第4話 永遠の契約

 12月の寒風が、剃刀の刃のような鋭さで街を切り裂いていた。

 街灯の下、舞い落ちる雪は美しくも冷酷で、触れたそばから体温を奪っていく。

 深夜に近い時間、エントランスの管理員室には、ストーブのオレンジ色の光が小さく灯っていた。

 コンコン、と控えめな音が、静まり返った管理員室に響く。

 渡辺昭夫が顔を上げると、そこにはマフラーに顔を埋め、寒さに震えるユキが立っていた。

「渡辺さん……。お疲れのところ、すみません」

「ああ、ユキさんじゃないか。どうしたんだい、こんな夜更けに」

 昭夫は読みかけの新聞を置き、心配そうに立ち上がった。ユキは不安げに視線を落とし、組んだ指先をぎゅっと握りしめている。

「あの……キッチンの蛍光灯が、突然消えてしまって。暗い中でお皿を洗っていたら、怖くなってしまって……」

 少しだけ潤んだ瞳で見つめられ、昭夫の父性としての本能が動いた。数日後にはこの場所を去り、もう二度と会うこともないであろう、娘のように思っていた女性。最後の手伝いになれば、という感傷もあった。

「それは困ったね。よし、すぐに行こう」

「ありがとうございます。……本当に、助かります」

 昭夫は重い腰を上げ、紺色の防寒着を羽織ると脚立と蛍光灯を持ち、いつもの実直な足取りでユキの後に続いた。

 エレベーターが3階に到着し、沈黙の中でドアが開く。

 廊下を歩く二人の足音は、昭夫の重厚な靴音と、ユキの微かな衣擦れの音。それが奇妙に不協和音となって、コンクリートの壁に反響した。

 ユキが鍵を開け、302号室の扉を押し開く。

 その瞬間、昭夫は一歩踏み出した足を、無意識に止めていた。

「……?」

 暗い廊下の奥から、ぬるりとした熱気を帯びた空気が流れ出してきた。

 それは、外の寒さとは対照的な、異様なほど高い室温。

 そして、何よりも昭夫の鼻を突いたのは、むせ返るような強烈な花の香りだった。

「ずいぶん……花の匂いが強いね?」

 昭夫は眉をひそめ、薄暗い廊下を見通そうとした。その香りの裏側には、鼻腔の奥をチリリと刺すような、妙に酸っぱい薬品の匂いが混じっている。長年、多くの家を手入れしてきた昭夫の経験が奇妙なものを感じていた。

「私は女ですよ。お花をたくさん飾っていても、不思議ではないでしょう?」

 闇の中から、ユキの声が聞こえた。

 それは、先程エントランスで見せた弱々しい声とは別人のような、艶やかで、それでいてひどく平坦な響きだった。

「さあ、こちらへ。暗くて、足元が危ないですから」

 ユキに促され、昭夫は拭いきれない違和感を抱えたまま、ゆっくりとその部屋へと足を踏み入れた。

 背後でドアが閉まる音。

 続いて、カチャ、カチャリと二重に響いた。昭夫が振り返ると、ユキが、鍵だけでなくドアチェーンまで、丁寧に、慈しむようにかける音だった。

 その光景に、昭夫は反射的に肩を震わせた。

 薄暗い玄関で、ユキの華奢な背中が異様に白く、硬く見える。

「……ユキさん。チェーンまでかけることはないだろう。私は、照明を替えに来ただけなんだから。すぐ終わるよ」

 昭夫は平静を装いながらも、少しだけ声を荒らげた。

 管理員として、夜間に女性の部屋に入る際には、常に開かれた状態であることを意識していた。

 密室になることは、あらぬ誤解を招くからだ。

 だが、ユキは振り返らず、チェーンの金具を指先でそっと撫でた。

「……外は寒いですから。風が入ってきて、冷たいでしょう?」

 ユキは振り返らず理由を口にする。

「いや、玄関のドアを閉めれば十分だよ。チェーンまでは……」

 昭夫は、噛み合わない会話に理解できなかった。

「ダメよ。……せっかく来てくれたんだもの。誰にも邪魔されたくないわ」

 ユキがゆっくりと振り返る。

 その顔は、暗い玄関の影の中で、異様に白く浮き上がって見えた。

 302室に充満する、むせ返るような白百合の香りが、さらに濃度を増して昭夫の鼻腔を突く。

 その甘ったるい香りの裏側で、鉄錆のような、あるいは古い病院の消毒液のような、鼻を刺す異臭が確かな存在感を持って潜んでいる。

「ユキさん。……君、なんだか少し、様子が変だよ。体調でも悪いのかい?」

 昭夫は、一歩下がり気持ちを抑えて問いかけた。

 だが、ユキは微笑んだまま、一歩、一歩と、昭夫との距離を詰めてくる。

 彼女の足音は聞こえない。まるで、重力を持たない幽霊が滑ってくるような、不気味な接近だった。

「変……? ふふ、そうかもしれませんね。だって、もうすぐお別れでしょう? 私、寂しくて、寂しくて……どうにかなりそうなのよ」

 ユキの瞳は、暗闇の中で光を吸い込むように、黒く、濁った深淵のままだった。

 彼女は昭夫の数cm手前で止まると、彼の管理員の制服の袖を、そっと縋るように握りしめた。

「さあ。キッチンの蛍光灯を……」

 昭夫の背筋を、一筋の氷柱が這い上がる。

「そ、そうだな」

 ユキに促され、昭夫はキッチンへ向かった。

 脚立を上がり、慣れた手つきで電球を交換する。パッと明かりが灯ると、ユキは感謝を告げると共に、満面の笑みでウイスキーの入ったグラスを差し出した。

「ありがとうございました。これ、お礼です。渡辺さん、一緒に飲んでくれませんか?」

 昭夫は時計に目をやり、申し訳なさそうに首を振った。

「いや、気持ちは嬉しいがね、ユキさん。まだ勤務時間中なんだ。管理員が酒を飲むわけにはいかないよ」

「いいじゃないですか、少しくらい。誰も見ていませんよ」

「いや、そういうわけには……」

 ユキの一歩、踏み出す距離が近かった。

 彼女の瞳は笑っていない。その奥に、獲物を逃さない蜘蛛のような、粘りつくような熱が宿っている。

「飲んでください、お父さん。私、お父さんと乾杯したいの」

「……お父さん? ユキさん、君、少し様子が変だよ」

 昭夫が一歩後ずさった、その時だった。

 ユキの背後から伸びてきた影があった。

 いや、それはユキが用意していた『道具』だった。

 ユキは素早い動作で、隠し持っていたそれを昭夫の腕に突き立てた。

 まるでスズメバチにでも刺されたかのような、鋭い痛みが走る。昭夫は反射的に腕を押さえ、後ずさった。視線の先、ユキの手には注射器が握られていた。シリンダーの中には、琥珀色の液体が僅かに残っていた。

「なっ……何を……!」

 驚愕のあまり言葉が続かない昭夫の前で、ユキが薄く笑った。

「素直に飲んでくれないから、直接飲んでもらったの。効くでしょ」

 ユキが囁く中、昭夫の視界は真っ赤に染まったかと思えば、直後に猛烈なめまいに襲われた。三半規管が麻痺し、上下左右の感覚が消失した。

 血管に直接流し込まれたのは、ウイスキーだった。

 通常、アルコールは胃や腸で吸収され、肝臓で分解されるプロセスを経て脳へと到達する。

 しかし、静脈注射での直接投与は、この肝臓での分解という最初の防波堤を完全にスルーする。

 アルコール濃度が急上昇した血液が脳を直撃。一瞬にして、泥酔の極致――意識が朦朧とし、呼吸が浅くなる。急性アルコール中毒の状態へと叩き落とされたのだ。

「お父さん、顔が赤いわよ。私が介抱してあげるね」

 ユキの歪んだ笑い声が、昭夫には水の中にいるように遠く、こもって聞こえる。膝がガクガクと震え、耐えきれずに床へ崩れ落ちた。

 脳は「逃げろ」と命令を出しているが、末端神経への伝達は遮断され、指先一つ動かせない。ろれつが回らず、ただ熱い吐息が漏れるだけだ。

 ユキは、巨木が倒れるような音を立てて倒れた昭夫の横に膝をつくと、その頬を優しく撫でた。

「肝臓を通さないから、酔いの回りが早いの。気持ちいいでしょ?」

 彼女は昭夫の脇の下に手を入れると、彼の体を引きずり始めた。意識が遠のく中、昭夫は自分が冷たい廊下を、ズルズルと浴室の方へ運ばれていくのを感じていた。

 浴室の扉が開く。

 そこには、地獄を煮詰め、極彩色で彩ったような光景が広がっていた。

「……あ……、……」

 昭夫の濁った瞳が、浴室の中を捉える。

 真っ白なタイル。

 そこに飛び散った、鮮やかな動脈血の飛沫。

 そして湯船の中には、女性と子供がいた。

 真理子と怜であった。

 二人は全裸で、絡み合うようにして湯船の中に横たわっていた。

 いや、浸かっていたという表現が正しい。

 湯船を満たしているのは、水ではなかった。

 二人の手首は深く、執拗に切り開かれ、そこから溢れ出した鮮血が、浴室の白いタイルを真っ赤に染め上げていた。

 真理子の美しい髪が赤黒い海に漂い、怜君の小さな手は、もう動くことのない魚のように水面に浮いている。

「ひ……い……」

 昭夫の喉から、乾いた悲鳴が漏れた。

 ユキは、真っ赤な液体に浸かる二人を、うっとりと見つめていた。

「見て、お父さん。綺麗でしょう? 体の中から汚い血を全部抜いてあげているの」

 ユキはうっとりと、紅い水面に浮かぶ真理子の白い腕を撫でた。昭夫の視界は激しく揺れ、真っ白なタイルと真っ赤な湯船が交互に迫ってくる。喉を焼くウイスキーの熱が、ユキの言葉を一層生々しく脳に刻みつけた。

「……血なんて、最低の呪いよ。たかがそんな赤い液体が流れているかいないかだけで、人は平気で人を『他人』だと決める。……あの日、私を捨てた人たちもそう言ったわ。お前とは血が繋がっていないから、もう家族じゃない、勝手に生きろって」

 ユキの指が、真理子の深く切り裂かれた手首にそっと触れる。傷口から最後の一滴まで絞り出そうとするかのように。

「血が繋がっているから家族。血が繋がっていないから他人。そんなの、もううんざりよ。……お父さん、あなたもそうでしょ? 田舎に『血の繋がった』本当の家族がいるから、私を置いていくんでしょ? 真理子さんも、怜君もそう。娘のように思ってくれたのに、お姉ちゃんって慕ってくれたのに、結局みんな、私よりも『血』を選んで去っていくんだわ」

 彼女は顔を上げ、焦点の定まらない昭夫の目をじっと見つめた。その瞳には、暗い歓喜の火が灯っている。

「だから、全部抜いてあげることにしたの。この呪わしい液体を全部捨てて、空っぽにしてあげれば……もう誰も、血を選ばない。血の繋がりなんていう不確かなものよりも、もっと強くて、もっと誠実な絆で結んであげる」

 ユキは、傍らに置いてあった裁縫箱から、太い針と漆黒の刺繍糸を取り出した。

「血を抜いて、代わりに私の愛を詰め込んであげる。そうすれば、私たちは本当の意味で、永遠に一つになれる。……ねえ、お父さん。血なんて流れているから、足が動いて、どこかへ行こうなんて思っちゃうのよ」

 ユキは、赤い水の中から怜の小さな手を取り上げ、自分の頬に寄せた。

「こうして抜いてあげれば、もうこの子はどこにも行かない。ずっと私の可愛い弟でいてくれる。……さあ、お父さん。あなたも早く『綺麗』にしてあげるわ。もう、引っ越しの準備なんてしなくていいように」

 昭夫の薄れゆく意識の中で、浴室の白百合の香りが、鉄錆のような血の匂いと混ざり合い、逃げ場のない狂気の芳香へと変わっていった。

 ユキの持つ剃刀が、電球の光を反射して、銀色の牙のように鋭く閃いた。


 ◆


 作業を終えたユキは、浴室をそっと出た。

 リビングに行く。

 窓の外では、何も知らない幸せな人々が、クリスマスを待つ街の光の中を歩いている。

 ユキはそれを見下ろし、この上なく優しい、しかし凍りつくような微笑みを浮かべた。

「最高のクリスマス・パーティーにしようね。……みんな」

 302号室に満ちた濃密な沈黙。それは、もう誰も彼女を置いていくことのない、永遠という名の『幸せ』の始まりだった。


(続く)

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