第27話 鉄靴の響き
クロが告げた不穏な警告は、湯気の中に溶けることなく、俺の心臓を冷たく掴んだまま離さなかった。
「財布ではなく、剣を持ってくる」
その言葉が、厨房の換気扇が回る音に重なってリフレインする。
俺は手にした包丁を、まな板の上に置いた。
カタリ、という乾いた音が、やけに大きく響く。
ただの金属音が、これから訪れる事態の合図のように思えた。
「……リリ」
俺はカウンターの端で硬直している彼女を呼んだ。
「外の様子、分かるか?」
リリはハッとして、すぐに手近な観葉植物――98階層から移植した装飾用のパキラもどき――の鉢に両手を添えた。
彼女の細い指が、湿った土に深く沈み込む。
エルフ特有の感応術だ。植物の根を通じて、地殻の振動を拾うらしい。
リリは目を閉じ、その長い耳をピクリと震わせた。
「……はい。聞こえます」
彼女の顔色が、みるみるうちに蒼白になっていく。
呼吸が浅い。
植物から伝わる「恐怖」が、彼女自身を侵食しているようだ。
「足音が……揃っています。魔物ではありません。金属の靴底が、岩を踏みしめる音……」
「数は?」
「……50、いえ、もっと……。規則正しい行軍です。こちらに向かって、迷いなく……」
50人。
俺は息を呑んだ。
以前の暗殺者は単独だった。
だが今度は、小隊規模ですらない。
完全な軍隊だ。
俺は厨房から出て、フロアを見渡した。
店内はまだ、ラーメンの香りと客たちの熱気で満たされていた。
だが、リリの青ざめた表情と、俺の硬い声色を、歴戦の冒険者たちが見逃すはずがなかった。
ガタッ。
一人が席を立った。
食事中だった常連の重装戦士だ。
口元についたスープを手の甲で乱暴に拭い、腰の剣帯に手をかける。
「大将。……客か?」
その問いに、店中の空気が一変した。
ズルズルと麺を啜る音が止まる。
スプーンが皿に当たる音が消える。
全員の視線が、俺と、その足元で毛を逆立てているクロに集まった。
「……タチの悪い客みたいだ」
俺が短く答えると、戦士はニヤリと凶暴な笑みを浮かべた。
「なら、俺たちの出番だな」
「ああ。食後の運動には丁度いい」
「この店のスープを冷ますような無粋な連中は、俺が叩き出してやるよ」
次々と客たちが立ち上がる。
彼らは皆、S級やA級の実力者だ。
その殺気が一斉に膨れ上がり、店内のガラス戸がビリビリと震える。
頼もしい。
彼らが外に出れば、50人の兵隊など蹴散らしてくれるかもしれない。
だが。
俺はカウンターの木目を、掌で強く叩いた。
ダンッ!
「座ってくれ」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、ドスが効いていた。
冒険者たちが、驚いたように俺を見る。
「大将? 何言ってんだ、ここが包囲されてるんだぞ」
「分かってる。……でも、うちは飯屋だ」
俺は厨房に戻り、寸胴鍋の蓋を閉めた。
重い金属音が、俺の決意を確定させる。
「客に血生臭い仕事をさせるわけにはいかない。……それに、店の前で殺し合いをされたら、客足が遠のく」
これは本心であり、建前でもあった。
彼らを戦わせれば、ギルドとの全面戦争になる。
そうなれば、彼らは「反逆者」として地上での居場所を失うかもしれない。
俺の店を守るために、彼らの人生を巻き込むわけにはいかない。
「でもよぉ……!」
「座れ」
今度は、俺ではない声が響いた。
エリザだ。
彼女は丼を空にし、満足げに箸を置いていた。
「店主がそう言うのだ。従え」
「剣姫さん、でも……」
「安心しろ。……この店は『絶対安全圏』だ。外で何が起きようと、このガラス一枚割れんよ」
エリザは優雅にナプキンで口を拭い、俺に向かって片目を閉じてみせた。
「それに、店主には考えがあるようだ。……そうだろ?」
「……ああ」
俺は頷いた。
考えなんてない。
あるのは、自分のスキルへの絶対的な信頼と、ここで逃げたら終わりだという意地だけだ。
ズズズズズ……。
遠くから、低い地鳴りが聞こえ始めた。
リリが言っていた足音だ。
換気扇の音が掻き消されるほどの、重く、腹に響くリズム。
鉄が岩を叩く音。
俺は勝手口へ向かった。
そこから狭い通路を抜け、店の表側、ガラス戸のすぐ脇に立つ。
ここなら、外の様子がよく見える。
ブラインドの隙間から、赤い世界を覗いた。
「……来たか」
視界の先。
マグマの光を背に受けて、黒い影の壁が迫ってきていた。
全身を黒い甲冑で覆った騎士たち。
巨大な盾。
長く鋭い槍。
一糸乱れぬ隊列は、まるで一つの巨大な鉄塊が押し寄せてくるようだ。
先頭には、一際大きな体躯の男と、その横に寄り添うように歩く小柄な影――あの時の偵察者『梟』が見えた。
距離、およそ50メートル。
彼らの殺気が、熱風に乗って肌を刺す。
俺は震える手を、ポケットの中で握りしめた。
怖い。
当たり前だ。あんなものに踏み潰されたら、人間なんてひとたまりもない。
だが、俺は振り返った。
店の中では、リリが不安そうに手を組み、エリザが不敵に笑い、クロが退屈そうに欠伸をしている。
そして、ラーメンの残った丼からは、白く温かい湯気が立ち上っていた。
この日常。
この匂い。
鉄の臭いになんて、負けさせてたまるか。
俺はポケットから手を出した。
そして、入り口の鍵を開けた。
カチャリ。
小さな金属音が、宣戦布告のゴングのように響いた。
俺はここで待つ。
エプロン姿のまま、レードル(お玉)を武器の代わりに握りしめて。
ここが俺の城で、俺がここのルールブックだ。
「……いらっしゃいませ、黒鉄の騎士様」
俺は呟いた。
その声は震えていたかもしれないが、言葉には確かな熱が宿っていた。
ガラスの向こう。
黒い壁が、店の目前で停止する。
50の瞳が、無機質な兜の奥から、俺という「異物」を捉えた。
俺は彼らの殺意を、真正面から受け止める覚悟を決めた。
暴力で来るなら防いでやる。
だが、もし腹を空かせて来るなら――。
俺は彼らに、何を出してやれるだろうか?
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