伴走者 ―新人理学療法士と棟梁の再設計図―

佐藤くん。

消えない擦過傷

第1話 紺色の鎧

 その紺色のスクラブは、まだ身体に馴染んでいなかった。  クリーニングから戻ってきたばかりの、糊の効きすぎた硬いポリエステル生地が、首筋や脇の下に当たるたびに、チクリとした微かな拒絶を返してくる。


 千葉県内でも有数の病床数を誇る、総合病院の職員用更衣室。  朝の八時十五分。スチール製のロッカーが並ぶ無機質な空間には、制汗スプレーとコーヒーの匂いが混じった、男ばかりの部室のような空気が漂っていた。  その一角で、橘叶多(たちばな かなた)はロッカーの鏡に映る自分自身と、もう五分も睨めっこを続けていた。


 襟は整っているか。  胸元や首から下げるストラップに、ボールペンなどの硬い小物は入っていないか。介助中に患者の顔や身体に当たれば、それは凶器になる。袖のペン差しも同様に危険だ。ペンはスクラブの腰ポケットの奥へ、PHSは専用のポーチへ。  爪は、白い部分が残らないよう一ミリ以下の精度で切り揃えられているか。  腕時計の秒針は、NHKの時報とコンマ一秒のズレもなく合っているか。  髪は、額にかかって不潔な印象を与えていないか。


 これらはすべて、養成校での四年間、耳にタコができるほど叩き込まれた「リスク管理」の鉄則であり、今日からプロとして金銭を受け取る者の最低限の流儀だ。  鏡の中の自分は、どこからどう見ても完璧な「新人理学療法士」に見えた。  少なくとも、外見だけは。


「……よし」  小さく呟き、自分の強張った頬を両手でパチンと叩く。  乾いた音が、静かな更衣室に響いた。


「おっ、今日も気合入ってんねえ、橘」  背後から、少し間の抜けた声がかかった。  同期入職の作業療法士、木下だ。彼は欠伸を噛み殺しながら、ロッカーから取り出したエンジ色のスクラブに腕を通している。 「木下、スクラブの背中、シワだらけだぞ」 「うっそ、マジで? あー、まあいいや、どうせリハ室行ったら汗かくし」  木下はヘラヘラと笑いながら、寝癖のついた髪を適当に手で撫でつけた。 「お前さ、もうちょっと肩の力抜けよ。入職して一ヶ月経つんだぜ? そんなガチガチじゃ、患者さんも緊張しちゃうって」 「……これは緊張してるんじゃない。準備だよ。プロとしての」  叶多は生真面目に返したが、木下は「はいはい、優等生」と肩をすくめただけだった。


 木下の言う通りかもしれない。  自分は、少し過剰なのかもしれない。  だが、手を抜くことが怖かった。  三月の国家試験合格発表で味わった、あの天に昇るような高揚感は、今や跡形もない。代わりに、胃の腑に鉛を流し込まれたような、重苦しい緊張感だけがそこにある。  学生時代、ペーパーテストの成績は常にトップクラスだった。知識には自信がある。解剖学も、生理学も、運動学も、教科書の内容なら空で言える。  しかし、臨床の現場は違った。  生身の患者は、教科書通りには反応してくれない。痛み、感情、認知機能、家族背景。複雑な変数が絡み合う「正解のない問い」を、毎日突きつけられている気がしていた。


 だからこそ、叶多はこの「紺色の鎧」にすがっていた。  完璧な身だしなみを整え、完璧な手順を踏めば、自分は「できるセラピスト」になれるはずだ。そう信じていないと、足がすくんでしまいそうだった。


「お先」  叶多は木下より先に更衣室を出た。  重い鉄扉を開ける。  一歩踏み出した先にあるのは、朝の喧騒だ。  アルコール消毒液のツンとした匂い。廊下を行き交うストレッチャーの車輪が転がる、ゴロゴロという重低音。ナースコールの電子音が遠くで不規則に重なり合い、病院という巨大な有機体が目を覚ます音がする。


 リハビリテーション部へ向かう長い渡り廊下で、前を行く背中を見つけた。  その背中を見た瞬間、叶多の背筋が反射的に伸びた。  成瀬(なるせ)だ。  この病院のリハビリテーション部で、若手ながら「エース」と目される認定理学療法士。そして、叶多のプリセプター(指導係)でもある。


 彼もまた、叶多と同じ紺色のスクラブを身に纏っているが、その着こなしは別次元だった。鍛えられた身体に生地が吸い付くようにフィットし、無駄なシワ一つない。  歩き方も違う。  踵から柔らかく接地し、足指でしっかりと床を蹴る。教科書通りの完璧な歩行周期(ゲートサイクル)。体幹の動揺が一切ないその歩みは、彼という人間性をそのまま表しているようだった。  効率的で、合理的で、そして何より美しい。


 叶多は小走りで距離を詰め、声をかけた。 「おはようございます!」  成瀬は歩調を緩めずに、わずかに首だけを動かして振り返った。眼鏡の奥の瞳が、冷徹な光を帯びている。 「……早いな、橘。今日の予習は」  声の温度が低い。怒っているわけではない。ただ、感情という不純物をろ過したような、純度の高い「業務モード」の声だ。 「はい。昨日のカルテ確認、済ませてあります。八時四十分からは慢性期病棟の田中さん、リハ室での評価からですよね。昨日の記録では、端坐位保持が少し不安定だったとありましたので、今日はそこを中心に……」


 叶多が早口でまくし立てると、成瀬は片眉をピクリと上げた。 「……カルテの文字だけを追うなよ」 「え?」 「昨日の田中さんが不安定だったのは、血圧のせいか? それとも覚醒レベルか? あるいは、ただ単に枕が変わって眠れなかっただけかもしれない。……『現象』には必ず『理由』がある。それを見極めるのが、僕たちの仕事だ」  成瀬はそう言い捨てると、再び前を向いた。 「しっかり見ておけ。僕の動き、患者の反応、そのすべてに理由がある」 「は、はい!」


 叶多は慌ててポケットからメモ帳を取り出し、その背中を追った。  やはり、この人はすごい。  たった一言で、自分が「点」でしか見ていなかった事象を、「線」で繋げて見せてくれる。  いつか、自分もあんな風になりたい。  いや、ならなければならない。  早く一人前だと認められたい。成瀬さんに、「橘、よくやったな」と、その厳格な口元を緩ませて笑ってもらいたい。  その焦燥にも似た憧れが、叶多の視野を、知らず知らずのうちに狭めていたことに、彼はまだ気づいていなかった。


 自動ドアを抜けると、そこには圧倒的な「熱量」があった。  体育館のように天井が高い、総合リハビリテーション室。  バスケットコートが二面は取れそうな広大な空間に、朝の光が降り注いでいる。  脳卒中後の片麻痺患者が平行棒の中で足を出し、スポーツ外傷の高校生がエアロバイクを漕ぎ、担当のセラピストたちが大きな声でカウントを取る。


「いち、に、さん! いいですよ!」 「膝、もっと伸ばして! 負けるな!」


 何十人もの人間が、それぞれの「回復」に向かって必死にもがいている。そこには、病棟の停滞した空気とは違う、むせ返るようなポジティブなエネルギーが渦巻いていた。  叶多はその熱気に気圧されそうになりながらも、成瀬の後ろに続き、自分たちの「戦場」であるプラットフォーム(治療台)へと向かった。


 そこには、搬送担当の助手によって一足先に病棟から連れてこられた、最初の患者・田中トミさんが、車いすの上で小さくなって待っていた。

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