第32話 陥落する鉄の規律
「大盛りはあるか?」という、およそ戦場で聞くべきではない言葉が、俺の耳の奥で反響していた。
その一言は、どんな降伏宣言よりも雄弁だった。
俺は強張っていた肩の力を抜き、手に持っていたレードルを握り直した。冷たい金属の感触が、今度は武器としてではなく、ただの調理道具として掌に馴染む。
「ありますよ。……とびきり特大なやつが」
俺の答えを聞いて、ガストンは深く息を吐いた。
それは、騎士団長としての重責と、張り詰めていた殺気をすべて吐き出すような、長く重い溜息だった。
彼はゆっくりと振り返り、背後の部下たちを見渡した。
50人の騎士たちが、固唾を呑んで指揮官の背中を見つめている。彼らの視線は、ガストンの口元ではなく、彼が食べ終えた空の小鉢に吸い寄せられていた。
「……全軍、聞け」
ガストンの声は、拡声魔法を使わずともよく通った。
「作戦行動を中止する。……これより、休息に入る」
ざわり、と空気が揺れた。
困惑ではない。歓喜を押し殺したような動揺だ。
「武装を解除せよ。……ただし、規律は乱すな。順序よく並べ。これは『補給』任務である」
その言葉が落ちた瞬間、カシャン、カシャンと硬質な音が連続して響いた。
槍が地面に置かれ、盾が下ろされる音だ。
誰一人として異論を挟む者はいなかった。
むしろ、数名の騎士がその場にへたり込みそうになるのを、隣の仲間が支えているのが見えた。
鉄の規律が解け、ただの腹を空かせた人間たちの群れに戻っていく。
「店主」
エリザが俺の横を通り過ぎざま、ポンと肩を叩いた。
「見事だ。……剣を使わずに騎士団を制圧するとはな」
「制圧したのは俺じゃないよ。豚骨スープだ」
俺は苦笑し、厨房へと踵を返した。
感慨に浸っている暇はない。
外には50人の、飢えた野獣が待っているのだ。ここからは時間との勝負になる。
◇
「リリ、麺箱を出してくれ! エリザ、悪いが水の準備を手伝ってくれるか!」
「は、はいっ! すぐ準備します!」
「やれやれ。私は客だぞ? ……まあ、今回ばかりは貸しにしておこう」
俺は厨房に戻るなり、火力を全開にした。
寸胴鍋がゴウゴウと音を立てる。
テボを四つ並べ、麺を放り込む。
まずは指揮官からだ。
トップを満足させれば、部下たちの不満も抑えられる。
俺は温めておいた丼にタレを注ぎ、白濁したスープを流し込んだ。
マー油を回しかける。
黒い油膜が広がり、ニンニクの香りが爆発的に立ち昇る。
茹で上がった麺を湯切りする。
チャッ、チャッ!
厨房に響く水切りの音が、俺の心拍数とシンクロする。
丼に麺を滑らせ、箸で整える。
分厚いチャーシューを三枚。
味玉。
キクラゲ。
そして、リリが育てた九条ネギもどきを山盛りに。
「お待ちどう! 特製豚骨ラーメン、大盛りだ!」
俺はカウンターの一番端、かつて不気味な偵察者が座っていた席に、丼をドンと置いた。
ガストンは、すでにそこに座っていた。
兜を脱ぎ、脇に置いている。
露わになったその顔は、無精髭が目立ち、目の下には濃い隈があった。
どれだけの無理を重ねてここまで来たのか、想像に難くない。
彼は目の前の丼を、まるで聖遺物でも見るような目で見つめていた。
「……これが、異端の料理か」
「ただのラーメンですよ。冷めないうちにどうぞ」
ガストンは箸を手に取った。
使い方は知っているようだ。
震える手で麺を持ち上げ、ふうふうと息を吹きかける。
そして、一気に啜った。
ズルズルッ!
勢いよく啜り込まれた麺が、彼の口の中で暴れる。
彼は目を閉じ、天を仰いだ。
「……ぁ」
言葉にならない声が漏れた。
咀嚼する。
飲み込む。
その喉の動きに合わせて、彼の強張っていた表情筋が、見る見るうちに解けていく。
「美味い……」
ポツリと漏れた言葉は、飾り気のない本音だった。
「濃厚だ。なのに、くどくない。……疲れた体に、この塩気が染み渡るようだ」
彼はレンゲでスープをすくい、口に運んだ。
一度、二度。
止まらない。
麺を啜り、スープを飲み、チャーシューを齧る。
その動作に、もはや騎士団長の威厳はなかった。
ただの、美味しいものに救われた一人の男がいるだけだ。
「……ガストン」
隣の席で、エリザが頬杖をつきながら彼を見ていた。
彼女の前にも、ちゃっかり追加注文したラーメンがある。
「どうだ。ギルドの乾パンよりはマシだろう?」
「……比べるのも失礼だ」
ガストンは苦笑し、目元を拭った。
湯気のせいか、それとも別の理由か、彼の目は少し潤んでいるように見えた。
「我々は、何をしていたのだろうな。……こんな美味いものを作る男を、殺そうとしていたとは」
彼は自嘲気味に呟き、再び丼に向き合った。
その背中は、来た時よりもひと回り小さく、しかし人間味を帯びて見えた。
◇
ガストンが食べ始めると、外で待機していた騎士たちが順次入店してきた。
店内は狭い。
一度に入れるのは十名ほどだ。
残りは外で待機だが、匂いだけで暴動が起きそうだ。
「リリ、外の連中にも水を配ってやれ! 脱水症状になられたら困る!」
「はいっ! ただいま!」
リリがピッチャーとコップを持って走り回る。
俺はひたすら麺を茹で続けた。
四人分作っては出し、四人分作っては出し。
完全にラーメン工場のライン作業だ。
「うめぇ……! なんだこれ、生き返るぞ!」
「替え玉! 替え玉くれ!」
「この黒い油、魔法薬か何かか? 力が湧いてくる!」
騎士たちが鎧をガチャガチャと言わせながら、夢中で麺を啜っている。
その光景は異様だった。
つい数分前まで、俺たちを殺そうとしていた連中だ。
それが今では、額に汗を浮かべ、鼻水をすすりながら、「美味い美味い」と連呼している。
俺はその様子を、厨房の湯気越しに眺めた。
レードルをかき回す腕が重い。
だが、不思議と嫌な疲れではなかった。
彼らは敵だった。
でも、今はただの客だ。
そして俺は、彼らの腹を満たすことができる。
それだけで十分じゃないか。
「店主」
ふと、食べ終わったガストンが丼を置き、俺を見た。
空っぽの丼。
スープの一滴まで飲み干されている。
「……取引をしたい」
彼の表情は真剣だった。
だが、そこにはもう殺意はない。
「我々は、ここでの戦闘において『甚大な被害』を受けたことにする」
「……はい?」
俺は手を止めた。
「未知の魔物との遭遇。あるいは、ダンジョンの環境変動による部隊の消耗。……理由はなんとでもなる。とにかく、我々はこれ以上の任務遂行が不可能と判断し、撤退する」
ガストンは懐から、ギルドの指令書を取り出した。
そして、それを目の前で破り捨てた。
ビリビリッ。
「これが、この一杯への対価だ」
彼は破れた紙片をポケットにねじ込み、真っ直ぐに俺を見た。
「ギルドには、私が報告する。……『ターゲットは魔物の巣窟に消え、生死不明』とな」
それは、明らかな虚偽報告だ。
彼が戻れば、責任を問われるかもしれない。
だが、彼は迷いのない目でそう言った。
「いいんですか? あんたの立場が悪くなるんじゃ」
「構わん。……騎士の誇りにかけて、恩人には剣を向けられんよ」
ガストンは立ち上がり、深く頭を下げた。
「ご馳走だった。……生涯、忘れられん味だ」
俺は何も言えなかった。
ただ、熱くなった目頭をごまかすように、新しい麺を湯に放り込んだ。
「……ありがとうございます。また、いつでも来てください」
「ああ。……今度は、客としてな」
ガストンは兜を脇に抱え、清々しい顔で店を出て行った。
その後ろ姿を見送りながら、俺は思った。
勝った。
いや、違うな。
俺たちは「和解」したんだ。
ラーメンという共通言語を通じて。
「大将! こっちも替え玉頼む!」
「俺はライスだ!」
感傷に浸る暇はない。
まだ40人近くの腹ペコが待っている。
俺は気合を入れ直し、湯切りをした。
チャッ、チャッ!
この音が鳴り止むまで、俺の戦いは終わらない。
だが、この忙しさは悪くない。
俺はエプロンの紐をさらにきつく締め、次なる注文へと向き合った。
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