聖夜の家族

kou

第1話 聖夜の晩餐

 鏡の前で、一人の女が舞っていた。

 まるで夜に咲く一輪の毒花のようだった。

 彼女の顔立ちは、病的なまでに整っている。

 顎のラインは細く鋭く、陶器の置物のように滑らかな白肌は、生活感という名の体温を一切拒絶しているかのようだ。彼女の肌は、今や光を透かすほどに薄く、その下に流れる細い血管が、微かな青い糸のように透けて見えていた。

 花院ユキは、裾の広がった純白のドレスをふわりと躍らせ、一回転して自分の輪郭を鏡に焼き付けた。

 302号室の寝室は、しんと冷えている。その静寂の中で、衣擦れの音だけが、まるで羽ばたきのように軽やかに響いた。

 彼女は鏡の中の自分を、品定めするように、あるいは聖像を拝むような敬虔さで見つめた。

「……うん、いいわ。とっても綺麗」

 ユキは、鮮血のような真紅のルージュを唇に差した。

 それは、この静止した世界で唯一許される『血』の色だ。

 彼女は唇を重ね、僅かに口角を上げる。その顔は、慈愛に満ちた完璧な娘であり、純粋な姉そのものだった。

 鏡に映っているのは、孤独な孤児ではなく、愛に満ちた家庭の主役としての姿だ。

 仕上げに、彼女はスプレーを手にとった。

 濃厚な白百合の香水。

 それを頭上から霧のように降らせると、ユキは目を閉じ、その香りを全身で吸い込んだ。

「みんなも、きっと喜んでくれる」

 ユキは鏡に映る自分の顔をうっとりと見つめた。ユキは最後にもう一度、鏡の中の完璧な自分に頷きかけた。

 彼女が部屋を出るために身を翻すと、鏡の中の虚像だけが、一瞬、現実よりも深く、暗い悦びに濡れた瞳を見せた。

 ユキは部屋を出ると、暗い廊下を抜けリビングへ一歩足を踏み入れると、白百合の芳香とローストチキンの香ばしい匂いが、ぬるい湿気となって彼女を包み込んだ。

 窓の外では、音もなく降り積もる雪が世界を白一色の死装束で覆い尽くしている。

 しかし、この部屋だけは別だ。

 キャンドルの炎がゆらゆらと揺れ、壁に飾られた銀のモールを、宝石の欠片のようにまばゆく照らし出していた。

 そこに、ユキの家族が待っていた。

 父と母、そして弟の三人は、食卓を囲む定位置に、まるで最初からそうであったかのように整然と腰を下ろしている。

 正面に座る父、管理員の制服の襟元を正し、威厳を湛えたポーズでじっと前を見据えていた。

「お待たせ、お父さん。今夜は一番素敵な私でいたかったから、少し準備に時間がかかってしまったわ」

 ユキの言葉に、父は答えない。

 ただ、その揺るぎない沈黙が、何よりも深い肯定としてユキの胸に響いた。

 その隣で、母は、首を僅かに傾け、慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。胸元では、ユキとお揃いのパールのブローチが、鈍い光を放っている。

「お母さん、その髪型、とっても似合ってる。私が何度も編み直した甲斐があったわね」

 ユキはそっと母の肩に手を置いた。

 そして、サンタの帽子を被った弟の怜。

 彼は小さな両手を膝の上に置き、目の前の豪華なケーキを、好奇心に満ちた瞳で見つめている。

「ねえ、怜君。お姉ちゃんが一番大きいケーキを切ってあげるからね。楽しみにしていて」

 ユキは少年の頬をつん、と指で突いた。

 リビングを支配するのは、この上なく純粋な静止だった。

 誰も食事を急かさず、誰も無遠慮な言葉を吐かず、誰一人として、この家から退去しようとはしない。

 ユキは、自分のために用意された空席に、滑り込むように腰を下ろした。

 四人の影が、壁の銀色のモールを背景に、巨大な一つの塊となってゆらめく。

「ああ、完璧だわ……」

 ユキはうっとりと、家族全員の顔を見渡した。

「メリー・クリスマス、みんな。……さあ、世界で一番幸せなパーティーを始めましょう」

 ユキは銀色のナイフを手に取ると、聖なる儀式を執り行う司祭のような手つきで、ゆっくりと、黄金色の七面鳥に刃を沈めた。

 沈黙という名の賛美歌が、302号室をどこまでも深く、優しく包み込んでいった。

「さあ、お父さん、冷めないうちに食べて」

 ユキは弾むような声で言い、正面に座る父の前に、丁寧にカットした七面鳥の皿を置いた。

 父はネクタイをきっちりと締め、背筋を伸ばして椅子に座っている。普段は少し厳しい父だが、今夜は黙ってユキの給仕を待ってくれている。その落ち着いた佇まいは、一家の大黒柱としての安心感に満ちていた。

「お母さんも、シャンパンのおかわりはどう? 今日は奮発して、いい銘柄を買ったのよ」

 隣に座る母は、緩やかにウェーブした髪を揺らし、上品な微笑みを浮かべている。母の愛用しているフローラル系の香水が、部屋の温かい空気の中にふんわりと漂っていた。

 ユキは弟に目を向ける。

「もう、怜ったらケーキは最後よ。まずはちゃんと、お料理を食べてからよ」

 ユキは幼い弟の頬を優しくつねった。怜は嬉しそうに目を細め、じっとケーキを見つめている。

 キャンドルの炎がゆらゆらと揺れ、4人の笑顔をオレンジ色に照らし出す。これ以上ない、完璧なクリスマスの光景だった。ユキは胸がいっぱいになり、自らのグラスを掲げた。

「こうして家族揃って過ごせるなんて。私、本当に幸せ……」

 ユキは幸せを噛みしめるように、シャンパンを一口含んだ。

 だが、その時。

 ふと、父の襟元に一匹の小さなハエが止まった。

 ハエは父の白いシャツの上を這い回り、ゆっくりと喉元へ移動していく。

 父は動かない。手で追い払うことも、顔をしかめることもしない。ただ、一点を見つめたまま、微動だにせず座っている。

 ユキは「もう、お父さんハエがいるわよ」と笑いながら、ハンカチで父の喉元をそっと拭った。

 ハンカチの先が父の肌に触れる。

 ハエは次に、母の瞳に向かって飛び立った。

 母は、瞬き一つしなかった。

 大きく見開かれた瞳は、キャンドルの光を反射してガラス玉のような光沢を放っている。

「……このクソバエが。次から次へと」

 ユキは唇から歯を少し剥き、腕を大きく振ってハエを追い払う。ハエの動きを彼女は追う。視界の端に両親の笑顔をとらえながら、害虫の動きだけをひたすら目で追っていく。

 やがてハエは、逃げ場を失ったかのようにダイニングの壁へと着地した。

 ユキの視線が、獲物を捉えた獣のように鋭く、細く尖る。彼女は音もなく椅子から立ち上がると、追い詰めるような足取りで壁に歩み寄った。

「こいつ」

 低く、湿った声。

 次の瞬間、ユキの手が目にも留まらぬ速さで空を切り、壁を打った。

 乾いた「パンッ」という音が静かな部屋に響き渡る。

 ユキはゆっくりと、安心したように手のひらを自分に向けた。そこには、潰れたはねを震わせ、黒い脚を不自然に痙攣させているハエの無惨な姿があった。

 もぞもぞと、手のひらの上で蠢く生々しい感触。

 ユキはその、生きている証拠を、嫌悪に満ちた目で見つめる。

「汚らわしい。せっかくお父さんとお母さんが静かにしているのに、邪魔をするなんて」

 彼女は、かろうじて息のあるハエを床に無造作に落とした。

 そして、可愛らしいキャラクターが描かれたスリッパの底で、その上をゆっくりと、体重をかけて踏み抜いた。

 

 ――プチッ

 

 小さな、しかし確かな命の爆ぜる音が、ユキの耳にはどんな賛美歌よりも心地よく響いた。彼女は、そのままスリッパを左右に何度も捻る。

 ユキが足を動かすと、ハエは赤黒い染みになっていた。

 不純物が消え、部屋に完璧な静寂が戻ったことを確認すると、ユキは憑き物が落ちたように、少女のような笑みを両親に向けた。

「安心して。もう『動くもの』は殺したから。誰も、私たちの幸せを邪魔させたりしないわ」

 そう言うと彼女は、ハエの体液がわずかに付着した手のひらを、まるで甘い蜜を舐めるように、そっと舌でなぞった。

 父と母が同時に口を開いた。


 ありがとうユキ


 ユキはとてもいい子ね


 二人の声が二重になって聞こえたような気がした。それからユキは弟の怜の方を見る。

「ん? お姉ちゃんに、お肉、切って欲しいの。しょうがないわね」

 ユキは微笑んで、ローストビーフにナイフを入れた。

 柔らかい牛肉がさくりと切れる感触があった。

 まだ湯気が立ち上っている。

 食欲を刺激するいい匂いが広がる。怜の目がきらきらと輝く。ユキはその一切れを口に運んでやった。


 おいしい


 笑う弟を見ていると、ユキの胸の中から熱いものが込み上げてきた。思わず涙がこぼれそうになる。それを必死にこらえ、弟に優しい微笑みを向ける。

「ああ、なんて幸せ……。メリー・クリスマス、お父さん、お母さん、怜」

 ユキは幸せに満ちた微笑みを浮かべた。

 キャンドルが揺れる暗闇の中、強い花の香りと、時を刻む時計の音だけが、完璧な家族の団らんを祝福し続けていた。


(続く)

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