第3話 光の欠片、影の胎動
ユキの一人暮らしが始まって、3年目を迎えていた。
朝、マンションのエントランスを出る時、そこには管理人の渡辺昭夫がいた。
紺色の管理員制服を端正に着こなし、ロビーのガラス扉を磨く彼の背中は、決して揺らぐことのない大黒柱のように見えた。
「おはよう、ユキさん。今日は冷え込むから、マフラーをしっかり巻いていきなさい」
昭夫は、ユキが通りかかるタイミングに合わせて、分厚い手で重い扉を開けてくれる。その節くれだった指先や、目尻に刻まれた深い皺には、かつて実の父からは一度も向けられたことのない庇護の情が宿っていた。
ゆっくり話す機会があった。
昭夫は若い頃に娘を事故で失っていただけに、ユキに対する保護欲が強いようだった。生きていればユキと同じ歳の娘がいたと言っていたので、おそらく彼の中では亡き娘の面影を重ねているのだろう。
だから、こうして毎日顔を合わせる度に優しく声をかけてくるのだと、ユキは解釈していた。
とはいえ、彼が自分のためにここまで心を砕いてくれることを、ユキは非常にありがたく思っていた。たとえそれが社交辞令だとしても、今の彼女にとって、この嫌な思い出が残るマンションに住み続けられる心の拠り所だったからだ。
「ありがとうございます、渡辺さん」
「いいんだよ。いってらっしゃい、気をつけて」
背中に投げかけられるその声は、ユキにとって、自分がこの場所に存在していいという許可証のように響いた。彼は、彼女の帰る場所を、毎日変わらず守り続けてくれる、理想の父親のようだった。
会社に着くと、そこには藤原真理子の柔らかな笑顔が待っていた。彼女は40代だが、艶のある肌に、自然なボリュームを保つ黒髪、整った顔立ち。彼女が微笑むだけで、場がパッと華やぐようだ。
真理子は、ミスをして縮こまるユキの肩を、いつも優しく包み込んでくれた。彼女が通り過ぎた後には、清潔感のあるフローラル系の香水の香りが微かに残り、それがユキのささくれだった神経を鎮める薬になった。
「ユキちゃん、今日のお昼は一緒に食べない? 卵焼き、多めに焼いてきちゃったの」
給湯室で交わされる、何気ない会話。真理子がタッパーから取り出す手作りの料理は、どれも優しい出汁の味がした。
「美味しい……。藤原さんの料理、大好きです」
「ふふ、そんなに喜んでくれるなら、毎日でも作ってきちゃうわ。ユキちゃんは、私の本当の娘みたいなんだから」
真理子さんのその言葉に、ユキは胸の奥が熱くなるのを感じた。彼女は20代の頃に子宮の病気で、子供を産めない身体になったと聞いていた。
それだけに真理子は、ユキのことを自分の娘のように可愛がってくれていた。
彼女が向けてくれるのは、打算のない、澄み切った慈愛だ。ユキにとって、彼女は失われた母性の象徴そのものだった。
そして、帰宅途中の夕暮れ時。
マンション近くの公園横を通りかかる時、ランドセルを揺らして駆け寄ってくる小さな影がある。隣の棟に住む小学3年生、佐々木
「お姉ちゃーん! 見て見て、今日テストで百点取ったんだよ!」
怜君は、子犬のような無邪気さでユキの腰にしがみついてくる。彼の小さな手から伝わってくる、子供特有の脈打つような熱。それを感じるたび、ユキは自分がこの世界に確かに繋ぎ止められていることを実感した。
「すごいわね、怜君。頑張ったのね」
「うん! お姉ちゃんに一番に見せたかったんだ!」
かつて自分を透明人間のように扱った義理の弟、晴人。彼からは一度も呼ばれることのなかった「お姉ちゃん」という響き。怜がその言葉を口にするたび、ユキの心に空いていた巨大な空洞が、温かな砂で埋められていくようだった
ユキの生活は、
自分を慕ってくれ、愛を感じさせてくれる人々。血が繋がっていなくても、そこには打算も疎外感もない。ユキは初めて、呼吸をすることの心地よさを知った。
――しかし、その平穏は、あまりに脆いガラス細工だった。
12月の足音が聞こえ始めた、ある日。
昼休みの給湯室で、真理子が指輪をしていることをユキが訊くと、彼女は照れくさそうにした。
「実はね、私結婚することになったの。彼、私が子供が産めないのを知っても、それでも私と一緒の人生を過ごしたいって。それで彼の仕事の関係で、来月には遠くに引っ越すことになったの……」
ユキの指先から、持っていたマグカップが滑り落ちそうになった。ショックのあまり言葉を失うユキの気持ちも知らず、真理子は嬉しくて笑って見せた。
結婚式の準備やら引っ越しのための手続きやらで、真理子と会える機会は目に見えて減っていった。
そんな、ある日の夕方。
エントランスを通ると、管理人の昭夫が申し訳なさそうに頭を下げた。
「ユキさん、実は今月いっぱいでここを辞めることになったんだ。息子夫婦が一緒に暮らさないかって言ってくれてね。そっちで管理職をすることにしたよ」
昭夫の優しい笑顔が、ユキには裏切りの宣告にしか見えなかった。守ってくれるはずの壁が、ボロボロと崩れ落ちていく。
追い打ちをかけるように、翌日の夕方、怜の母親と公園で会った。
「あら、ユキさん。こんにちは」
「あ、こんにちは。あれ? 今日は怜君、いないんですね」
いつもなら、この時間はスーパーの袋を提げた母親の横で、怜が「お姉ちゃーん!」と叫びながら駆け寄ってくるはずだった。ユキにとって、仕事帰りにこの親子と遭遇し、怜の買ってもらったお菓子や、学校で作った工作を見せてもらいながらマンションまで一緒に歩く時間は、何物にも代えがたい家族の擬似体験だった。
時には、重たそうな買い物袋をユキが一つ肩代わりして、姉妹のような顔をして怜の母と夕飯の献立について話すこともあった。そんな些細な、けれど確かな触れ合いが、ユキの孤独を癒していたのだ。
だが、今日の怜の母にはいつもの生活の疲れではなく、どこか浮き足立ったような、落ち着かない光が宿っていた。
「ごめんなさいね。あの子、今日は学校の荷物をまとめるのが遅くなっちゃって」
荷物をまとめる?
ユキの胸の奥で、小さな、しかし不吉な警告音が鳴った。
「荷物って……何か行事でもあるんですか?」
ユキの問いに、彼女は「そうなのよ」と、どこか晴れやかな、しかし慌ただしい主婦の顔で答えた。
「実はね、主人の転勤が急に決まっちゃって。もうバタバタなの」
「転勤……ですか?」
「そうなの。だから、冬休みの間に引っ越すことになったのよ。怜もね、ユキさんに会えなくなるのをすごく寂しがってて……あ、でもね、あっちに行っても新しい学校ですぐ友達ができるわよ、あの子なら」
怜の母は軽やかに手を振って去っていった。
ユキはその場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
――引っ越す
その単語が、巨大な鉄球となってユキの脳内を粉砕した。
視界が急激に彩度を失い、周囲の景色が古いモノクロ映画のように色あせていく。
怜も、行ってしまう。
お姉ちゃんと呼んでくれたあの無邪気な笑顔も、自分の腰にしがみついてきたあの温かな体温も、すべてをダンボール箱に詰め込んで、トラックに載せて、自分の手の届かないどこかへ消えてしまう。
(嘘……嘘よ。そんなの、許さない)
足元の地面が、底なしの泥沼のようにドロリと溶け始めたような錯覚に陥る。
真理子も、昭夫も、そして怜までも。
自分を愛してくれていると思っていた。
自分を必要としてくれていると思っていた。
けれど、彼らにとってユキは、引っ越し荷物の中に加える価値もない、ただの他人でしかなかったのだ。
ユキのことを捨てた家族たちと同じように、彼らもまた、ユキという存在をこの空っぽの街に置き去りにして、自分たちだけの新しい生活へと逃げ去ろうとしている。
怜の母と別れ、ユキは一人、道に佇む。
「あは……あはは……」
ユキの喉から、ひび割れたような笑いが漏れた。
激しい動悸が、肋骨を内側から突き破らんばかりに暴れる。
(また、私を捨てるのね)
彼女はマンションの302号室へ、逃げるように駆け込んだ。
鍵を閉め、暗い部屋の中で激しく呼吸を乱しながら、彼女は壁を爪で掻きむしった。
「……させない。勝手にどこかへ行くなんて、絶対に許さないんだから……」
ユキの瞳から、最後の一滴の光が消えた。
その代わりに宿ったのは、愛する人達を永遠に手元に留めようとする、濁った執着の炎だった。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます