第33話 敵味方なきズルズル音

ガストンの丸まった背中が扉の向こうへ消えても、俺の耳には「替え玉」という野太いコールがこびりついて離れなかった。


感傷に浸る時間は一秒もなかった。

次々と押し寄せる注文が、俺を現実に――つまり、戦場のような厨房へと引き戻す。


「大将! こっちも硬めで頼む!」

「スープ割りってできるか!?」


俺は額の汗を袖で拭い、寸胴鍋の前に立ち直った。

熱気が顔を打つ。

湯切りザル(テボ)を振る腕はすでに鉛のように重いが、不思議と苦痛ではない。

この重さは、俺がこの場所を守りきった証そのものだからだ。


「はいよ! 硬め一丁、ライス一丁!」


俺は麺を湯に放り込んだ。

タイマーを見るまでもない。

指先が茹で上がりを覚えている。


店内はカオスだった。

カウンター6席、テーブル席2つ。

定員10名ほどの狭いプレハブ小屋に、今は交代制で入店した騎士たちがひしめいている。

銀色の鎧と、常連客のミスリル装備が隣り合い、金属同士が擦れる音がガチャガチャと響く。

普通なら一触即発の光景だ。

だが、今の彼らの手には武器ではなく、箸とレンゲが握られている。


「おい、そこの騎士さんよ」


常連の冒険者が、隣で麺を啜っていた若い騎士に声をかけた。

一瞬、店内の空気がピクリと張り詰める。

俺は手を止めずに、耳だけをそちらへ向けた。


「……なんだ、冒険者風情が」


騎士は口元をナプキンで拭いながら、警戒心を露わにして答えた。

やはり、まだ壁があるか。


「その紅生姜、取ってくんねぇか? 俺の席から届かねぇんだ」


冒険者は空になった紅生姜の容器を指差した。

騎士は拍子抜けしたように瞬きをした。

そして、無言で自分の前にある容器をスライドさせた。


「……ほらよ」


「ありがとよ。……これを入れると、脂っこさが消えて無限に食えるんだよな」


冒険者は山盛りの紅生姜を丼に投入し、豪快にかき混ぜた。

スープがピンク色に染まる。


「……ほう」


騎士が興味深そうに覗き込んだ。


「美味いのか? その……赤い根菜は」


「試してみな。飛ぶぞ」


騎士はおずおずと紅生姜を摘み、自分の丼に入れた。

そして、麺と一緒に啜る。

シャキッ、という音。


「……っ!」


騎士の目が輝いた。

酸味と辛味が、豚骨の濃厚な脂をリセットする感覚。

彼は無言で冒険者に頷き、さらに紅生姜を追加投入した。


「だろ?」

「……悪くない」


二人は顔を見合わせ、ニヤリと笑った。

そしてまた、同時に丼に顔を埋める。


ズルズルズルッ!


シンクロする啜り音。

俺はその光景を見て、吹き出しそうになるのを堪えた。

なんだ、これ。

数十分前まで殺し合い寸前だった連中が、紅生姜一つで意気投合している。

食卓という結界の中では、身分も敵味方も関係ないらしい。


「店長様! ネギが切れました!」


リリが空のボウルを抱えて厨房に飛び込んできた。

彼女の髪は汗で額に張り付いているが、その表情は生き生きとしていた。

騎士たちの給仕を一手に引き受け、水や薬味を配り歩く彼女は、今やこの場のアイドルだ。

「女神様、水をくれ」なんて拝まれている始末だ。


「よし、追加だ! 畑から抜いてきたやつを刻むぞ!」


俺は予備のネギ束をまな板に乗せた。

トントントンッ!

リズミカルな包丁の音が、店内の喧騒に心地よいビートを刻む。


「ほら、新鮮なネギだ! 好きなだけ乗せろ!」


俺が刻みたてのネギを大皿に盛って出すと、騎士たちが歓声を上げた。


「うおお! 香りが違うぞ!」

「シャキシャキだ!」


彼らはネギを山盛りにし、スープに浸して食べる。

リリが育てたダンジョン野菜だ。

味はもちろん、疲労回復効果も抜群だろう。

みるみるうちに、騎士たちの土気色だった顔に赤みが戻っていく。


「ふぅ……」


俺は一息つき、カウンターの端を見た。

エリザとクロがいる。

エリザはとっくに食べ終え、爪楊枝を使いながら、満足げに騎士たちの食いっぷりを眺めていた。

クロは、騎士の一人がこっそり差し出したチャーシューの切れ端を、尊大な態度で受け取っている。


『苦しゅうない』


なんて声が聞こえてきそうだ。

あの騎士、後でクロの正体を知ったら腰を抜かすだろうな。


「店主」


エリザが俺の方を向かずに言った。


「いい光景だな」


「……ああ」


俺は麺を湯切りしながら答えた。


「正直、もっと修羅場になるかと思ってたよ」


「なるはずだったさ。……お前がこの一杯を出さなければな」


エリザは空になった丼を指先で弾いた。

チン、と澄んだ音がした。


「剣で黙らせることはできる。だが、腹を満たしてやることはできん。……お前の勝ちだ、料理人」


「勝ち負けじゃないさ。……俺はただ、腹ペコを放っておけなかっただけだ」


格好つけたつもりはない。

本心だ。

どんな事情があろうと、腹が減っている人間に罪はない。

俺のばあちゃんの口癖だ。


一時間後。

ようやく最後の騎士が丼を空にした。

50人全員への提供が完了した。


店内には、戦いの跡――積み上げられた大量の空丼と、満足げに腹をさする男たちが残されていた。


「……礼を言う」


ガストンが再び店に入ってきた。

彼は部下たちを整列させ、撤収の準備を整えていた。

その表情は引き締まっているが、来た時のような悲壮感はない。


「全員、腹も心も満たされた。……これで、胸を張って『敗走』できる」


彼は自嘲気味に笑った。


「敗走、ですか」


「ああ。これより我々は、未知の強敵との遭遇により壊滅的被害を受け、撤退する」


ガストンは部下たちを見渡した。

彼らの鎧は汚れているが、その瞳には力が戻っていた。


「ギルドにはそう報告する。……だが、嘘はつかん。我々は確かに、ここで『深層の主』に完敗したのだからな」


彼は俺を指差した。

深層の主。

ただの定食屋の親父にしては、随分と大層な二つ名をもらったもんだ。


「あんたらの立場が悪くならないといいけどな」


「心配無用だ。……現場の判断というやつさ」


ガストンは右手を差し出した。

ごつごつとした、剣ダコだらけの手だ。

俺はその手を、粉まみれの手で握り返した。


「また来いよ。……今度はゆっくり酒でも飲みながらな」


「……楽しみにしている」


ガストンは力強く頷き、踵を返した。

鉄靴の音が響く。


「全軍、撤収ッ!」


号令と共に、黒鉄の騎士団が動き出した。

彼らは一度だけ店の方を振り返り、無言で敬礼を捧げた。

そして、赤いマグマの彼方へと、整然とした足取りで消えていった。


嵐が去った。

店内に静寂が戻る。


「……終わった、のか?」


リリがへたり込んだ。

緊張の糸が切れたのだろう。


「ああ。終わったよ」


俺はカウンターの椅子に腰を下ろした。

疲労が一気に押し寄せてくる。

でも、心地よい疲れだ。


守りきった。

俺の城を。

俺の日常を。

そして、彼らの命も。


「……大将」


残っていた常連客の一人が、ぽつりと呟いた。


「また伝説を作っちまったな。……『騎士団食い』の深層食堂なんて二つ名がつくんじゃないか?」


「やめてくれ。……俺は平和に商売したいだけなんだ」


俺は苦笑し、残った洗い物の山を見た。

これだけの数を洗うのか。

気が遠くなる。


『手伝わんぞ』


クロが足元で先手を打ってきた。

分かってるよ。


俺はスポンジを手に取った。

日常が戻ってきた。

洗剤の泡の中で、俺は確かに一つの大きな壁を乗り越えた実感に浸っていた。


だが、これで全てが終わったわけじゃない。

ギルドとの因縁は、一時的に先送りされたに過ぎない。

それでも、俺はここで生きていく。

包丁と、この「絶対安全圏」がある限り。


「さて、片付けるか」


俺は水を出した。

流れる水の音が、戦場の残り香を洗い流していく。

俺はこの場所で、もっと根を張って生きてやる。

そう、静かに心に誓った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る