第26話 豚骨の誘惑
あの男が置いていった冷たい銀貨の感触が、まだ指先に残っている気がした。
俺は厨房のシンクで手を洗った。
冷たい水が、指の熱を奪っていく。
数日前に現れた、感情のない偵察者。
あいつは何もせず、ただ見て帰っただけだ。
だが、その静けさが逆に不気味だった。嵐の前の凪のような、重苦しい空気が胸の奥に澱んでいる。
「……考えても仕方ないか」
俺はタオルで手を拭き、エプロンの紐をギュッと締め直した。
腰に回る布の圧迫感が、俺を「店主」という役割に引き戻してくれる。
不安なら、手を動かせ。
美味いものを作って、客を笑顔にする。
それが俺の戦い方だ。
ガタゴト。
勝手口の方で、重い何かが転がる音がした。
俺は反射的に身構えたが、すぐに聞き慣れた声がして力が抜けた。
「店主、いるか。……いいものを拾ったぞ」
エリザだ。
彼女は勝手口から、自分よりも巨大な「白い塊」を引きずり込んできた。
「……なんだそれ」
「オークキングの大腿骨だ」
エリザはドヤ顔で、その塊を厨房の床に置いた。
ズシン、と店全体が揺れるような重低音が響く。
長さは2メートル近い。
表面についた肉は綺麗に削ぎ落とされており、白く太い骨だけが残っている。
「昨日の狩りで仕留めた奴だ。肉はリリに渡して冷蔵庫に入れたが……この骨は捨てようと思ってな」
彼女は骨をポンと叩いた。
「だが、以前お前が『骨からもいい出汁が出る』と言っていたのを思い出してな。……使えるか?」
俺はその骨を見下ろした。
オークキング。
Bランク相当の強力な魔物だ。
その骨髄には、濃厚な旨味と魔力が詰まっているに違いない。
俺の料理人としての本能が、ビビビと反応した。
「……使えるどころの話じゃないぞ」
俺はニヤリと笑った。
不安なんて吹き飛んでいた。
「最高のご馳走ができる。……エリザ、お前は天才か」
「ふん。……当然だ」
エリザは鼻を鳴らしたが、尻尾があれば千切れんばかりに振っていただろう。
彼女の期待に応えるためにも、俺は袖をまくった。
今日はこいつで、とびきり濃厚なアレを作る。
◇
まずは下処理だ。
俺は巨大な骨を、マジックソー(魔導ノコギリ)で手頃な大きさに切断した。
ギィィィン、と高い音が響く。
切断面からは、ピンク色の骨髄が覗いている。
新鮮な証拠だ。
「リリ、ネギと生姜を頼む。大量にな」
「は、はいっ! すぐ採ってきます!」
リリが勝手口から畑へ走る。
数秒後には、泥つきの巨大ネギと生姜を抱えて戻ってきた。
この連携もすっかり板についてきた。
俺は寸胴鍋を取り出した。
一番でかいやつだ。
そこに骨をぎっしりと詰め込む。
水を張り、強火にかける。
ボコッ、ボコッ。
湯が沸くにつれて、灰色の泡――アクが浮いてくる。
獣臭い匂いが鼻をつく。
普通の人間なら顔をしかめる匂いだが、俺には「旨味の原石」の匂いに感じる。
一度湯を捨て、骨を洗う。
血抜きは完璧だ。
もう一度水を張り、今度はネギの青い部分、生姜の薄切り、ニンニクの塊を投入する。
再び点火。
ここからは根気勝負だ。
蓋をして、強火でガンガン炊き上げる。
一時間。二時間。
鍋の中でお湯が激しく対流し、骨と骨がぶつかり合う。
ゴトゴト、という音が店内のBGMになる。
「……なんか、すごい匂いがしてきましたね」
カウンターでカトラリーを磨いていたリリが、鼻をつまんだ。
「野獣の匂いというか……ムワッとするような……」
「これがいいんだよ。あと数時間もすれば、化けるぞ」
俺は鍋の蓋を少しずらした。
真っ白な蒸気が噴き出す。
スープの色が変わってきていた。
透明だった湯が、骨から溶け出したコラーゲンと脂で乳化し、とろりとした白濁色に変化している。
豚骨スープだ。
それも、オークキングという最上級の素材を使った、特濃スープ。
「エリザ、味見してみるか?」
俺が声をかけると、カウンターで待機していたエリザが弾かれたように振り返った。
彼女はずっと、鍋から目を離さずにいたのだ。
「……待っていた」
彼女は小走りで厨房に入ってきた。
俺はお玉でスープをすくい、小皿に移した。
まだ味付けはしていない。純粋な出汁の味だ。
エリザは小皿を受け取り、ふうふうと息を吹きかけ、慎重に口へ運んだ。
ズズッ。
彼女の動きが止まる。
青い瞳が見開かれる。
「……なんだ、これは」
彼女は舌なめずりをした。
「濃い。……肉を食うよりも、肉の味がする。脂が舌に絡みつくようだ」
「だろ? こいつに醤油ダレを合わせれば完成だ」
俺は別の鍋でタレを作った。
醤油、みりん、酒。
それに昆布と、隠し味の魚粉。
こいつを丼に入れ、熱々の白濁スープを注ぐ。
ジャーッ!!
脂と醤油が混ざり合い、強烈な香りが立ち上る。
獣臭さは消え、食欲を直撃する香ばしさだけが残る。
そこに、茹で上げた麺を入れる。
この麺も、リリが育てた『ダンジョン小麦』を俺が手打ちしたものだ。
コシが強く、スープによく絡む。
具材はシンプルに。
トロトロに煮込んだチャーシュー(これもオーク肉だ)。
煮玉子。
キクラゲ。
そして、山盛りのネギ。
「へい、お待ち。特製・オーク豚骨ラーメンだ」
俺は丼をカウンターに置いた。
湯気と共に、暴力的なまでの旨味の香りが漂う。
エリザは無言だった。
箸を割り、手を合わせる(俺が教えた作法だ)。
そして、麺を啜る。
ズルズルズルッ!
豪快な音。
日本人のDNAが刻まれているかのような素晴らしい啜りっぷりだ。
「んんっ……!」
エリザが唸った。
咀嚼し、飲み込み、すぐに次の一口へ向かう。
止まらない。
スープを飲み、麺を啜り、チャーシューを齧る。
「……店長様、私にも……少しだけ」
リリが恐る恐る近づいてきた。
彼女は肉が苦手だ。
この脂ギトギトのスープは鬼門のはずだが、匂いに釣られたらしい。
「ああ、味見サイズで作ってやるよ」
俺は小さなお椀に麺とスープを入れ、リリに渡した。
リリは匂いを嗅ぎ、少し躊躇ってから、口をつけた。
「……!」
彼女の長い耳がピクリと動いた。
「……お、美味しい……? 脂っこいのに、嫌な感じがしません……。精霊の野菜(ネギ)が、脂を中和してくれているのでしょうか……?」
「豚骨とネギは最強の相棒だからな」
リリも夢中で食べ始めた。
菜食主義のエルフすら陥落させるオークキングの底力。
恐るべしだ。
俺は換気扇のスイッチを入れた。
店内に充満した匂いを逃がすためだ。
ブォォォォン……。
ファンが回り出し、濃厚な豚骨の香りが排気ダクトを通って外へ――ダンジョンの通路へと吐き出されていく。
この匂いは、きっと遠くまで届くだろう。
空腹の冒険者が嗅いだら、理性を失ってゾンビのように店へ向かってくるかもしれない。
「ふぅ……」
俺はカウンターに肘をつき、二人が食べる様子を眺めた。
美味いものを食っている時の顔は、いつ見てもいい。
不安も、焦りも、この湯気の中には存在しない。
この場所を守りたい。
改めてそう思った。
その時だった。
『……ふむ』
足元で声がした。
クロだ。
いつの間にか起きていた黒猫が、店の方角――入り口のガラス戸を見つめていた。
その耳が、ピクリ、ピクリと不規則に動いている。
「どうした、クロ。ラーメンが欲しいのか?」
俺が聞くと、クロはゆっくりとこちらを向いた。
その金色の瞳は、いつものように眠たげではなく、鋭く細められていた。
『……来るぞ』
「え?」
『大勢だ。……鉄の臭いと、殺気を纏った群れが近づいている』
クロの声は低く、腹の底に響くような警告の色を帯びていた。
俺の背筋に、冷たいものが走った。
あの偵察者の顔がフラッシュバックする。
嵐の前の静けさは、どうやら終わりを告げたらしい。
エリザが箸を止めた。
リリが不安げに顔を上げる。
「クロ、それは……」
『備えろ、料理人』
クロは立ち上がり、尻尾をゆらりと振った。
『今度の客は、財布ではなく剣を持ってくるぞ』
俺は厨房から出て、入り口のブラインドに手をかけた。
指先が少し震える。
隙間から外を覗く。
まだ何も見えない。
ただ、赤いマグマの照り返しだけがある。
だが、俺には聞こえた気がした。
換気扇の音に混じって、遠くから響いてくる、重く、冷たい足音が。
俺は振り返り、厨房のまな板に視線を戻した。
そこには、俺の武器である包丁が置かれている。
俺はそれを手に取り、柄の感触を確かめた。
やるしかない。
俺の店を、俺のスープを、邪魔させるわけにはいかない。
「……いらっしゃいませ、だ」
俺は小さく呟いた。
震えは止まっていた。
次に来るのがどんな客だろうと、俺のやることは変わらない。
ただ、最高の一杯を出すだけだ。
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