第6話 誰の香りを纏ってる

「太監、様?」


 聞き慣れない名前の正体は、玲蘭の記憶の中にあった。

 後宮に住む妃嬪たちの管理をする宦官。それを束ねるものの役職を、太監というらしい。

 そんな立場の人がいったい何の用だというのだろうか。

 けれど、考える間は与えてもらえなかった。


「お通しいたします」


 こちらの都合なんて関係ないとばかりに、杏鈴の声を合図に扉が開き、薄墨色の円領袍を身に纏った男性が、静かに玲蘭の部屋に足を踏み入れた。 


「――淑妃・玲蘭様」


 その人は、膝をつき拱手の礼を取る。


「……どうされましたか? 太監様」


 葉月が声をかけると、太監は顔を上げた。年は葉月よりも少し上ぐらいだろうか。鼻筋が通った彫りの深い顔をしていた。

 太監は静かに杏鈴へと視線を向けた。けれど、その理由がわからず葉月が首を傾げると、太監も戸惑ったような表情を浮かべた。


「あの……?」

「え?」

「いえ、その、お人払いをされなくてよろしいのでしょうか」

「人払い、ですか?」


 宦官の男性にしては少し高く、けれど恭しい声で、太監は葉月に尋ねた。

 扉が閉まった今、この部屋にいるのは葉月と太監、それに杏鈴だけだ。ということは、人払いというのは必然的に杏鈴のことを言っているということになる。

 なぜそんなことを言うのかと考えたときに、それはきっと過去の玲蘭の行動と齟齬があるからだと思い至った。


 葉月は必死に記憶を辿る中で、たしかに玲蘭は誰にも聞かれることのないよう、太監からの言葉を受けていたのを思い出す。それは玲蘭が自分以外の誰をも存在していない証明に他ならない。

 でも、葉月は違う。今の葉月に、杏鈴を外さなければいけない理由はない。

 葉月は玲蘭とは違う行動を取ることを選んだ。

 あえて、だったのかもしれない。自分自身に選択する権利があるのだと、そう主張するかのように。


「……はい、このままで大丈夫です」

「そう、ですか」


 太監は怪訝そうな表情で頷くと、静かに告げた。


「主上より、いつものお召しでございます」


 その言葉に、思わず息を呑んだ。


「っ、そう、ですか」


 その言葉に拒否権はない。いや、以前の玲蘭であれば、主上からの呼び出しだったとしても断ることもあったのかもしれない。

 けれど、太監の有無を言わさない口調に、葉月は受け入れることしかできなかった。


 それに――先ほど太監は『いつもの』と言った。つまりこの呼び出しは、今日が初めてではないということになる。


 玲蘭が受け入れていたのなら恐らく、咎められるようなことではないのだろう。それなら、呼び出しに応じたとしても葉月にとってそこまで不都合があるものではない、はずだ。


「後ほど、お迎えに参ります」


 それだけ言うと、宦官は来たときと同じように、静かに部屋をあとにした。

 残されたのは、葉月と杏鈴の二人だけ。


「主上からのお召し……! お着替えをしなければいけませんね!」


 浮かれる杏鈴に、頭が痛くなる。きっとこれは、そういう類いのものではない。

 先ほどの太監の言葉を思い出す。あのとき太監は杏鈴を見て『人払いはいいのか』と言っていた。つまり、玲蘭は主上からの呼び出しを誰にも言っていなかったということだ。

 二人が、内密にそういう関係を築いていたわけではないことは、葉月が一番良くわかっていた。


「玲蘭様?」

「……ごめん、少しだけ一人にしてもらえるかな」

「は、はい。申し訳ございません」


 ジェットコースターのように急降下するテンションの杏鈴を見送る。自身が仕える妃が皇帝から召されるというのは、それほど嬉しいものなのだろうか。この辺りの感覚は、現代を生きる葉月にはわからない。

 それにしても。


「なんでこんなことに……」


 葉月にとって、皇帝・李宗暁との初めての対面だ。

 用件自体は、玲蘭の記憶である程度読み取ることはできた。

 けれど、重たい気持ちを拭い去ることはできなかった。




 呼び出された先は、広い庭に面した静かな殿舎だった。

 耳に痛いほどの静寂が、広間を支配していた。


「――参りました、主上」


 床に膝をつき、両手を前にそっと揃える。額が石に触れるほど、深く静かに頭を垂れた。

 冷たさが、ゆっくりと掌から伝わってくる。


「顔を上げよ」


 一切の感情など存在しないような、冷たく重い、葉月――いや、沈玲蘭はゆっくりと顔を上げた。


 皇帝・宗暁そうぎょうがいた。


 淡い墨色の朝服に、金糸で雲紋が静かに浮かび上がる。黒漆の冠飾は、一筋の光を受けてわずかにきらめいていた。

 空気を震わせるほどのオーラを纏い、黒曜石のような瞳がまっすぐこちらを見ている。その瞳には濁りがなく、葉月の心を見透かしているかのようだった。


 怖い。


 それが、宗暁の第一印象だった。

 喉が、かすかに震える。それど、そうとは悟られないよう、葉月は背筋を伸ばした。


「……用は、わかっているな」


 宗暁の言葉に、葉月は持ってきた包みを掲げて見せた。

 それは、玲蘭の記憶を頼りに葉月が調香した眠り香だった。

 内密に依頼を受けて、玲蘭はずっと宗暁のために眠り香を調香していた。その見返りとして、色々と便宜を図ってもらっていたようだ。

 割合さえわかれば、同じものを作ること自体は難しくない。とはいえ、不安なものは不安だ。


「こ、こちらに、ご用意しております」


 自然にと思うほど、声は固くなる。

 しまった、と思ったときには、宗暁の眉間に深い皺が刻まれていた。


「気味が悪いな」


 怪訝そうに宗暁は言う。まるでこちらの真意を掴みかねているかのように。


「以前はあざ笑い、貰うためには対価をよこせと言ってきていたはずだ。余に向かって牙を剥き、噛みつくような目をしていた。それが今はどうだ」


 玲蘭なら、そうするだろうし、葉月もそうするべきだった。

 ふてぶてしく笑い、皇帝にさえ屈しない。それが沈玲蘭だ。

 けれど、絶対的な支配者の目をした宗暁の前で、葉月にはその態度を取ることができなかった。


「……まあいい」


 宗暁は香包みを受け取ると、葉月を一瞥した。

 けれど、それ以上何も言うことなく立ち上がる。衣の裾がかすかに触れ、白檀の香がふわりと立ちのぼった。


 その瞬間、宗暁は足を止めた。


「……香りが、違うな」


 独り言のように言う宗暁の言葉に、葉月の指先が、わずかにこわばる。

 葉月が口を開くより早く、宗暁は腰を落とすと、視線を合わせるようにして葉月の瞳を見つめた。まるで何かを探ろうとするかのように。


「あ、あの」

「以前のものとは違うな。あれだけ趣味が悪いから変えろと言っても変えなかったのに、どういう心境の変化だ?」

「そ、それは」


 至近距離で見つめられ、心臓の音がうるさい。視線を逸らしてしまいそうになるのをどうにか堪えたけれど、本音は今すぐこの場から逃げ出してしまいたかった。


「……まあ、いい。お前の勝手だ。好きにしろ」


 それだけ言うと、興味はないとばかりに立ち去ろうとして、もう一度足を止めると、宗暁は振り返ることなく、葉月に告げる。


「だが、変わったことが多ければ多いほど、どんな心境の変化があったのかと勘ぐられる。それは理解しておけ」


 それだけ告げると、宗暁は再び歩き出す。足音も、衣擦れの音も、白檀の香りに吸い込まれていった。


「は、はあああああ。怖かった……」


 誰もいなくなった室内で、葉月は盛大に息を吐きだした。まだ心臓は早鐘の如く鳴り響いているし、手のひらにかいた汗も止まらない。


「あれが、皇帝・李宗暁……」


 胸の奥に、さきほどの言葉が残響のように響く。何もかもを見透かすような瞳に、今も突き刺されているようだ。


「バレて、ないよね……?」


 変化に気づかれたとはいえ、まさか中身が入れ替わっているとはいくら宗暁だとしても思わないはず、だ。

 けれど、ここでの快適な生活を続けるためには、宗暁にだけは気づかれてはいけない気がする。

 宗暁に興味なんてない。

 ただ、好きなことを好きなだけできれば、好きな香りに包まれて生きられるなら、他の些細なことなんて、どうでもいい。


「……疲れた。部屋に戻って調香しよ」


 ふうと息を吐くと、葉月は立ち上がり歩き出す。一秒でも早く、この場所から逃げ出したいと言わんばかりに。



 ――けれど、葉月はまだ気づいていない。

 この日の邂逅が、後宮全体を揺らす波紋のはじまりであることに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る