{2}大正横浜怪異譚 ――洋裁師朝霧すみれは、霧の桟橋で消えた花嫁の嘘を縫いほどく
さとちゃんペッ!
第1話 消えた花嫁
表紙 https://kakuyomu.jp/my/news/822139842481195028
――春の霧は、音を奪う。
横浜港の朝は、白く沈黙していた。
汽笛の余韻だけが耳の奥に残り、
海と空の境はゆるやかに溶け合っている。
桟橋も倉庫も、人影さえもぼんやりと滲み、
すべてが輪郭を失っていた。
霧は、この街の記憶そのものだ。
私は朝霧すみれ。
大正の横浜で、洋裁師見習いとして働いている。
今朝は、結婚写真用ドレスの最終調整を頼まれ、
山下埠頭近くの洋館へ向かうところだった。
調整を終えた白いベールを丁寧に包み、
霧で湿らぬよう気をつけながら坂道を下る。
革靴の底が、石畳の水気を拾い、きゅっと小さく鳴った。
――どうしてかしら。
今朝は、胸の奥が妙に落ち着かない。
港に近づくにつれ、潮の香りが濃くなる。
霧の向こうに、人の気配を感じた。
「朝霧さん?」
振り向くと、新聞記者の小田切さんが立っていた。
外套の肩に小さな水滴をたくさんまとっている。
いつもより少し表情が硬い。
「奇遇ですね。こんな朝に」
「ええ……本当に」
彼は一瞬、言葉を選ぶように視線を伏せ、
低い声で告げた。
「実は、昨夜からこのあたりで、少し騒ぎがありまして」
「まあ、そうなんですね」
「若い女性が行方不明になったとのこと、警察が周辺と屋敷の中を探している」
嫌な予感。私は一礼し、先を急いだ。
小田切さんが足早についてきた。
洋館に着くと、
門前には落ち着かない空気が漂っていた。警察官が出入りしている。
使用人たちは声を潜め、
互いに視線を合わせようとしない。
「花嫁さまは……?」
私が尋ねると、
年配のメイドがぎゅっと唇を結んだ。
「……昨夜から、姿が見えません」
花嫁の部屋へ通される。小田切さんも当然のような顔をしてついて来た。警察官がこちらをちらっと見て、通してくれた。
奥さまがすすり泣いている。
執事が奥様に紅茶を勧めている。
「奥様、紅茶を少しお飲みください。水分をとらなくては体調を崩しておしまいになりますよ。さあ、お嬢様の無事を祈りましょう」
奥さまは紅茶を受け取った。
執事が声をひそめた。
「上のお嬢様も、そろそろいらっしゃると思います」
「あの子が来るものですか。薄情な子よ。結婚式にも来ないと言ってきたのよ」
その時、メイド頭が慌てた様子で声をかけてきた。
「朝霧様、ここに掛けてあったドレスが無いのです。
お嬢様がおひとりで着てお出かけになったとしか思えません」
「ひとりで着られるはずがありませんわ」
私は即座に言った。
メイド係が奥様の様子を伺いながら、静かに続けた。
「いつもは私が着替えを手伝います。
けれど今回は頼まれていません。
皆にも聞き取りましたが、誰も手伝っていないそうです」
私は少し考えてから告げた。
「そのドレスは、私がデザインし、縫ったものです。
背中はリボンで編み上げる仕様。
ひとりで着ることは、不可能ですわ」
そのとき――
若いメイドが、震える小さな声で言った。
「……誰にも聞かれたくない話があるんです。
朝霧様にだけ、聞いていただきたいんです」
小田切さんが、彼女の耳に口を寄せてつぶやいた。
「ボクも同席していいだろうか」
若いメイドは首を振った。
「あなたはいいけれど、……奥様や、他のメイドには、絶対に知られたくないんです」
「よかろう」
小田切は使用人たちに向き直った。
「皆さん、仕事に戻ってください。
奥様もお部屋でお休みを。
何かわかり次第、すぐお知らせします」
若いメイドは唇を噛み、ためらっていた。
私はそっと彼女の手を握る。
「秘密は守るわ。話してちょうだい」
「……あたし、見たんです。昨夜、霧の中で……」
震える声で、彼女は続けた。
「夜中の十二時に、ある人と会う約束をしていました。
誰にも内緒です。
お互いに思い合っている男性です」
「お屋敷の門の脇で、彼を待っていました。
すると、白いドレスの女の人が、あちらへ歩いて行くのを見たんです」
「よく考えたら……あちらへ行くと、桟橋に続くんです」
小田切が、私を見る。
「海へ向かって?」
「……ええ」
「花嫁かもしれないのか?」
「お嬢様かどうかは、わかりません。
でも……横浜で噂になっている港の白い女だと思いました」
「霧の夜に、行き場のない女を連れていくという噂です」
「怖くなりました。
連れていかれると思ったんです。
だから、行き場はあるって、何度も口に出しました」
「そして、彼との約束を破って、屋敷に戻りました」
「お嬢様のお部屋には灯りがついていました。
また、つけっぱなしでお休みになっているのだと思いました。
時々、そういうことをなさる方ですから」
小田切は静かに手帳へ書き留めた。
港町には、明治の頃から伝わる話がある。
――港の白い女の伝説。
霧の日に現れる、港の白い女。
行き場のない者を、海の底へ連れていくという。
連れていかれた女の衣類が、桟橋に残されるという。
私は、はっと気づいた。
「……桟橋を、見に行きましょう」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
霧の中、 私と小田切さんは並んで歩いた。
桟橋は、
まるで世界から切り離された場所のようだった。
波は静かで、
風もない。
ただ霧だけが、ゆっくりと流れている。
そのとき――
小田切がさんが足を止めた。
「……あれは?」
桟橋の端に、白いものが見える。
私たちは駆け出した。
桟橋の木の板が
海は穏やか。
霧が立ち上る。
近づくと、それは――
花嫁のドレスと、手袋だった。
ドレスはきれいに広げられている。
片方の手袋は、真珠の留め具が外れている。
私は、そっと拾い上げた。
「これは……
わたしが縫ったドレスと手袋ですわ」
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