第三話 成功者の仮面が剥がれる時。間男が縋ったのは、俺が用意した偽りの救済だった

夜の帳が下りた西麻布。きらびやかなネオンが濡れたアスファルトに反射し、虚飾の街を彩っている。その一角にある隠れ家的な高級バーのカウンターで、神宮寺煌流は焦燥を隠しきれない様子で、何度もスマートフォンの画面を確認していた。


彼のトレードマークだった余裕たっぷりの微笑みは消え失せ、高価なイタリア製スーツの肩には、どこか隠しきれない生活の疲れが滲んでいる。


「……クソっ、どいつもこいつも手のひらを返しやがって。たかが国税が動いたくらいで、ビビりやがって」


神宮寺が吐き捨てるように呟き、ロックグラスに残ったウイスキーを煽った。


彼の「王国」は、今や崩壊の瀬戸際にあった。呀と琥珀が裏で糸を引いたリークにより、神宮寺の手掛けていた投資案件のいくつかが詐欺の疑いで家宅捜索を受け、銀行口座は凍結寸前。さらに、これまで彼を「成功者」として崇めていた女性たちが、一斉に被害届を出し始めたのだ。


「煌流さん、どうしたんですか? そんなに怖い顔をして」


不意に横からかけられた涼やかな声に、神宮寺は弾かれたように顔を上げた。


そこにいたのは、神宮寺がこれまで見てきたどの女よりも「本物」を感じさせる、圧倒的な気品を纏った美女だった。漆黒のドレスに身を包み、首元には控えめながらも数千万円は下らないであろう大粒のダイヤモンドが輝いている。


「あ……。いえ、少し仕事のトラブルを思い出してしまいまして。お見苦しいところをお見せしました」


神宮寺は瞬時に「成功者の仮面」を貼り付けた。彼にとって、目の前の女は絶望の淵で見つけた最後の希望、すなわち、新しい「金主」に見えたのだ。


「お仕事、大変そうですわね。……あ、申し遅れました。私、一条愛里(いちじょう あいり)と申します。父の会社の資産運用を少し手伝っているのですが、最近は退屈な案件ばかりで困っていましたの」


「一条……? もしかして、一条グループの……?」


神宮寺の瞳に、ギラリとした強欲の光が宿る。一条グループと言えば、日本を代表する巨大コンツェルンだ。その令嬢となれば、彼がこれまで騙してきた小娘たちとは比較にならないほどの資産を持っているはずだ。


「ええ、そうですわ。……実は、かねてより神宮寺様の噂は伺っておりました。『若き天才コンサルタント』として、型破りな手法で利益を上げていらっしゃると。私の父も、あなたの感性に興味を持っていますのよ」


「……光栄です。いや、実は今、まさに国家レベルの巨大なエネルギープロジェクトを動かしていましてね。ただ、政府との兼ね合いで一時的に資金の流動性が滞っておりまして……。もし一条様のような素晴らしいパートナーがいれば、百億、千億という利益を出すことも容易いのですが」


神宮寺は堰を切ったように、嘘八百のプロジェクトを語り始めた。その言葉の一つ一つを、美女――変装した琥珀は、楽しそうに微笑みながら聞いていた。


カウンターから少し離れたボックス席で、俺はその光景を静かに眺めていた。耳に装着した小型のインカムからは、二人の会話が鮮明に聞こえてくる。


「呀様、神宮寺が食いつきましたよ。完全に『一条愛里』という虚像に恋をしています。……いえ、彼女が持つ『金』に、ですね」


琥珀の冷静な声が、俺の耳に届く。


「ああ。そのまま誘導しろ。彼が持っている残りの『汚れた金』をすべて吐き出させるんだ」


「了解です。……さあ、神宮寺様。地獄への特等席へご案内しますわ」


琥珀は優雅にグラスを傾け、神宮寺に囁いた。


「神宮寺様。もしあなたが本気でしたら、私の方で調整いたしましょうか? 父の秘密のファンドから、緊急で融資を受けることができますわ。……ただし、それには誠意を見せていただかなければなりません。契約金として、最低でも一千万円。それをご用意いただければ、私はあなたを全力でバックアップいたします」


「……一千万。わ、わかりました! すぐに用意します!」


神宮寺は、それが罠だとも気づかずに飛びついた。その一千万は、彼が澄香に無理な借金をさせて作らせた金であり、さらには裏社会の人間から「すぐに増やす」と約束して預かった、命よりも重い金だった。


数時間後。神宮寺は指定された銀行口座に全財産を振り込んだ。彼のスマートフォンには、一条愛里からの「確認いたしましたわ。明日、父をご紹介します」というメッセージが届く。


それが、神宮寺が「幸福」を感じた最期の瞬間だった。


翌朝。神宮寺が指定されたホテルへ向かうと、そこには一条愛里の姿も、一条グループの人間もいなかった。待っていたのは、数人の屈強な男たちと、警察官の集団だった。


「神宮寺煌流だな。有印私文書偽造、および詐欺の容疑で逮捕状が出ている。同行願おうか」


「……は? 何を言ってるんだ! 私は一条グループと……」


「一条グループ? 何の話だ。お前が金を振り込んだ先は、すでに凍結されている架空口座だ。それに、お前が裏で繋がっていた『フロント企業』からも、金の横領で被害届が出ているぞ」


神宮寺の顔が、土色を通り越して真っ白になる。


「嘘だ……。愛里さんは!? 彼女はどこにいるんだ!」


「そんな女、存在しないよ、神宮寺」


雑踏の中から、一人の男がゆっくりと歩み寄った。安っぽいパーカーを羽織り、冴えないウェブライターの風貌をした俺――一之瀬呀だ。


「……呀!? お前、どうしてここに……」


「お前に紹介した『一条愛里』は、俺の部下だ。お前が彼女に振り込んだ一千万、そして澄香から奪った金は、すべて適切なルートで被害者たちへの賠償に充てさせてもらったよ」


俺は冷徹に、逮捕されて震える神宮寺を見下ろした。


「お前……! お前が仕組んだのか!? たかが売れないライターの風情で……!」


「ああ。お前が澄香を誘惑し、俺を嘲笑ったその日から、このシナリオは始まっていたんだ。お前は自分の『欲』に負けて、自ら罠の中に飛び込んだんだよ」


神宮寺は狂ったように叫び、暴れたが、容赦なくパトカーに押し込まれていった。彼の社会的地位、名声、そして他人から奪った金。そのすべてが砂の城のように崩れ去った瞬間だった。


間男の退場を見届けた後、俺は視線を横に向けた。そこには、変わり果てた姿の月詠澄香が立っていた。


彼女は、ボロボロになったワンピースを纏い、髪は乱れ、瞳には絶望の色が濃く滲んでいる。神宮寺の逮捕を目の当たりにし、自分が信じていた「輝かしい未来」が最初から存在しなかったことを理解したのだろう。


「呀……。ねえ、呀……」


澄香が、震える足取りで俺に近寄ってくる。その姿には、かつての華やかさは微塵もなかった。


「全部、嘘だったの……? 煌流さんは、詐欺師だったの……?」


「ああ。君が『運命の王子様』だと思い込んでいた男は、君を金蔓としか見ていなかった。君が彼のために作った借金も、君の名義で偽造した書類も、すべて現実だ」


「そんな……。私、どうすればいいの……? 仕事も失って、家も追い出されて、親戚からも縁を切られて……。私、もう死ぬしかないじゃない……!」


澄香は路上に崩れ落ち、泣きじゃくった。通行人たちは、不審なものを見るような目で彼女を避けていく。


「……助けて、呀。お願い。あなたが私を愛してくれていたことは分かってる。あの時、私を止めようとしてくれたのも、本当の優しさだったって気づいたの。ねえ、もう一度だけやり直させて。私、心を入れ替えるから。あなたとなら、あのボロアパートでも幸せになれるから……!」


澄香は、俺の靴にしがみつこうとした。かつて、俺の手を「汚れるわ」と振り払ったその手で、今は俺の救済を求めている。


俺はゆっくりと身をかがめ、彼女の顔を覗き込んだ。そして、四年間、彼女を愛し続けた男としては考えられないほど、冷酷な笑みを浮かべた。


「やり直す? 澄香、君は何を言っているんだ」


「え……?」


「君が俺から奪ったのは、ただの三百万じゃない。四年間という時間と、俺の君に対する信頼だ。それを『ごめんなさい』の一言で清算できると思っているのか?」


俺は立ち上がり、彼女の指を一本ずつ、丁寧に、そして冷たく引き剥がした。


「今の君に残っているのは、数千万の借金と、詐欺の共犯者としての前科だ。……あ、言い忘れていたけれど。君が会社で犯した横領の証拠、あれも俺が匿名で提出しておいた。明日には、君のところにも警察が来るだろうね」


「……っ!? 呀、どうして……。そんなの、あんまりじゃない……!」


「あんまりなのは、君の方だよ。俺は君との未来を信じて、必死に働いていた。それを嘲笑い、踏みにじったのは君だ。……俺はただ、君が望んだ『特別な人生』を与えてあげただけだ。誰も助けてくれない、光のない場所で、一生をかけて罪を償う人生をね」


俺の言葉に、澄香は絶望という名の闇に飲み込まれたような顔をした。彼女の口から言葉が漏れることはなく、ただ、喉の奥からヒュッというかすれた呼吸の音が漏れるだけだった。


「呀様、お疲れ様です。……あ、お邪魔でしたか?」


背後から、変装を解いた琥珀が歩み寄ってきた。彼女は俺の腕に自然な動作で寄り添い、地面に這いつくばる澄香を見下ろした。


「……誰、その女……」


澄香が、消え入るような声で問う。


「彼女は琥珀。俺の仕事のパートナーであり、今の俺にとって最も信頼できる女性だ。……澄香、君の席はもう、どこにもないんだよ」


琥珀は澄香に向けて、完璧な勝利者の微笑みを浮かべた。それは、かつて澄香が俺に向けていた蔑みの微笑みを、何倍にも残酷にしたような色をしていた。


「さあ、行きましょうか、呀様。今日は最高のお祝いをしなきゃ」


「ああ、そうだな」


俺は一度も振り返ることなく、琥珀と共に歩き出した。背後からは、澄香の狂ったような叫び声と、嗚咽が聞こえてきたが、俺の心には何の波紋も起きなかった。


彼女がこれから歩む道は、まさに彼女が俺を突き落とした地獄そのものだ。いや、それよりもさらに暗く、深い場所だろう。


神宮寺煌流は、刑務所の中で裏社会の報復に怯えながら過ごすことになる。

月詠澄香は、莫大な借金と罪を背負い、かつて自分が蔑んでいた「底辺の生活」以下の場所で、死ぬまで後悔し続けることになる。


俺たちの乗った車が走り出す。夜の街の光が流れ去っていく中で、俺は静かに目を閉じた。


復讐という名の清算は、ほぼ完了した。

残されているのは、彼女が最後に縋ろうとした一筋の希望さえも、徹底的に打ち砕く最後の幕引きだけだ。


「……ねえ、呀様。彼女、最後になんて言ったと思います?」


隣でタブレットを眺めていた琥珀が、可笑しそうに尋ねてきた。


「興味ないな。何を言ったところで、彼女の人生はもう終わっている」


「『愛してる』ですって。……あはは、滑稽ですよね。すべてを失ってから、自分を捨てた人にそんな言葉を吐くなんて。人間の欲って、本当に醜くて美しいわ」


琥珀の笑い声が、車内に響く。


俺は何も答えなかった。ただ、胸の奥に灯っていた復讐の炎が、穏やかに凪いでいくのを感じていた。


澄香。君は「幸せな未来」を売る男に騙された。

そして、その男を信じたせいで、君の未来は永遠に閉ざされた。


俺が君に与えた最後のプレゼントは、君が最も嫌っていた「孤独」と「絶望」だ。それを、死ぬまでじっくりと味わってほしい。


車は夜の街を抜け、静かな住宅街へと入っていく。

明日、澄香の元に警察が訪れるとき、俺の復讐は完成する。


そして俺は、彼女という過去を完全に捨て去り、琥珀と共に新しい物語を書き始める。

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