が、輝きを増す感覚があった。
よし、と僕は思った。「魂が入った」のだ。僕は人形を裏返し、底面に刻まれた製造番号を確認する。「TY3987-405」はこれで完了としていいだろう。リストにチェックを入れ、もう一度オリジナルとレプリカを見比べる。流石にオリジナルほどの輝きはないにせよ、遜色ない仕上がりだ。二人の姫は姉妹のように、並んで笑みを湛えていた。
そうして、月面支社への赴任から二週間ほど経った頃。開発部の社員に食堂で声をかけられた。開発部は3Dプリンターの改良業務を担当していて、
食事を終えた僕は、仕方なく本を持ってアトリエに戻る。表紙には『彫像の歴史』とあった。資材ラックの一角にそれらしい書籍が並んでいたので、その隙間に件の本をねじ込む。すると何かがぶつかるような感触があり、次いでゴトッと物が落ちる音がした。しまった、と僕は思った。よく見ずに本をねじ込んだせいで、別の本に当たって後ろに落としてしまったらしい。しゃがんでラックの奥をのぞき込むと、案の定だった。物をかき分けながら手を伸ばし、落ちてしまった本を拾う。見た感じかなり古そうな本だ。本を手に立ち上がると、今度はその本からばらばらと何かが落ちてきた。え、と再び僕は慌てる。足下に散らばったそれは、メモのようだった。誰が書いて挟んだものか、けっこうな枚数がある。一枚拾い上げてみると、呪文のような文字列が目に飛び込んできた。
あきかぜにたなびくくものたえまよりもれいづるつきのかげのさやけさ
首を傾げ、もう一度読み返してみる。そしてこれは和歌だと気がついた。人形制作に役立つ教養のひとつとして、当社では和歌を学ぶことが推奨されている。とはいえ義務ではなく、高い専門性も求められてない。僕も有名な百人一首の概説本を一読した程度だ。拾った本の表紙には『誰でもわかる百人一首』とあり、僕が読んだのと似たような初心者向けの解説本のようだった。
「秋風に、たなびく雲の、絶え間より、もれ出づる月の、影のさやけさ」
少し懐かしくなって、声に出して読んでみた。これは確か、秋に雲の切れ間から差し込んだ月光の美しさを、率直に讃えた歌だ。別のメモを拾ってみる。こちらも月を題材にした歌が書かれていた。
「天の原、ふりさけ見れば、春日なる、三笠の山に、出でし月かも」
これは確か、旅人が故郷を恋しく思う歌だ。異国で見てるこの月は故郷にも浮かんでいるのかと、懐かしむ心情を表したとか。僕は少し可笑しくなった。まさかこの歌の作者も、この歌が当の月で読まれる日が来るとは思ってもみなかっただろう。
そうやってメモを拾い集めていくと、一枚だけ、くしゃくしゃに皺がついたメモがあることに気がついた。ほかのメモと紙は同じだし、筆跡も似ている。同一人物が書いたものだろう。書かれていたのはやはり和歌だった。
みかのはらわきてながるるいづみがはいつみきとてかこひしかるらむ
あまり覚えのない歌だった。どんな意味だったか。折角なので拾った本で調べてみると、「みかの原から湧き出て流れる泉川のように、まだ会ったことのない女性に対して噂話だけで恋心を募らせる歌」という旨の解説が記されていた。あまりピンとこない話だった。大昔ならいざ知らず、今の時代にそんなことがあるだろうか。メモは一度手で握り潰して、それを広げ直したかのような様子だ。メモの主が何を思ってそうしたのか、僕には見当もつかなかった。
月面支社に来て三ヵ月が経った。その日も僕はEmo-AIの起動音で目を覚ました。細い歌声と共にベッドから体を起こせば、仕事への意欲で心が満ちる。今日もEmo-AIは正しく作用し、僕はそれを正しく管理できている、ように思われた。だが、作業に入ると何かが違った。レプリカとオリジナルを見比べるたびに、どうしてか見当違いの箇所に手を入れたくなるのだ。目元に。鼻に。とりわけ唇の角度。そこにいつもの「何か」があるわけではない。不要な修正だとわかっている。それなのに手を入れたくなる。昼過ぎには頭もかなりぼんやりしてきた。
ひとつ仕上げを終えたところで、体温を測ってみる。三八度二分。強い倦怠感もある。話に聞く月面風邪かと僕は思った。初めて月に来た人間は高確率で罹ると言われる、月面物質に対するアレルギーのようなものだ。月に来て半年以内に発症するが、薬を飲めば五日ほどで治ると聞いている。僕はアンドロイドに内線をかけ、月面風邪に罹患した可能性があると伝えた。また完成したレプリカを出荷用の箱に入れておくので、搬出するよう伝えた。机に置いたままの未着手の原型には、決して触らないよう告げた。「承知しました。手配いたします。どうぞ安心してお休みください」と返答があった。
背中の寒気がどんどん強くなる。医務室で診てもらうとやはり月面風邪だとのことで、薬を処方された。僕は宿舎に戻るとすぐにそれを胃に流し込んだ。かなり眠くなる薬ですので注意してください、と説明されたとおり、程なくして強烈な眠気がやってくる。人形の搬出完了の連絡はまだ来ない。できればそこまで確認をしたかったが、もう耐えきれない。僕はベッドに倒れ込み、そのまま眠りに落ちた。症状は予想外に重く、起き上がれるようになるまで丸一週間かかってしまった。
ようやく症状が落ち着いた頃、搬出確認だけでもしようとアトリエに行くと、机にレプリカの原型が一体も無いことに気がついた。ぎょっとしてアンドロイドに連絡する。しかし「ご指示通り机の上の物には一切触れておりません」とのことだった。アンドロイドが間違うことはまずない。僕のミスだ。朦朧とした意識で箱詰めをして、仕上げ前の人形を出荷品に紛れ込ませてしまったのだ。
僕は頭を抱えて息を吐く。幸い、作業は製造番号順にチェックを入れながら進めていたので、問題の人形はすぐ特定できた。TY3987-506とTY3987-507の二体だ。僕はこの二体をすぐ回収するよう連絡した。アンドロイドは「承知しました。進展がありましたらお知らせ致します」と答えた。
落ち着かない状態で一時間が過ぎ、二時間が過ぎ、連絡があったのは半日ほど経った頃だった。アンドロイドは直接アトリエに来て、「大変申し上げにくいことながら…」と二体とも販売済みだったことを伝えてきた。どちらもすでに買い手に届いてしまっているとのことだった。
僕は再び大きく息を吐き、天を仰ぐ。なんてことだろう。しかしとにかくすぐ対処しなくては。まずは謝罪と事情の説明、そして完成品との交換が必要だ。僕はアンドロイドにそう伝え、問題なければ謝罪や説明は僕自身が行うと提案した。だが、アンドロイドは心なしか俯き加減で、「こちらをご覧くださいますか」と書類を渡してきた。当社のカスタマーセンターがまとめている「お客様の声」だ。書類には「TY3987-506」への、喜びの声が記されていた。
娘のために購入しました。とても美しい人形で感動しました。
特に表情が素敵で、見てると心が温かくなります。
これからずっと、娘の成長を見守ってもらおうと思います。
すばらしい人形をありがとうございました。
僕は言葉に詰まった。その表情を確認するような視線を向けて、アンドロイドは言う。
「この件については、本社より対処不要と指示を受けました。お客様がこのように大変喜ばれている以上、問題はないとのことです」
僕は反論できなかった。いや、反論する理由などどこにもなかった。わが社の3Dプリンターは、高い精度でかぐや人形オリジナルの姿を再現してる。買った人はこんなに喜んでる。子供の成長を見守る人形にしたいというミカド・シンの願いは叶っている。わざわざ僕が水を差す理由があるだろうか。
アンドロイドが去った後、まだ回復しきってないことを急に思い出したかのように、体が震え始めた。僕は倒れ込むように椅子に座り、背もたれに体を預ける。
「みかのはら、わきてながるる、いづみがは…」
ふと、あの和歌が口をついて出た。なぜかは自分でもわからなかった。だが声に出してみれば、音の響きが不思議と心地良かった。僕はもう一度、口の中で小さくその歌を繰り返した。
細い歌声が耳を打ち、僕は今日も目を覚ます。ベッドから体を起こせば、仕事への意欲で心が満ちる。今日もEmo-AIは正しく作用している。僕の心から仕事への熱意は消えて、ない。
朝食をとり、誰とすれ違うこともなくアトリエに行き、机に向かう。かぐや人形は今日も輝くばかりに美しい。当社の3Dプリンターは高い精度で彼女を複製する。だが、まだ足りない。ゆえに僕は鑿を入れ鑢を入れ、「魂」を入れていく。天才の傑作に近づけていく。特に開発部の社員から、「
『とても美しい人形で感動しました。特に表情が素敵で、見てると心が温かくなります――』
ぐ、と鑿を握る手に力が入る。人形の肌に傷がつきそうになって、僕は慌てて指を離した。良くない状態だ。僕は頭を切り替えようと、一旦休憩することにした。コーヒーを淹れ、Emo-AIを
「春過ぎて、夏来にけらし白妙の、衣干すてふ、天の香具山…」
あの日拾ったメモから一枚選んで、ゆっくりと読み上げる。細い歌声が流れれば、青空と新緑、そこに白い衣がはためく爽やかな風景が、目の前に広がったような心地になる。このところ、僕はこんな遊びで気分転換をしていた。あの日以来誰かと、とりわけメモの主と話してみたい気持ちがあることを、自覚してのことだった。
この歌は祖父がいた町を思い出させ、懐かしい気持ちになる。月生まれだった祖父だが、就職を機に地球に移住し、定年退職後は山のある自然豊かな町に住んでいた。趣味で始めた木彫で、いつも楽しそうに木彫りの動物を拵えていた。「あの人の真似事にもならんがなあ」と本人が言うとおり、正直あまり上手くはなかったが、それでもどこか惹かれるところがあって、僕は好きだった。そう言うと祖父は皺だらけの顔をくしゃりと丸めて、頭を撫でてくれた。本当に嬉しそうな笑顔だった。
「みかのはら、わきてながるるいづみがは…」
続いて、あの歌を呟いてみる。Emo-AIは作動したが、やはりどうもピンとこない。僕の心に相当する感情がないということだろう。メモの主はこの歌のどこに心を動かされたのだろう。わざわざ書き残すほどに。もしかしたら、くしゃくしゃにメモを握りつぶすほどに。そもそも書いたのは誰なのか。本の発行日は七〇年前と、かなり古い。歴代の
ポン、とチャイムの音がして、現実に引き戻された。ドアを開けると、どこか神妙な雰囲気でアンドロイドが立っている。「先日の件で、今度はクレームが入りました」と渡してきた書類を見て、息を呑んだ。そこには「TY3987-507」の製造番号と、届いた人形への疑念が控えめな文章で綴られていた。
先日購入したかぐや人形についてどうしても気になることがあり、
ご連絡させていただきました。
こちらは本当に完成品なのでしょうか。
気のせいかもしれないのですが、どうしても、
お店で見た見本と違う気がしてならないのです。
もし私の勘違いでしたら、大変申し訳ありません。
調査をいただけますと幸いです。
「…本社は、なんて」
アンドロイドに尋ねる。
「事情の説明と謝罪、それから人形の交換をするようにと。事情については既にご説明してあります。手違いで未完成品を出荷してしまい、行方を追っている最中だったと。ただし」
「…手違いがあったのはその一体だけ、と」
肯定の言葉の代わりに、アンドロイドは一礼する仕草をする。
「すぐに交換品をお送りしたいのですが、生憎と在庫がございません。とにかく一体、最優先で仕上げをお願いできますか」
僕は頷き、カップに残ったコーヒーもそのままにすぐに作業に戻った。冷静に手を動かそうとしたが、内心の興奮はどうしようもなかった。見抜く人がいた。
(ああ、この唇)
ほんとうはあと少し口角を上げたほうがいいと、内心ずっと思ってた。きっともっと美しくなる。もしかしたらオリジナル以上に。このひとはどう思うだろうか。わかるだろうか。もしかしたら、きにいってくれるだろうか。ぼくがつくったものを。ぼくがおもいえがくりそうのかぐやを。
自分がどこか正気でないことに、この時の僕は気づかなかった。最後に鑿を握ると、すでに「魂」が入った人形の口元に当てる。そしてほんの少し、気づかぬ人は決して気づかぬであろう程度に、唇の角度を上げた。
完璧だ、と僕は思った。
数日が過ぎ、交換品が件の顧客に届く頃となった。本当は直接謝罪をしたかったが、それは上に止められたため、代わりに直筆の手紙を添えた。あまり多くは書けなかったが、誠心誠意の謝罪と、今度こそ間違いなく自分が仕上げを行ったことを記した。
仕上げ。そのことを思い返すと心が重くなる。今思えばなんということをしたのか。仕上げに関係ない箇所を勝手に修正するなんて。業務規程違反なだけではない。尊敬する天才への冒涜だ。顧客から再度クレームがつく可能性だってある。あの時の興奮も忘れて、僕はずっと不安が拭えなかった。
午前の作業を終えて、一息つく。昼食がてら気分転換でもしよう。僕はあの本を手に取って机に置く。椅子に座ってEmo-AIを
「先日のお客様が、交換品が届いたご連絡を下さいました」
僕は息を呑む。アンドロイドは続ける。
「大変喜ばれておりました。職人からお手紙で謝罪があったことにも感動されていて。人形もとても気に入ったと仰っておりました」
深く深く、口から安堵の息が漏れた。力の抜けた僕に、アンドロイドは書類を二通渡してきた。
「今回の件についてのカスタマーセンターの報告書です。ご一読ください。また再発防止のため、貴方からも報告書をご提出ください。こちらはその書式です。よろしくお願いいたします」
一礼するアンドロイドを見送って、僕はセンターの報告書に目を通した。今回の経緯の説明が続いた後、最後に、件の顧客からの返信が記されていた。
誠実にご対応くださりありがとうございました。
職人さんからお手紙までいただいてしまい、かえって恐縮です。
でもやはり、完成品は違いますね。
特に微笑んだ口元の品が良く、見本よりずっと素敵でした。
思い切ってお尋ねして、本当に良かったです。
「………ッ」
僕は言葉もなく天を仰いだ。心が灼ける。「見本よりずっと素敵」! 罪悪感など少しも無かった。ふらふらと椅子に座ろうとして、机に体をぶつけた。端に置いていた本が落ち、挟んだメモが床に散らばる。拾い上げようと膝を曲げると、あの皺のついたメモが目に入った。
「みかの原、わきて流るる泉川、いつ見きとてか、恋しかるらむ…」
反射的に読み上げると、細い歌声が流れ出した。Emo-AIが起動したのだ。そういえばさっき
「それ」は身を焦がす炎のようであり、抗えぬ激流のようだった。胸が締めつけられるように苦しいのに、それがどこか甘く快い。眼球がひりつく。呼吸が乱れる。わかってくれた。あいしてくれた。僕がつくったものを。僕が完璧だと思ったものを。何も
危険だ、と本能が告げた。急ぎEmo-AIに鎮静化を指示する。だが炎は消えない。激流は止まない。歌声は美しい
荒くなる呼吸にふらつき、僕は床に倒れ込む。落ちた視界に、皺だらけのメモが映った。
あなたも、この熱情の虜になったのか。
顔も知らぬメモの主に、僕は呼び掛ける。その人がどうか、彼ではないよう願った。そして同じくらい、彼であってほしいと願った。
手を伸ばし、震える指でメモに触れる。そして僕はそれを、ぐしゃり、と握りつぶした。
静かの海にわきて流るる 巳波 叶居/叭居 @minamika
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