第35話 守護獣の不調

嵐が去った後の朝は、拍子抜けするほど静かだった。


俺は厨房に立ち、いつものように朝食の準備をしていた。

トントントン、と包丁がまな板を叩く音が、心地よいリズムを刻む。

昨夜の喧騒――50人の騎士たちがラーメンを啜る音――が、まるで遠い夢の出来事のように感じられる。


「店長様、おしぼりの準備ができました!」


リリが元気な声で報告してくる。

彼女のエプロン姿もすっかり板についた。

昨日の今日だというのに、彼女の表情に疲れはない。

むしろ、店を守りきったという達成感が、その翠色の瞳を輝かせているようだった。


「ご苦労さん。……エリザはまだ来ないか?」


「はい。昨日は遅くまで残っていましたから、きっとお寝坊さんですね」


リリがクスクスと笑う。

平和だ。

地獄の底とは思えないほど、穏やかな日常が戻ってきた。


俺は冷蔵庫から、とっておきの食材を取り出した。

エリザが以前差し入れてくれた『ダンジョンマグロ』の柵だ。

中トロの部分。

脂が乗って、宝石のように輝いている。


これは俺たちの朝飯ではない。

この店の守り神――もとい、我が物顔で居座る黒猫様への貢物だ。


「ほら、クロ。朝飯だぞ」


俺は切り分けた刺身を小皿に盛り、カウンターの端へ置いた。

いつもなら、この音と匂いで飛び起きてくるはずだ。

「遅いぞ人間」と文句を言いながら、ガツガツと平らげるのが日課だ。


だが。


「……クロ?」


反応がない。

クロは専用の座布団の上で丸まったまま、ピクリとも動かなかった。


まだ寝ているのか?

いや、猫の聴覚が俺の足音や皿の音を聞き逃すはずがない。


俺は布巾で手を拭き、クロのそばへ寄った。


「おい、起きろ。マグロだぞ。……一番いいとこ切ったんだからな」


指先で、黒い背中をつつく。

温かい。

生きている。

だが、その体はいつもより少し熱っぽい気がした。


クロがゆっくりと、億劫そうに目を開けた。

金色の瞳が、ぼんやりと俺を見上げる。

瞬膜が下りていて、覇気がない。


『……いらん』


短く、力のない声が頭に響いた。


「は?」


俺は耳を疑った。

こいつが、マグロをいらないと言ったのか?

天変地異でも起きるんじゃないか。


「どうしたんだよ。腹でも壊したか? ……あ、昨日のラーメンか? 食べすぎたのか?」


『……うるさい。腹が、重いのだ』


クロは不機嫌そうに尻尾を一度だけパタンと振ると、再び目を閉じてしまった。

マグロには見向きもしない。

それどころか、匂いを嗅ぐのさえ嫌がっているように見えた。


「店長様……クロ様のご様子が」


リリが心配そうに駆け寄ってきた。

彼女はクロの前に膝をつき、そっと手をかざす。


「……熱いです。魔力の循環が、ひどく滞っています」


「風邪か?」


「わかりません。ですが、精霊獣様がこれほど弱るなんて……ただ事ではありません」


リリの顔が曇る。

俺も不安になった。

このふてぶてしい猫が弱っている姿なんて、想像もしていなかったからだ。

こいつは常に最強で、傲慢で、そして健啖家であるはずだった。


「……とりあえず、水だけ置いておくか。寝かせておこう」


俺はマグロを下げ、代わりに水の入った皿を置いた。

クロは身じろぎもせず、荒い呼吸を繰り返している。


『グゥ……』


苦しげな唸り声。

俺にはどうすることもできない。

薬を作るにしても、症状がわからなければ手の施しようがない。

結界の中なら状態異常は回復するはずだが、それでも治らないということは、外傷や病気ではない何かが原因なのだろうか。


          ◇


ランチタイムの準備をしながらも、俺の気はそぞろだった。

カウンターの隅で丸まる黒い毛玉が気になって仕方がない。


「店長様、表の掃除をしてきますね」


リリが気を使って、箒と塵取りを持って外へ出た。

俺は頷き、仕込み中のスープをかき混ぜる。


数分後。


「きゃあああああっ!!」


リリの悲鳴が聞こえた。

ただ驚いた声じゃない。

恐怖を含んだ、切迫した叫び声だ。


「リリ!?」


俺はレードルを放り出し、勝手口から飛び出した。

表へ回る。

リリは店の入り口付近で尻餅をつき、震える指で「外」を指差していた。


「な、なん……なんですか、あれ……!」


俺はブラインドの隙間から、外を見た。


息を呑んだ。


「……なんだ、これ」


風景が変わっていた。

いや、汚染されていた。


店の周囲。

いつもなら赤黒い岩盤と、遠くに見えるマグマの輝きだけがある無機質な世界。

その地面から、何かが滲み出している。


黒い、泥だ。

アスファルトを煮溶かしたような、あるいは腐った沼の底のような、粘着質の液体。

それが岩の割れ目から、ブクブクと泡を立てて湧き出している。


「石油……じゃないよな」


嫌な予感がした。

ただの液体じゃない。

見ているだけで、胸が悪くなるような不快感。

生理的な嫌悪感を催させる「色」をしている。


その時。

天井付近を飛んでいた小型の翼竜――『フライ・ワイバーン』が、獲物を見つけたのか急降下してきた。

狙いは、泥の中に蠢く何かだったのか、それとも泥そのものを水場と勘違いしたのか。


ワイバーンが黒い泥に着地した。

その瞬間。


ジュッ。


肉が焼けるような音がした。


『ギャアアアアアッ!?』


断末魔。

ワイバーンが羽ばたこうとするが、足が泥から離れない。

泥は生き物のように粘りつき、瞬く間にワイバーンの体を這い上がっていく。

鱗が溶ける。

肉が崩れる。

骨さえも、黒い濁流に飲み込まれていく。


数秒後。

そこには何も残っていなかった。

ワイバーンがいた痕跡すらなく、ただ黒い泥が、満足げに泡を吹いただけだった。


「……ひっ」


リリが口元を押さえた。


「溶けた……?」


俺は背筋が凍りつくのを感じた。

酸か?

いや、あれはもっと性質の悪いものだ。

存在そのものを塗り潰すような、圧倒的な「死」の塊。


俺の『絶対安全圏』の結界は、店から半径5メートル。

黒い泥は、その境界線のすぐ外側まで迫っていた。

結界に触れた泥は、見えない壁に阻まれて止まっているが、じわじわと包囲網を狭めようとしているように見える。


「店長様……聞こえます」


リリが青ざめた顔で、耳を押さえていた。


「悲鳴が……。星が、泣いています。痛い、苦しい、重いって……」


「星が?」


「あの泥は……ただの汚れじゃありません。もっと深い、呪いのような……」


リリの言葉に、俺はハッとした。

クロの様子がおかしいのと、この泥が現れたのは、ほぼ同時期だ。

まさか、関係があるのか?


クロは以前、自分のことを「上位存在」だと言っていた。

もしあいつが、このダンジョンそのものとリンクしているとしたら。

この泥は、あいつの体調不良が具現化したものなのか?


「……とにかく、中に入れ」


俺はリリの腕を引いた。

あんなものが結界の中に入ってくるとは思えないが、近くにいるだけで精神が削られそうだ。


店内に戻り、鍵をかける。

冷房の効いた快適な空間。

だが、窓の外に広がる黒い絶望を見た後では、この安全さが脆いガラス細工のように感じられた。


クロはまだ、カウンターの隅で苦しげに寝息を立てている。


「……お前、一体何と戦ってるんだ?」


俺はクロの背中を撫でた。

熱い。

まるで高熱を出した子供のようだ。


その時だった。


カッ!


窓の外が、強烈な光に包まれた。

マグマの赤じゃない。

純白の、清浄な光だ。


「今度はなんだ!?」


俺は再び窓際へ走った。

光の源は、店のすぐ近く。

以前、俺がこの階層に捨てられた時に使われた、一方通行の転移ポイント――通称『ゴミ捨て場』の出口だ。


光の柱が立ち昇り、黒い泥を弾き飛ばしている。

そして、その光の中から、人影が現れた。


複数人だ。

全身を銀色の甲冑で包んだ騎士たちが数名。

そしてその中心に、一際小柄な影がある。


純白のローブ。

金色の髪。

手には大きな杖。


距離があるため表情までは見えないが、その佇まいは、地獄の底にはあまりにも不釣り合いな「聖なるもの」を感じさせた。


「……女の子?」


俺が呟いた直後、取り囲んでいた騎士たちが、次々とその場に崩れ落ちた。

まるで糸の切れた人形のように。

黒い泥に触れたわけじゃない。

ただ、その場の空気を吸っただけで倒れたように見えた。


立っているのは、中心の少女一人だけ。


彼女は倒れた仲間を一瞥し、何かを唱えた。

そして、顔を上げた。

その視線が、真っ直ぐに俺の店――この異質なプレハブ小屋を射抜く。


敵か、味方か。

少なくとも、ただの客じゃないことだけは確かだ。


俺はエプロンの紐を握りしめた。

どうやら、昨日の騎士団騒ぎは、ただの前座に過ぎなかったらしい。

本当の「嵐」が、今まさに店のドアを叩こうとしていた。

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