エピローグ 「清算」を終えた俺たちが掴んだ最高純度の幸福と、泥を啜りながら地獄の底を這いずり回る裏切り者たちの末路

柔らかな朝の光が、特注の遮光カーテンの隙間から、大理石の床に細い筋を描いている。

都心の一等地に建つ、地上五十階のペントハウス。かつて俺が演じていたあの湿気たアパートの十倍以上の広さを持つリビングには、静謐なクラシック音楽が微かに流れていた。


「呀様、おはようございます。今日の朝食は、エシレバターをたっぷり使ったクロワッサンと、淹れたてのキリマンジャロです。……あ、それと。お待ちかねの『定期報告書』も届いていますよ」


エプロン姿の琥珀が、弾むような足取りでキッチンから現れた。

五年という歳月は、彼女を瑞々しい少女から、凛とした美しさを湛えた大人の女性へと変えていた。大学を卒業した彼女は、今や俺が経営するコンサルティングファームの副代表として、俺の公私ともに欠かせないパートナーとなっている。


「報告書か。……今日は、あいつらの命日だったかな?」


「いいえ。でも、彼らにとっては毎日が命日のようなものでしょうね。特に、今日は月詠澄香が刑務所を出てからちょうど一年目にあたります。彼女の『近況』、なかなかに読み応えがありますよ」


俺は琥珀からタブレットを受け取り、ソファに深く腰掛けた。

画面に映し出されたのは、数枚の隠し撮り写真と、詳細な行動ログだ。


まず目に飛び込んできたのは、神宮寺煌流の変わり果てた姿だった。

かつて高級ブランドに身を包み、成功者の振りをしていたあの男は、今や地方都市のドヤ街に近い一角で、日雇い労働の現場を転々としている。

写真の中の彼は、前歯が数本欠け、顔には消えない傷跡が刻まれていた。裏社会の金を使い込んだ代償は、警察の逮捕よりも遥かに過酷だったようだ。


「神宮寺は、組織から課せられた『利息』を返すために、五年間文字通り身を粉にして働かされているようです。昼間は肉体労働、夜は違法な解体作業の補助。睡眠時間は一日三時間。……それでも、借金の元本は一円も減っていないとか。絶望して自ら命を絶とうとしたこともあったそうですが、そのたびに組織の連中に拾い上げられ、『死ぬまで働け』と叩き起こされているそうですよ」


琥珀が楽しそうに、温かいコーヒーをカップに注ぐ。


「皮肉なものだな。人から金を奪うことしか考えていなかった男が、今は一円の重みに怯え、死ぬことさえ許されない搾取の鎖に繋がれている。……神宮寺、お前の欲しかった『特別な人生』は、これだったのか?」


俺は画面をスクロールし、次の報告に目を移した。

月詠澄香。五年という歳月は、彼女の傲慢さを、見るに堪えない惨めさへと変貌させていた。


写真は、寂れた地方都市のスナックが立ち並ぶ裏路地で撮影されたものだった。

そこに写っていたのは、厚化粧で肌の荒れを隠し、客引きのために薄暗い街角に立つ中年以上の風格を纏った女だ。実年齢は二十代後半のはずだが、その顔には深いシワが刻まれ、かつての美貌は多額の借金と薬物の影響、そして劣悪な生活環境によって無惨に消え去っていた。


「澄香は出所後、身元引受人もなく、親からも縁を切られ、住所不定のまま夜の街へ流れ着きました。彼女が持っているのは、前科と、数千万単位の賠償債務。真っ当な仕事に就けるはずもありません。今は客単価の低い店で、酔客の相手をしては日銭を稼ぎ、それを消費者金融への返済に充てる日々です。……最近では、精神を病んで、道行く男性に『呀くん、呀くんじゃないの?』と声をかけては警察を呼ばれることが日常茶飯事だそうですよ」


タブレットを置き、俺は窓の外を眺めた。

遥か下に見える街並み。あのどこかに、彼女はいる。

かつて彼女は「港区のタワーマンションの最上階から見える景色を知ってる?」と俺を嘲笑った。

今、俺はまさにその景色の中にいる。

彼女がどんなに背伸びをしても、どんなに魂を売っても、決して届くことのなかった、本物の成功という名の頂きに。


「彼女は今でも、俺が自分を助けに来てくれると信じているのか」


「ええ。彼女の部屋……と言っても、家賃数万のボロアパートの一室ですが、そこには呀様が昔プレゼントしたという、安物のヘアピンだけが大切に飾ってあるそうです。他の高価なブランド品はすべて神宮寺に奪われ、あるいは借金のカタに消えたのに。……今更、呀様の愛が自分にとって唯一の『本物』だったと気づいても、もう手遅れなのにね」


琥珀の言葉には、一片の同情もなかった。俺も同じだ。

澄香が今抱いているのは、愛ではない。自分を地獄から引き上げてくれる都合の良い救済への執着だ。

俺は彼女を許さない。

死ぬまで後悔させ、死ぬまで俺の幻影に怯えさせることが、四年前の俺が下した「清算」の完結だからだ。


「神宮寺と澄香。二人は一度も再会していないのか?」


「一度だけ、偶然に道ですれ違ったことがあるそうです。でも、あまりの変わり果てた姿に、お互いが誰であるかさえ気づかなかった。……神宮寺は澄香を汚い物を見るような目で避け、澄香は神宮寺をただの薄汚い労働者として無視した。かつてあれほど熱烈に愛し合い、俺を裏切った者たちの結末が、それですよ」


琥珀は俺の隣に座り、俺の肩に優しく頭を乗せた。


「素敵だと思いませんか、呀様? お互いを踏み台にして上へ行こうとした二人が、結果としてお互いの存在すら忘れるほど深い泥の中に沈んでいく。……これこそが、最上の『ざまぁ』ですわ」


俺は琥珀の柔らかな髪を撫でた。

彼女の指には、先日贈ったばかりの婚約指輪が輝いている。

四年前の俺は、愛を信じることをやめ、復讐に生きることを誓った。

でも、その復讐の旅路を共に歩んでくれた琥珀が、俺の凍りついた心に新しい火を灯してくれた。


「琥珀、来月の式の準備はどうなっている?」


「すべて順調です。式場は貸切ですし、招待客は呀様のクライアントの中でも特に信頼できる方々ばかり。……もちろん、月詠澄香と神宮寺煌流には、招待状の代わりに『私たちの幸せな結婚式の写真』を匿名で送りつける手配も済ませてありますよ」


「……相変わらず、性格が悪いな」


「呀様に似たのかもしれません。彼女たちが絶望のどん底で、私たちの幸せな写真を見ながら、自分の選択がいかに愚かだったかを再確認する。……その瞬間こそが、私たちの結婚生活の最高の幕開けになるでしょう?」


俺は声を上げて笑った。

かつて澄香と暮らしていた頃、俺はこんな風に心から笑うことがあっただろうか。

いつも彼女の顔色を伺い、彼女の機嫌を損ねないように必死だった。

そんな歪な愛を「幸せ」だと思い込んでいたあの頃の自分が、今では遠い昔の愚か者のように思える。


「呀様。……私は、あんな女たちとは違います。もし呀様がすべてを失って、またあのアパートに戻ることになっても、私は絶対に離れません。……いえ、そもそも、呀様をそんな目に合わせるような無能な敵は、私が先にすべて解体してしまいますから」


琥珀の瞳に、深い愛情と、そして獲物を狩る捕食者のような冷徹な光が宿る。

俺はこの女を信頼している。

彼女は俺の隣にいるために、あらゆる知識と技術を磨き、俺の最強の盾であり矛となってくれた。


「わかっている。……琥珀、俺の人生に君がいてくれて、本当によかった」


俺が素直な気持ちを口にすると、琥珀は顔を赤らめ、嬉しそうに微笑んだ。

その笑顔は、かつて澄香が見せていたどんな作り笑いよりも美しく、純粋だった。


食事を終え、俺たちはテラスに出た。

眼下には、動き始めた東京の街が広がっている。

数百万人の人間が、それぞれの欲望と愛憎を抱えて生きているこの街で、俺たちは勝者として君臨している。


不意に、スマートフォンの通知が鳴った。

琥珀がそれを確認し、クスクスと喉を鳴らす。


「呀様、速報です。神宮寺が現場で事故を起こし、多額の賠償金をさらに背負わされたそうです。命に別状はありませんが、これから数十年は寝る間もなく働くことになるでしょうね。……そして澄香の方は、客とトラブルを起こして店を追い出され、今夜の泊まる場所もなくなったそうです。今、街角で泣きながら呀様に電話をかけようとしていますよ。もちろん、その番号はもう存在しませんが」


「……そうか。それなら、彼女にはプレゼントを贈っておこう」


「プレゼント、ですか?」


俺は琥珀からスマートフォンを受け取り、ある指示を飛ばした。

それは、澄香が滞納している家賃を「匿名」で一ヶ月分だけ肩代わりするというものだ。


「えっ、呀様。どうして助けるような真似を……」


「助ける? まさか。……一ヶ月だけ、彼女に『もしかしたら呀が助けてくれたのかも』という微かな希望を与えるんだ。そして一ヶ月後、その希望が完全に絶たれ、再び路頭に迷う瞬間の絶望は、今の絶望よりも遥かに深くなるだろう?」


琥珀は一瞬目を見開いたが、すぐに「さすがです」と拍手を送った。


「絶望の淵で見せる一筋の光こそが、最大の拷問。……呀様、やっぱりあなたは、世界で一番残酷で、世界で一番私が愛すべき人です」


俺たちはテラスの手すりに寄り添い、どこまでも続く空を眺めた。

復讐という名の清算は、終わることのない芸術のようなものだ。

俺たちが幸せになればなるほど、あいつらの地獄は深まっていく。

俺たちが愛し合えば愛し合うほど、あいつらの孤独は研ぎ澄まされていく。


四年前、俺を捨て、俺の金を奪い、俺の未来を嘲笑った女。

そして、その女を唆し、俺のプライドを傷つけた男。

二人が今、どんなに震えていようと、どんなに泣いていようと、俺にはもう関係のないことだ。


彼らは、俺の物語における「不純物」として処理され、永遠に続く後悔の檻の中に閉じ込められた。

それだけで十分だ。


「呀様、そろそろ行きましょうか。今日は新しいプロジェクトの調印式がありますわ」


琥珀が俺の腕をとり、促した。

「ソーシャル・デストラクター」としての仕事は、今や国を跨ぐ規模の案件にまで成長している。

俺たちの前には、無限の可能性と、輝かしい未来が広がっている。


「ああ。行こう、琥珀」


俺は一度も後ろを振り返らず、部屋を後にした。

あの薄暗い過去。あの裏切りの記憶。

それらはすべて、俺たちが踏み台にして上り詰めた、瓦礫の一部に過ぎない。


エレベーターが静かに下降を始める。

階下へ向かうのではない。俺たちの人生は、これからさらに高い場所へと向かっていくのだ。


扉が閉まる間際、俺はふと思った。

澄香。神宮寺。

お前たちが死に物狂いで手に入れようとした「成功」や「幸せ」は、今、俺の手の中にある。

でも、それを手に入れるために必要だったのは、狡猾な嘘や裏切りではなく、隣にいる人間を信じ抜く誠実さだった。


その事実に、お前たちが気づくことは、この先一生ないだろう。

それが、俺が下した、最も残酷で完璧な「清算」の答えだ。


俺は琥珀の手を強く握り締め、前を見据えた。

この手だけは、決して離さない。

地獄を潜り抜け、本当の愛を見つけた俺たちの物語は、ここからまた新しく、鮮やかに色づき始める。

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「君との幸せな未来」を売る詐欺師に寝取られたので、愛を捨てた俺が彼女の全財産と間男の人生を【完全解体】して絶望のどん底へ叩き落とす話 @flameflame

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