第34話 運がいい

洗っても洗っても減らなかった皿の山が、ようやく片付いた。


俺は最後の丼を布巾で拭き上げ、棚に戻した。カチリ、と陶器が触れ合う乾いた音が、店内に戻った静寂を強調する。

換気扇の唸りだけが、数時間前までここが戦場だったことを主張していた。鼻腔の奥には、まだ焦がしニンニクと豚骨の匂いがこびりついている。


「……ふぅ。終わった」


俺はシンクに手をつき、大きく息を吐いた。

腰が重い。足の裏がジンジンと痺れている。

だが、心地よい疲れだ。50人の胃袋を満たし、無事に帰したという達成感が、疲労を上書きしていく。


「手伝いもせず、よく眠れるな」


俺はカウンターの端へ視線を投げた。

そこには、エリザが呆れた顔で頬杖をついている。その視線の先では、クロが丸くなって寝息を立てていた。


「魔力を使ったからな。……猫というのは、燃費が悪い生き物らしい」


エリザは立ち上がり、軽く伸びをした。ミスリルの鎧が擦れる音がする。


「私も帰る。……今日はいい物を見せてもらった」


「また来いよ。次はゆっくり食わせるから」


「ああ。……だが、一つだけ気になったことがある」


エリザは入り口のドアノブに手をかけ、振り返らずに言った。


「あの騎士団の中に、一人だけ『食わなかった』奴がいたぞ」


「え?」


「最初に店に来た、あの地味な偵察者だ。……騎士たちが夢中で啜っている間、奴だけは姿を消していた」


俺は布巾を絞る手を止めた。

あの無表情な男。『梟』と呼ばれていた小柄な影。

確かに、騎士たちが並んでいる列の中に、彼の姿はなかった気がする。


「……逃げたのか?」


「あるいは、別の任務か。……まあいい。騎士団長がああ言った以上、すぐに手出しはしてこないだろう」


エリザは肩をすくめ、ドアを開けた。

熱風が吹き込む。


「戸締まりは厳重にな。……おやすみ、店主」


「ああ。おやすみ」


パタン、と扉が閉まる。

エリザの気配が遠ざかり、リリもとっくに個室へ引き上げている。

店内には、俺と、寝たふりをしている黒猫だけが残された。


俺は厨房の明かりを一つ消した。

薄暗くなった店内で、赤いマグマの光がブラインド越しに揺らめく。


『……人間よ』


唐突に、低い声がした。

クロだ。

顔を上げず、丸まったまま、その口だけが動いている。


「なんだよ。起きてたのか」


『ふん。腹は満ちている』


クロはゆっくりと目を開けた。

その金色の瞳が、魔導ランプの残光を反射して怪しく輝く。いつもの眠たげな猫の目ではない。もっと根源的な、底知れない「何か」の目だ。


『貴様は、運がいいな』


「運? ……まあな。騎士団が話の通じる相手で助かったよ」


俺はエプロンを外しながら答えた。

だが、クロは鼻を鳴らした。


『違う。騎士団のことではない』


クロは音もなく立ち上がり、カウンターの上から俺を見下ろした。


『本来なら、貴様は今頃……骨も残らず咀嚼され、絶望の中でその魔力を搾り取られていたはずだ』


俺の手が止まる。

外したエプロンを畳む手が、無意識に強張る。


「……はあ? 何の話だ?」


『貴様の魔力だ。……無自覚なようだが、貴様の魂には「純度」がある。我らのような上位存在にとって、それは極上のスパイスであり、鎮静剤だ』


クロは俺の目の前まで歩み寄り、至近距離で瞳を覗き込んできた。

その奥に、黒い深淵が見える気がした。


『送り込んだ者たちは考えたのだろうな。……その極上の魔力を持つ貴様を「生贄」として捧げれば、この深層に眠る「王」の飢えを満たし、災厄を遠ざけることができると』


生贄。

聞き捨てならない単語が、俺の脳内で反響する。

ギルドの支部長。あの嫌な笑顔。

「君には期待しているよ」という言葉。

あれは、新天地での活躍を期待していたんじゃない。

俺が美味しく食われることを期待していたのか。


「俺が……生贄だって?」


『ククク……そうだ。貴様は餌としてここに捨てられたのだ』


クロはニヤリと笑った。

その口元から、鋭い牙が覗く。それは愛玩動物のものではない、捕食者の牙だった。


『だが、奴らは誤算した。餌が生きて店を開き、あろうことか「王」を餌付けしてしまったのだからな』


クロの言葉が、すとんと腹に落ちた。

俺のスキル。この場所。そして、目の前の猫。

全てが一本の線で繋がる。


俺は食べられるために来た。

でも、俺は料理を作った。

結果、食べるはずだった「王」は、俺の飯で腹を満たした。


「……よく分からんが」


俺は畳んだエプロンをカウンターに置いた。

重い真実だ。世界を揺るがすような話かもしれない。

だが、不思議と恐怖はなかった。

俺の目の前にあるのは、空になった丼と、満足げな猫だけだからだ。


「お前が満足してるなら、それでいいってことか?」


俺が首を傾げると、クロは呆れたように尻尾を振った。


『そういうことにしておこう。……精進せよ、料理人。我の腹が減れば、また世界が揺れるかもしれんぞ』


クロは再び丸くなり、今度こそ本当に寝息を立て始めた。


俺は肩をすくめた。

世界平和の鍵が、俺の作る豚汁やラーメンにあるなんて、笑えない冗談だ。

でも、それが俺の仕事なら、悪くない。


「電気、消すぞ」


俺は店内の全ての明かりを落とした。

暗闇の中、赤いマグマの光だけが差し込んでいる。


外の世界で誰が何を企んでいようと、俺には関係ない。

俺は明日も、ここで店を開ける。

腹を空かせた客がいる限り、俺は包丁を握り続けるだけだ。


「……おやすみ、クロ」


俺は厨房を出て、自室へと向かう。

長い一日が終わった。

そしてまた、騒がしい一日が始まるのだろう。


地獄の底の定食屋は、今日も無事に閉店した。

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