第2話 抜け殻の家
その日は、ユキの人生で最も輝かしい一日になるはずだった。
3月の終わり、街には湿った春の風が吹き抜け、街路樹の蕾が今にも弾けそうに膨らんでいた。22歳になったユキは、第一志望だった中堅の商社から内定を勝ち取り、就業後一ヶ月の勤務を終えたばかりだった。
手にした紙袋の中には、初給料で買ったお祝いが入っている。お父さんにはネクタイ、お母さんにはネックレス、そして弟の
「これから、やっと恩返しができる」
駅からの帰り道、ユキは自分を包む孤独な影が、少しだけ濃くなったような気がしていた。
ユキの記憶の中にある『本当の家族』は、10歳の夏に死んだ。
彼女の家庭は母子家庭だった。
物心付く前に父親は亡くなっており、母と娘の二人暮らしだった。
ある時、母は再婚をした。
相手は優しくて真面目な人だった。血こそ繋がっていないが、義理の父親とは、とても上手くやっていたと思う。世間で聞くような性的虐待や、家庭内暴力などは一切なかった。
義父は、感情の起伏がほとんどない、氷のように静かな男で、むしろユキに対して、過剰なほどに丁寧だった。
新しい父親になった彼が最初にしたことは、家の隅々までを掃除し、すべての物を定位置に置くことだった。
「ユキ。良いかい。美しいものは、いつだって正しい場所にあるものだ。君も、この家の『正しい場所』に、いつもきちんと収まっていなさい」
義父はユキをリビングのソファの端に座らせ、そこをユキの定位置と決めた。
ユキは、その教えを忠実に守った。
義父の帰宅時間になると、彼女はソファの端に、まるで飾られた人形のようにちょこんと座り、彼を迎えた。義父はそんなユキの頭を、骨董品を愛でるような手つきで一度だけ撫でると、「うん、今日も良い子だ」と満足げに呟いた。
それは、暴力や罵倒よりもずっと効果的な『支配』だった。
ユキは義父に褒められるために、次第に「動かないこと」「汚れないこと」「声を上げないこと」を覚えていった。
学校のテストで良い点を取っても、彼は無表情に「そうか」と言うだけで、決して褒めはしなかった。彼が評価したのは、ユキの成果ではなく、ユキが彼の描く理想の娘という枠から逸脱しないことだけだった。
だが、ユキにとって安心そのものだった。
自分は、この家に飾られるべき美しい置物。そう信じることで、彼女はかろうじて自分の存在価値を保っていた。
しかし、その脆い均衡は、実の母の死によってあっけなく崩壊する。
母という、義父とユキの間にかろうじて温もりを注いでいた存在が消えた後、四十九日が過ぎると、義父は新しい妻となる女を家に連れてきた。
そして、ユキは生まれて初めて、義父の感情を見た。
義母と話す時、一成は笑った。目を細め、口元を緩ませ、時には声を立てて笑った。
その光景を目の当たりにした時、ユキは悟ってしまったのだ。
自分に向けられていたのは『愛情』ではなく、『管理』だったのだと。
もともとユキは、母が連れ子として義父のもとへ嫁いだ『余所者』だった。母という唯一の緩衝材を失ったその瞬間から、家の中の空気は一変した。
義母は、ユキを虐待することはなかった。代わりに、彼女はユキを透明な存在として扱った。
さらに1年後、義父と義母の間に子供・晴人が生まれると、その傾向は決定的になった。
義父、義母、そして義弟。
血の繋がりで強固に結ばれた3人の円環の中に、血の繋がらない『前の妻の連れ子』であるユキが入り込む隙間など、どこにもなかった。
食卓を囲んでいても、自分だけが厚いガラスの壁の向こう側にいるような疎外感。
家族写真の端で、無理やり作った笑顔を浮かべる自分。
ユキはずっと、この家の中で借りてきた猫のような、あるいは期限付きの
(でも、私が大人になれば。ちゃんと働いて、この家にお金を入れるようになれば……)
そうすれば、義父も義母も、自分を一人の『家族』として認めてくれるはずだ。自分という存在がこの家にとって有益なパーツになれば、もう透明人間でいなくて済む。
しかし、マンションの302号室の前に立った時、ユキは奇妙な違和感に足を止めた。
いつもなら閉まっているはずの玄関のドアが、わずかに、数mmだけ開いていたのだ。
「ただいま」
呼びかけるが、薄暗い家から返事はない。
家に入ったユキの喉を焼いたのは、生活感の欠片もない、冷え切った埃の匂いだった。
明かりを点ける必要さえなかった。
廊下の先に広がるリビングを見て、ユキは持っていた紙袋を床に落とした。
そこは、空虚な立方体だった。
朝までそこにあったはずのソファーも、家族の団らんを象徴していたダイニングテーブルも、テレビも、ラグマットも、すべてが消えていた。
ただ、家具が置かれていた場所の床だけが、周囲より少しだけ色が薄く、そこに誰かが居た形見のように四角い輪郭を残している。
それはまるで、住人が消滅した後の廃墟か、あるいは最初から誰も住んでいなかったモデルルームのようだった。
「お父さん? お母さん? 晴人?」
ユキの声が、家具のない部屋に虚しく反響する。
奥の寝室へ、そして弟の部屋へと駆け寄ったが、結果は同じだった。クローゼットの中は空っぽで、ハンガーが数本、冷たい金属音を立てて揺れているだけ。弟が壁に貼っていた特撮ヒーローのポスターも、剥がし跡一つ残さず消え去っていた。
彼らは、ユキが会社に行っているわずか数時間の間に、自分たちの痕跡をすべて削ぎ落とし、この場所から退去していたのだ。
まるで、夜逃げでもしたように。
家族を探して、ダイニングに行く。
ふと見ると、キッチンのカウンターに、ポツンと一通の白い封筒が置かれていた。
震える指でそれを開き、中の便箋を取り出す。
そこには、義父の、見慣れた事務的で端正な筆跡でこう記されていた。
ユキへ
就職おめでとう。これで君も立派な社会人だ。
かねてより話し合っていた通り、私達3人は、本日をもって新しい住まいへ引っ越すことにした。
元々君とは血が繋がっていないから、家族じゃなかったんだ。君には君の人生があり、私たちには私たちの人生がある。君が自立できる日を待って、私たちはこの決断を下した。
同封したものは、当面の生活費と、君が新しい住まいを見つけるための資金だ。
これ以降、私たちを探そうとはしないで欲しい。
私たちは、君を『育てる』という責任は果たした。
もう、お互いに自由になろう。
さようなら。
便箋の間から、厚みのある一万円札の束が滑り落ちた。
100万程あっただろうか。
床に散らばったその紙幣は、まるでユキという存在を買い取った代償、あるいは処分費用のように見えた。
「育てる、責任って……」
ユキはその場に崩れ落ちた。
笑いが込み上げてきた。涙が出るよりも先に、肺から空気が漏れるような乾いた笑いが止まらなくなった。
そうか、と彼女は理解した。
あの日々。義父の冷めた視線も、義母の計算高い、よそよそしい優しさも、自分にだけ血の繋がらない弟の無邪気な残酷さも。
あれは家族の風景などではなかったのだ。
自分はこの家にとって、期間限定の備品だった。
リース契約が切れるのを、彼らは今か今かとカウントダウンしながら待っていたのだ。契約満了の日、すなわちユキの就職と初任給。その瞬間に、彼らは古くなった家具を捨てるように、ユキをこの空っぽの箱の中に置き去りにした。
「私は……人間ですら、なかったんだ」
ユキは、色の褪せた床の跡をなぞった。
そこにはかつて、義父が座っていた。ここには義母が。
彼らがどれほど深い愛で結ばれ、自分という『異物』をいかに巧妙に排除した円環を作っていたのか、皮肉にもこの空っぽの部屋が教えてくれていた。
窓の外では、夜の帳が下りようとしていた。
街には街灯が灯り、よその家の窓からは、夕食を準備する温かな音が聞こえてくる。
けれど、この302号室には、もう誰も来ない。
ユキは、床に散らばった一万円札を握りしめた。爪が食い込むほど強く、力任せに丸めた。
「ああ……、あああああ……っ!」
喉の奥から、言葉にならない獣のような呻きが漏れた。
視界が涙で滲み、歪んでいく。
お父さん、お母さん、晴人。
名前を呼ぼうとしても、声が震えて形にならない。彼らはもう、この世界のどこにも「ユキの家族」としては存在していないのだ。彼らにとって、この部屋を引き払うことは、単なる引っ越しではなく、ユキという「不要な過去」の断捨離に過ぎなかった。
ユキは床に突っ伏し、色の褪せたフローリングに頬を押し付けた。
冷たい。
どこまでも冷たく、無機質な床。
「置いていかないで……。一人にしないで……っ」
誰もいない、光の消えた部屋で、ユキの嗚咽が虚しく反響する。
彼女は自分の細い肩を抱きしめ、激しく体を震わせた。
どれだけ泣いても、どれだけ叫んでも、玄関のドアが開くことはない。自分を呼ぶ声が聞こえることもない。
暗闇の中、ユキは胎児のように丸くなって泣き続けた。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます