番外編 ガラスの靴を履き違えた女――月詠澄香が夢見た虚飾の楽園と、永遠に続く後悔の味

築三十年の一軒家を改装したアパート。木造の階段を上るたびに響くギシギシという不快な音、そして廊下に漂う誰かの家の夕飯の匂い。それが、私の日常だった。


四年間、私はこの場所で一之瀬呀という男と過ごしてきた。呀は優しかった。私が疲れて帰れば温かいお茶を淹れてくれたし、誕生日には少ない予算の中から私の好きそうな雑貨を選んでくれた。大学時代、彼の書く真面目な文章に惹かれたのは事実だ。でも、社会に出て、キラキラした街の光や、同年代の女性たちがSNSにアップする贅沢な暮らしを見るうちに、私の心は少しずつ、確実に削られていった。


「ねえ、呀。私たち、いつまでこの『おままごと』を続けるの?」


夕食の質素な炒め物を前に、私は溜め息をついた。呀は困ったように笑い、「もう少しライターの仕事が軌道に乗れば、もっといい所に住めるよ」といつものセリフを繰り返す。その「もう少し」がいつ来るのか、私にはもう待てなかった。


私は、もっと選ばれるべき人間のはずだ。この若さと、それなりの美貌。私を大切に扱ってくれる、本物の「成功者」がどこかにいるはずなのに。


そんな時に現れたのが、神宮寺煌流さんだった。


彼は銀座の会員制バーで、偶然隣り合わせた私に優しく声をかけてくれた。仕立ての良いスーツ、高価な時計、そして自信に満ちた眼差し。彼は呀が持っていないすべてを持っていた。


「君のような女性が、どうしてそんなに悲しい瞳をしているんだい? 原石は、相応しい場所に置かれて初めて輝くものだよ」


その言葉に、私の心は一瞬で溶けた。彼と一緒にいれば、私もあの「輝かしい世界」の住人になれる。そう確信した。呀との四年間なんて、ただの助走に過ぎなかったんだ。


私は呀を捨てる決心をした。ただ別れるだけじゃない。私をこんな掃き溜めに四年間も縛り付けた「慰謝料」として、彼が結婚資金だと言ってコツコツ貯めていた三百万を、勝手に引き出すことにした。どうせ彼の稼ぎじゃ、この先も大した使い道なんてないだろうし、私ならもっと有効に使える。


「さよなら、呀。あなたといても、私の価値が下がるだけなの」


雨の中、縋り付こうとする彼を冷たく振り払い、私は煌流さんの待つ車に乗り込んだ。あの時の呀の絶望した顔。可哀想だとは思ったけれど、それ以上に「これで自由になれる」という高揚感が勝っていた。


煌流さんが用意してくれたタワーマンションは、まさに私の理想郷だった。


「見て、澄香。これが君に相応しい景色だ。……ただ、今は少し投資の方で資金を回していてね。君が持っているあの三百万、僕のファンドに預けてくれないか? すぐに倍にして、君に最高の結婚式をプレゼントするよ」


煌流さんの言葉を、私は一ミリも疑わなかった。彼のような成功者が、私のお金なんて狙うはずがない。私は三百万を差し出し、さらに彼に言われるがまま、消費者金融からもお金を借りた。


「これは『借金』じゃないの。未来へのチケットなのよ」


そう自分に言い聞かせた。カードの限度額がいっぱいになっても、親戚から嘘をついてお金を借りても、私は幸せだった。煌流さんの隣で、高級なシャンパンを飲み、銀座で買い物をすること。それこそが私の求めていた「本当の人生」だったから。


でも、その夢は、あまりにも唐突に、そして無残に砕け散った。


「煌流さん……? 嘘でしょ、どうして……」


ある朝、私が目覚めると、煌流さんの姿はどこにもなかった。携帯は繋がらず、マンションの管理人が「この部屋の契約は昨日で切れています。すぐに出て行ってください」と部屋に乗り込んできた。


混乱する私の元に、追い打ちをかけるように警察がやってきた。


「月詠澄香さんですね。神宮寺煌流の詐欺行為への加担、および勤務先での横領の疑いで同行を願います」


「えっ……? 横領? 何のことですか!? 私は何も知らないわ!」


叫んでも無駄だった。煌流さんに言われるがまま署名した書類は、会社のお金を不正に流用するための委任状だった。さらに、私自身が彼に渡したお金も、実際にはどこにも投資されておらず、単に彼の豪遊資金に消えていた。


仕事も、家も、信用も、すべてを失った。


雨に濡れながら、私はかつて呀と暮らしたアパートに逃げ帰った。もう、ここしか行く場所がなかった。呀なら、きっと許してくれる。彼は私を愛していたんだから、泣いて謝れば、また元通りにしてくれる。


でも、そこで私を待っていたのは、私の知っている呀ではなかった。


「……随分と無様な姿だね、澄香」


階段の下に立っていた呀は、見たこともないような高級なスーツを纏い、冷酷な目で私を見下ろしていた。


「呀! よかった、助けて! 私、騙されてたの。本当に愛してるのはあなただけだったの!」


私はなりふり構わず彼に縋り付いた。でも、呀は私の手を汚いものを見るように振り払った。


「やり直す? 澄香、君は大きな勘違いをしている。……俺がウェブライターだと言ったのは、君が俺の肩書きではなく、俺自身を見てくれるか試すための嘘だったんだ」


彼の口から語られたのは、信じられない真実だった。

彼は「ソーシャル・デストラクター」という、裏で莫大なお金を動かすプロフェッショナルだった。三百万の口座も、神宮寺という男との接触も、すべては私が裏切ることを想定して仕掛けられた「罠」だったのだ。


「君が俺から盗んだ三百万。あれを君が引き出した瞬間、君の人生の『清算』は始まったんだよ。……俺が君のために用意していた本物の幸せを、君は自分から捨てたんだ」


彼の隣には、私よりも若くて美しい女性、琥珀さんが寄り添っていた。


「呀様の横にふさわしいのは、あなたみたいな強欲な女性じゃないんですよ。……さようなら、月詠さん。一生、自分の犯した間違いを後悔して過ごしてくださいね」


琥珀さんの冷たい嘲笑。そして、呀が最後に向けた、慈悲の欠片もない氷のような眼差し。


「……嫌。嫌ああああ!!」


警察のパトカーに押し込まれる時、私は見た。呀が琥珀さんの腰を引き寄せ、高級車に乗り込んでいくのを。その車は、煌流さんが乗っていたものよりもずっと気高く、美しく輝いていた。


もし、私があのアパートで呀を信じていれば。

もし、彼の優しさを「退屈」だと思わなければ。

私は今、あの車の助手席に座り、世界で一番幸せな女性として笑っていたはずなのに。


取り調べが終わり、私は拘置所の冷たい床に座り込んでいた。


手元には、もう何も残っていない。親からは絶縁され、友人たちからは「自業自得だ」とSNSで晒し者にされている。数千万という借金と、これから始まる裁判。そして、おそらく待ち受けている刑務所での生活。


「呀……、呀……、ごめんなさい……。助けて……」


何度名前を呼んでも、返事はない。

私が捨てた男は、実は私を一番愛し、最高の贅沢をさせてくれるはずの王子様だった。一方、私が「王子様」だと思って縋り付いた男は、私の骨の髄までしゃぶり尽くすハイエナだった。


私は、世界で一番の幸運を手の中に持っていたのに、それを「価値のない石ころ」だと思い込んで、自らドブの中に捨ててしまったのだ。


「……あぁ、ごめん。その席、もう埋まってるんだ」


呀の最後の言葉が、脳内で何度も何度も繰り返される。

その「席」は、かつて間違いなく私のものだった。私のために用意され、私だけが座ることを許されていた特等席。


それを奪ったのは、神宮寺でもなく、琥珀さんでもない。

私自身の、浅ましくて浅薄な欲望だった。


暗い独房の天井を見上げながら、私は何度も自分の手を噛んだ。

呀が握ってくれた手。呀が指輪をはめようとしてくれた指。

そのすべてが、今は泥にまみれ、後悔という毒に侵されている。


「……もし、明日目が覚めて、あのアパートの朝に戻っていたら……」


そんなありもしない奇跡を祈りながら、私は泣き続けた。

でも、わかっている。時間は戻らない。呀はもう二度と私を見ない。


私がこれから過ごす何十年という時間は、彼への未練と、自分自身への呪いだけで埋め尽くされるだろう。幸せそうな呀の姿をニュースや噂で聞くたびに、私の心は新しい傷を負い、そのたびに私は「自分が何を捨てたのか」を再確認することになる。


それが、私に与えられた永遠の罰。

死ぬよりも苦しい、生きたままの地獄。


「呀……、愛してるの……。本当に、愛してるの……」


その言葉が、今の自分にとって何の意味も持たないことを知りながら、私は暗闇の中で独り、空虚な告白を繰り返した。


外では、冷たい雨が降り続いている。

あの日、呀を捨てた日に降っていた雨と同じ、冷たくて非情な雨。

でも、あの日と違うのは、私の隣に傘を差し出してくれる人は、もうこの世界のどこにもいないということだ。


私は膝を抱え、ただ震えることしかできなかった。

虚栄心の果てに辿り着いた、光のないどん底で。

私は永遠に、失ったものの大きさに怯えながら、たった独りで生きていく。


ガラスの靴を自ら砕き、裸足で茨の道を歩むことを選んだのは、紛れもない私自身なのだから。

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