第四話 震える声で「やり直したい」と泣く君へ。あぁ、ごめん。その席、もう埋まってるんだ

叩きつけるような雨が、東京の夜を塗り潰していく。

かつて月詠澄香が「掃き溜め」と呼んで蔑んだ、築三十年の古いアパート。その錆びついた階段を、一人の女が幽霊のような足取りで登っていた。


澄香だった。


数日前までの華やかな面影はどこにもない。神宮寺に買ってもらったはずのブランドもののワンピースは泥に汚れ、雨を吸って鉛のように重くなっている。手入れの行き届いていたはずの髪は顔に張り付き、剥がれかけたマニキュアが彼女の破滅を象徴していた。


彼女は震える手で、かつて自分が住んでいた部屋のドアを叩いた。


「呀……、呀……! お願い、開けて! 中にいるんでしょ!?」


返事はない。当然だ。彼女はこの部屋の鍵をゴミ箱に捨て、二度と戻らないと宣言して出て行ったのだ。しかし、今の彼女にはここしか行く場所がなかった。


実家にはすでに借金取りからの連絡が行き、両親からは「勘当だ。二度と敷居を跨ぐな」と泣きながら電話を切られた。会社からは懲戒解雇の通知が届き、横領の疑いで警察が動いているという噂も耳にした。神宮寺の知り合いだと思っていた連中は、全員が彼女を「詐欺師の共犯者」として冷たく突き放した。


「呀……、助けて。私、悪くないの。全部煌流さんに騙されただけなのよ……。ねえ、いつものように優しく笑って、中に入れてよ……!」


澄香はドアに縋り付き、声を枯らして泣き叫んだ。

彼女の脳裏には、この部屋で過ごした四年の月日が走馬灯のように駆け巡っていた。

給料日前、二人で一つのカップ麺を分け合ったこと。呀が安いライター仕事で初めて手に入れたボーナスで、小さなケーキを買ってきてくれたこと。当時は「貧乏くさい」としか思わなかったあの日々が、今では失われた楽園のように思えてならなかった。


その時、背後でカツン、と硬い靴音が響いた。


澄香は弾かれたように振り向いた。階段の下、踊り場に立っていたのは、傘もささずに悠然と立つ一人の男だった。


「……呀?」


澄香の瞳に、絶望的なまでの期待が宿る。

しかし、そこに立っていたのは、彼女が知る「売れないライターの一之瀬呀」ではなかった。

体に吸い付くような漆黒のオーダーメイドスーツを纏い、腕には家が一軒買えるほどの超高級時計。その立ち居振る舞いは、神宮寺が見せていた薄っぺらな「成功者」の演技とは一線を画す、本物の強者の風格を漂わせていた。


「随分と無様な姿だね、澄香」


呀の声は、雨音さえも凍りつかせるほどに冷たかった。


「呀! よかった、会いたかったの! 私、本当に馬鹿だった。煌流さんに騙されて、あなたの大切さをやっと分かったの。ねえ、やり直しましょう? 私、もう贅沢なんて言わない。ここで、また二人で……」


澄香が駆け寄り、呀の胸に飛び込もうとした。

しかし、呀は一歩も動かず、ただ冷淡な視線を彼女に向けるだけで、彼女の接近を拒絶した。その無言の圧力に、澄香は足を止める。


「やり直す? 君はまだ、自分が何をしたのか理解していないようだね」


「……え?」


「君が俺の口座から引き出した三百万。あれが何だったか教えてあげようか。あれは、俺が君に用意していた『最後の試験』だったんだよ」


呀はゆっくりと階段を登り、澄香と同じ高さに立った。彼の瞳には、かつての愛の欠片も残っていない。


「俺の本当の職業は、ウェブライターじゃない。『ソーシャル・デストラクター』……人間関係の清算人だ。クライアントの依頼を受け、社会に巣食う害虫を排除し、不必要な縁を断ち切る。それが俺の本業だ」


澄香は、呀が何を言っているのか理解できず、ただ呆然と口を開けた。


「俺は四年前、ある調査の過程で君と出会った。最初はただの偶然だった。でも、君の純粋な部分に惹かれたのも事実だ。だから俺は、自分の身分を隠し、君が俺の『肩書き』ではなく『俺自身』を見てくれるかどうか、試すことにしたんだ。もし君が、俺が貧乏でも最後まで側にいてくれたなら、俺はすべてを明かして、君を一生幸せにするつもりだった」


呀は自嘲気味に笑い、ポケットから一枚のカードを取り出した。それは、都内の超一等地にある最高級マンションのオーナーズカードだった。


「でも、君は神宮寺という安っぽい詐欺師に唆され、俺を『停滞した人間』と蔑み、挙句の果てに結婚資金を盗んで逃げた。……澄香、君が盗んだあの三百万の口座。あれは、俺が君の『底意地』を測るためにあえて残しておいた、追跡マーカー付きの餌だったんだよ」


「え……。じゃあ、あの三百万は……」


「俺にとっては、一晩のチップにもならない端金だ。でも、君にとっては、自分の人生を売り払うのに十分な金額だったというわけだ」


澄香の膝が、がくがくと震え始めた。

自分が捨てたものが、ただの貧乏な男ではなく、自分を真の意味で救い、高みに連れて行ってくれるはずの「本物の成功者」だった。その事実が、神宮寺に騙されたこと以上に、彼女の心を粉々に打ち砕いた。


「嘘……。そんなの、嘘よ……。呀、お願い、嘘だと言って! あなたは私を愛していたんでしょ!? 私のために、何でもするって言ったじゃない!」


「言ったね。でも、それは『俺を愛してくれている月詠澄香』に対してだ。今の君は、ただの強欲な犯罪者だ。……あぁ、そうそう。君が今日ここに来ることは分かっていたから、特別なゲストを呼んでおいたよ」


呀が指を鳴らす。

すると、アパートの下に停まっていた黒塗りの高級車のドアが開き、一人の少女が降りてきた。


「お待たせしました、呀様。……わあ、まだいたんですね。雨に濡れた捨て犬みたいで、ちょっと可哀想になっちゃいます」


現れたのは、琥珀だった。彼女は呀の隣に並ぶと、親しげに彼の腕に絡みついた。その指先には、先日銀座で澄香が欲しがっていた、あの指輪よりも遥かに巨大で美しいダイヤモンドが輝いていた。


「彼女は狗巻琥珀。俺の新しいパートナーだ。……そして、俺がこれから一生をかけて愛すると決めた女性だ」


「新しい……パートナー……?」


「ええ。あなたと違って、私は呀様の『価値』を最初から理解していましたから。……呀様を裏切って、あんな詐欺師に乗り換えるなんて、どんなセンスしてるんですか? おかげで、私はこんなに幸せになれましたけど」


琥珀は澄香に向けて、慈悲深いとさえ思えるような残酷な微笑みを向けた。


「澄香、もう終わりだ。君が望んだ『成功者との幸せな未来』は、すぐ隣にあったんだよ。でも、君は自分の手でそれをゴミ箱に捨てた。……もう、その席は彼女のものだ」


「嫌……。嫌あああああ! 呀、私を捨てないで! 私、何でもするから! あなたの奴隷にでもなるから、お願いだから助けて!」


澄香は呀の足元に縋り付き、なりふり構わず泣き叫んだ。泥に汚れた指が呀の高級なスラックスを汚すが、呀は眉一つ動かさない。


「奴隷? ……いらないな。俺の人生に、不純物は必要ないんだ」


呀は冷たく言い放つと、スマートフォンを取り出した。


「警察ですか。ええ、指名手配中の月詠澄香を確保しました。場所は……」


「呀!? やめて、お願い! 警察だけは!」


「逃げられると思っていたのか? 君が偽造した書類、会社の横領の証拠、そして神宮寺との共謀の記録。すべて俺が精査して、当局に提出済みだ。……君はこれから、冷たい塀の中で、自分が捨てたものの大きさを数えながら過ごすといい」


遠くから、サイレンの音が聞こえてきた。それは、澄香の人生に引かれる終止符の音だった。


「……さようなら、澄香。これが、俺の最後の『清算』だ」


呀は琥珀を促し、階段を降り始めた。

背後で澄香が「呀! 呀!!」と名前を呼び続ける声が響くが、呀は一度も振り返らなかった。


階段の下には、すでに数台のパトカーが到着していた。

警察官たちが階段を駆け上がり、狂ったように泣き叫ぶ澄香の腕を掴み、手錠をかける。


「離して! 呀が、呀が私を助けてくれるの! 私たちは愛し合っていたのよ! 呀――!」


パトカーに押し込まれる間際、澄香の視線が、呀の乗る高級車とぶつかった。

スモークガラス越しに見える呀の横顔は、恐ろしいほどに穏やかで、そして完全に彼女を忘却の彼方へ追いやっていた。


彼女は悟った。

自分が犯した最大の過ちは、神宮寺に騙されたことではない。

自分を誰よりも深く愛し、最高の未来を用意してくれていた男の価値を見誤り、自らの欲でそれを踏みにじったことなのだと。


パトカーのドアが閉まり、彼女の視界から光が消えた。

彼女に残されたのは、一生消えることのない罪の烙印と、暗い独房で繰り返される果てしない後悔だけだった。


車内。


「……呀様、終わりましたね。本当に、徹底的でした」


助手席で琥珀が、満足げに背伸びをしながら言った。


「ああ。これで依頼された『清算』はすべて完了だ。……少し、遠回りをしすぎたかもしれないがな」


「いいじゃないですか。おかげで、私も呀様のお隣をゲットできたわけですし。……ねえ、これからどうします? 久しぶりに、本当のバカンスにでも行きますか?」


「そうだな。……南の島でも行こうか。もう、雨の音は聞き飽きた」


呀はアクセルを踏み込んだ。

車の背後では、事件現場の喧騒が遠ざかっていく。


神宮寺煌流は、取調室で自分を陥れた「一条愛里」の正体を知り、絶望のあまり発狂したという。彼は多額の負債を抱えたまま、裏社会の追っ手からも警察からも逃げられない地獄の日々を送ることになる。


そして月詠澄香は、裁判で重い実刑判決を言い渡されることになるだろう。

彼女が刑務所の中で、かつて呀と食べた「安いレトルトカレー」の味を思い出して涙しても、もうその声が呀に届くことは二度とない。


愛を捨て、復讐を選んだ男。

欲に溺れ、すべてを失った女。

そして、その欲を餌にして、悪を喰らう少女。


都会の夜は、何事もなかったかのように、冷たく、そして美しく輝き続けている。


「呀様、大好きですよ」


隣で琥珀が、甘えるように肩に頭を乗せてくる。

呀はその柔らかな温もりを感じながら、夜のハイウェイを加速させた。


かつて誰かを守るために握ったハンドルは、今では新しいパートナーと共に、自由な未来へと向かっている。


バックミラーに映る東京の街並みは、まるで燃え尽きた灰のように白く霞んで見えた。

一之瀬呀という男の物語から、月詠澄香という章は完全に消去された。


次に彼が綴るのは、どんな冷酷で、そして甘美な「清算」の記録だろうか。

夜の風が、彼の唇から漏れた小さな笑い声を、どこまでも遠くへと運んでいった。

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