第31話 鉄の規律と試食の小鉢
換気扇が吐き出す重厚な駆動音と、そこに乗って漂う焦がしニンニクの香りが、俺の鼻腔の奥にこびりついていた。
俺は厨房の小窓から、ブラインドの隙間に指をかけ、外の様子を覗き込んだ。
ガラス一枚隔てた向こう側では、世界でもっとも残酷で、もっとも滑稽な「攻城戦」が繰り広げられていた。
エリザの背中が見える。
彼女は両手で捧げ持った丼を、まるで神聖な儀式の祭具のように高く掲げていた。
立ち昇る白い湯気が、赤いマグマの照り返しを受けて揺らめく。その湯気こそが、俺たちが放った最強の矢だった。
「……効いてるな」
俺は呟き、握りしめたレードルの柄に力を込めた。
金属の冷たさが、高揚しそうな俺の頭を現実に引き戻す。
外には50人の騎士がいる。
彼らは微動だにしない――いや、できずにいた。
整然としていた隊列は、波打ち際のように乱れている。
先頭に立つ騎士団長ガストンの視線は、エリザの顔ではなく、その手元にある白濁したスープの海に釘付けになっていた。
「……エリザ・フォン・ベルンシュタイン」
ガストンの声が、ガラス越しに微かに聞こえた。
拡声魔法は切れているが、その低い声には隠しきれない動揺が滲んでいた。
「何の真似だ。……我々を愚弄するか」
「愚弄? まさか」
エリザは艶然と笑い、わざとらしく丼に顔を寄せ、深呼吸をした。
「久々の再会だ、ガストン。友として、最高の補給物資を見せてやっているだけだぞ。……見ろ、この脂の輝きを。嗅げ、この魂を揺さぶる香りを」
「貴様……ッ!」
ガストンが剣の柄に手をかけた。
だが、抜けない。
抜けば、その切っ先が湯気を切り裂いてしまうことを恐れているかのように、指が震えている。
「言っておくが、これはただの飯ではない」
エリザは低い声で囁いた。
その声は、悪魔の誘惑よりも甘く、騎士たちの耳に滑り込む。
「99階層の主、オークキングの骨髄から抽出したエキスだ。……一口飲めば、乾いた喉は潤い、凍えた内臓には火が灯る。お前たちが齧っているその味気ない固形食とは、次元が違う」
ゴクリ。
誰かが喉を鳴らす音が、静寂の中で雷鳴のように響いた。
一人が鳴らせば、連鎖する。
後列の若い騎士が、ふらりと体勢を崩し、槍を杖にして辛うじて踏みとどまるのが見えた。
限界なのだ。
彼らはここまで、休息なしの強行軍で降りてきた。精神も肉体も、とっくに限界を超えている。そこにこの「暴力的な香り」だ。耐えられるはずがない。
俺は厨房を振り返った。
寸胴鍋の中では、まだ大量のスープが煮えている。
麺も茹で上がった。
次の手だ。
ただ見せるだけじゃ、プライドの高い騎士様は動かない。
「言い訳」が必要だ。
「リリ、これを持ってきてくれ」
俺は小さな小鉢を用意した。
一口サイズのミニラーメンだ。
具材は乗せない。麺とスープ、そして一滴のマー油だけ。
「店長様、これを……?」
「ああ。毒見用だと言って、裏口から差し出してくる」
俺は勝手口のサンダルを履いた。
リリが心配そうに見つめる中、俺は小鉢をトレイに乗せ、裏の狭い通路へと出た。
熱気が頬を打つ。
結界の中とはいえ、外気と繋がっている場所はやはり空気が重い。
俺は建物の影に沿って進み、エリザとガストンが対峙している正面入り口の脇へ回り込んだ。
ここなら、ガストンの足元まで数メートルだ。
「……我々は、任務を遂行する」
ガストンが、自分に言い聞かせるように唸っていた。
その目は血走り、頬はこけている。
彼自身の葛藤が見て取れた。
部下を飢えさせたくない指揮官としての情と、命令を遵守しなければならない騎士としての義務。その板挟みで、彼は今にも張り裂けそうだった。
「退け、エリザ。……さもなくば、そのふざけた料理ごと斬る」
「斬れるか? お前に」
エリザは一歩も引かない。
「この香りを断ち切れば、お前の部下たちは絶望するぞ。……後ろを見てみろ」
ガストンは振り返らなかった。
振り返れば、部下たちの懇願するような目を見てしまうからだ。
膠着状態。
ここだ。
俺は岩陰から身を乗り出し、トレイを地面に滑らせた。
カツン。
乾いた音がして、小鉢がガストンの足元で止まった。
小さな器から、白い湯気が立ち上る。
「……なっ?」
ガストンが驚いて足元を見た。
俺は建物の影から声をかけた。
「毒見用です、騎士団長さん」
俺の声に、ガストンが顔を上げる。
俺はエプロン姿のまま、両手を上げて敵意がないことを示した。
「あんたらの上司は、俺を殺せと言ったかもしれない。……でも、俺の料理に毒が入ってるかどうか、確認する義務くらいはあるんじゃないですか?」
屁理屈だ。
だが、今の彼には「食べるための正当な理由」が必要なはずだ。
「毒見……だと?」
「ええ。もし毒が入ってたら、俺をその場で斬ればいい。……でも、もし入ってなかったら」
俺はエリザと視線を合わせた。
彼女は微かに頷き、俺の意図を汲んでくれた。
「……一口だけだ」
俺は告げた。
それは商売人としての、最後の誘い水だった。
「一口食って、それでも俺を殺したいなら、好きにすればいい」
ガストンは動かなかった。
視線は足元の小鉢に釘付けになっている。
黒いマー油が浮いたスープ。
その下に見え隠れする黄色い麺。
鼻腔を満たす香りは、もはや拷問に近い。
彼はゆっくりと、周囲を見回した。
部下たちは、誰も彼を止める者はいなかった。
むしろ、その目は「確かめてください」と叫んでいるように見えた。
ガストンは震える手で、剣を鞘に納めた。
カチリ、という音が、降伏の合図のように響く。
彼は膝を折った。
地面に置かれた小鉢を、汚れた篭手で拾い上げる。
その動作は慎重で、まるで爆発物を扱うかのようだった。
「……毒見だ」
彼は誰に言うともなく、低い声で呟いた。
自分への言い訳だ。
「任務遂行のため……確認する」
彼は小鉢を口元へ運んだ。
湯気が彼の顔を覆う。
俺は息を呑んで見守った。
この一口が、勝敗を決める。
ガストンは意を決して、器を傾けた。
スープが唇に触れる。
そして、麺と共に口の中へ吸い込まれていく。
ズルッ。
静寂な戦場に、麺を啜る音が響いた。
たった一口。
だが、その一口が、彼の時間を止めた。
ガストンの動きが静止する。
彼の目が見開かれ、そしてゆっくりと、その瞼が閉じられた。
兜の下で、喉がゴクリと鳴る音が聞こえた。
「……っ」
彼の手から、空になった小鉢が滑り落ちそうになるのを、彼は慌てて両手で抱きとめた。
一滴たりともこぼしたくない。
そんな執着が見えた。
「……団長?」
後ろにいた副官らしき騎士が、不安そうに声をかけた。
ガストンは答えなかった。
ただ、空になった器の底を見つめ、肩を震わせていた。
泣いているのか?
それとも、怒っているのか?
長い沈黙の後。
彼はゆっくりと立ち上がり、俺の方を見た。
その瞳から、険しい殺意は消え失せていた。
代わりにあったのは、敗北を認めた男の、憑き物が落ちたような静かな顔だった。
「……貴様」
ガストンの声は震えていた。
「……これの、大盛りはあるか?」
その言葉を聞いた瞬間、俺は心の底から息を吐き出した。
勝った。
完全に、俺たちの勝ちだ。
「ありますよ」
俺はニヤリと笑った。
エプロンの紐を締め直す。
ここからは、別の戦いだ。
50人の飢えた野獣を、満腹にさせるまでの耐久戦。
「替玉も、ライスもつけましょうか?」
俺の問いかけに、ガストンは無言で、しかし力強く頷いた。
その背後で、騎士たちが一斉に歓声を上げるのが聞こえた。
鉄の規律が崩れ去り、ただの空腹な人間たちがそこにいた。
俺は厨房へ走った。
寸胴鍋の火を強める。
さあ、開店だ。
今夜は最高に忙しくなるぞ。
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