第30話 換気扇という名の兵器
エリザの白い指先が、黒ずんだスイッチに触れるその瞬間を、俺はスローモーションのように見つめていた。
「……行くぞ、店主」
彼女が短く告げ、カチリとスイッチを押し込む。
ブォォォォン……。
重苦しい駆動音が厨房に響き渡り、頭上の巨大なファンが唸りを上げて回り始めた。
普段ならただの排気音だ。
だが今は、これが俺たちの放つ最強の砲撃音に聞こえる。
俺はコンロの火力を最大に上げた。
ボッ! と青い炎が立ち昇る。
手にしたフライパンが熱を帯び、柄を握る俺の掌に汗が滲んだ。
これは料理じゃない。戦争だ。
「リリ、窓の様子を見てろ。……着弾を確認するんだ」
「は、はいっ!」
リリが窓際へ走り、ブラインドの隙間にへばりつく。
俺は中華鍋にラードを放り込んだ。
白い塊が熱で溶け、透明な液体へと変わっていく。
そこに、刻んだニンニクを大量に投入する。
ジュワァァァァァッ!!
激しい音が店内の緊張を切り裂いた。
水分が弾け、ニンニクが踊る。
数秒で香りが立った。
強烈な、鼻の奥を突き刺すような刺激臭。
だが、まだだ。
これだけじゃ足りない。
俺はさらに、焦がしネギと黒胡麻油を加えた。
いわゆる「マー油」の素だ。
香ばしさが一段階深くなる。
甘く、苦く、そして脳髄を揺さぶるような食欲の匂い。
これが豚骨スープの獣臭さと混ざり合い、換気扇の強力な吸引力によって吸い上げられていく。
「いけ……ッ!」
俺は鍋を振った。
黒い煙となって昇る香りの塊を見送る。
あれは今、ダクトを通って店の外へ――極限状態で神経を張り詰めている騎士団の鼻先へ、直撃コースを描いているはずだ。
◇
換気扇の排気口は、店の正面入り口の真上にある。
つまり、包囲陣を敷いている騎士団の真正面だ。
俺は火を弱め、スープの寸胴鍋をかき混ぜながら、リリの報告を待った。
店内にはすでに、暴力的なまでのラーメンの香りが充満している。
カウンターで待機していた冒険者たちが、たまらず喉を鳴らす音が聞こえた。
「……ぐぅ。大将、これは反則だぜ」
「拷問かよ……俺たちまで腹が減ってきた」
「悪いな。後でちゃんと食わせてやるから」
味方すら被弾している。
なら、直撃を受けた敵はどうなっているか。
「て、店長様……! 動きがありました!」
リリが裏返った声で叫んだ。
「前列の騎士たちが……動揺しています! 列が乱れています!」
「よし」
俺は厨房から出て、リリの背中越しに外を覗いた。
ブラインドの隙間。
赤いマグマの光景の中に、黒い鉄塊の壁がある。
異変は明らかだった。
さっきまで石像のように微動だにしていなかった騎士たちが、落ち着きなく首を動かしている。
兜の下で、鼻をひくつかせているのが分かる。
隣の兵士と顔を見合わせ、何かを囁き合っている者もいる。
『……なんだ、この匂いは』
ガストンの声が、増幅魔法を切った状態でも微かに聞こえてきた。
彼は剣を下げ、自身の鼻元を手で覆っていた。
警戒しているつもりなのだろう。毒ガスか何かだと思って。
だが、その反応こそが俺の狙い通りだ。
一度意識してしまえば、もう逃げられない。
ニンニクと脂の匂いは、生存本能に直接訴えかける。
彼らはここまで強行軍で来たはずだ。
携帯食(あの不味いブロック)しか口にしていない彼らにとって、この匂いは劇薬に等しい。
俺はブラインドから離れ、再び厨房に戻った。
仕上げだ。
茹で上がった麺を湯切りする。
チャッ、チャッ!
小気味良い音が響く。
丼にスープを張り、麺を泳がせ、チャーシューを乗せる。
煮玉子を添える。
最後に、先ほど作った熱々のマー油を回しかける。
ジュッ。
黒い油がスープの表面に広がり、香りが爆発的に拡散する。
完成だ。
『特製・焦がしニンニク黒マー油豚骨ラーメン』。
「……エリザ」
俺はカウンターに置いた丼を指差した。
「これを持って、外へ出てくれないか」
「ほう?」
エリザが片眉を上げた。
彼女は丼の中身を見て、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「私にこれを、見せびらかせと?」
「そうだ。……そして、あの団長に言ってやってくれ。『降伏すれば、これを食わせてやる』と」
エリザはニヤリと笑った。
邪悪で、それでいて最高に頼もしい笑みだった。
彼女は丼を両手で丁寧に持ち上げると、湯気の向こうで瞳を輝かせた。
「いい性格をしているな、店主。……気に入った」
エリザは足音高く入り口へ向かった。
俺はその後ろ姿を見送る。
彼女の手にあるのは剣ではない。
だが、今の彼女は、どんな武器を持っている時よりも最強に見えた。
◇
ドアが開く音がした。
熱風と共に、さらに濃厚なスープの香りが外へ流れ出す。
俺は再び窓際に張り付いた。
エリザが店の前に立つ。
湯気を立てる丼を、聖杯のように掲げてみせる。
騎士たちの視線が、一点に釘付けになった。
50人の殺気が、一瞬にして「食気」へと変わるのを肌で感じた。
グゥゥゥゥゥ……。
音がした。
地鳴りではない。
魔物の咆哮でもない。
もっと切実で、情けない、腹の虫の合唱だ。
一人の若い騎士が、ガクリと膝をついたのが見えた。
槍を支えにして、なんとか体を起こしているが、その視線は丼から離れない。
「……あ、あぁ……」
誰かの呻き声が聞こえる。
もう限界だ。
彼らの鉄の規律は、豚骨の香りの前で錆びついたように崩れ去ろうとしていた。
俺は厨房で、二人分、三人分と、次の麺を茹で始めた。
確信があった。
この戦い、俺たちの勝ちだ。
武器を置かせるのに、魔法はいらない。
美味い飯があれば十分だ。
「……さて、忙しくなるぞ」
俺は鉢巻を締め直した。
50人前のラーメン。
今夜は長い夜になりそうだ。
俺はレードルを握りしめ、来るべき「開戦」の時を待った。
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