第10話 守られた背中

静かになった。


あれだけ鳴り響いていた地鳴りが、嘘のように消えている。

魔物の咆哮も、肉が弾けるような不快な音も聞こえない。


あるのは、鍋の中で汁が煮える「コトコト」という音だけだ。


「終わった、のか?」


俺はカウンターから顔を上げ、入り口のガラス戸を見た。

外は暗い。

マグマの赤い光だけが、ブラインドの隙間から差し込んでいる。

黒い濁流のように押し寄せていた魔物の群れは、跡形もなく消え去っていた。


「ニャ」


足元でクロが欠伸をした。

丸くなっていた体を伸ばし、入り口の方へと歩いていく。

扉の前で座り込み、尻尾をパタパタと振っている。

「客が来たぞ」と教えてくれているみたいだ。


俺は固唾を呑んで見守った。


誰が来る?

あの銀髪の女騎士か?

それとも、彼女を食い殺した魔物か?


俺の手は、自然とカウンターの下のバットに伸びていた。

もし魔物が入ってきたら、一発殴ってでも時間を稼ぐ。

その間にクロを逃がして――。


ザッ、ザッ。


足音がした。

重い。

金属が岩盤を踏みしめる音だ。


ドアノブが回る。

ゆっくりと、引き戸が開いた。


「……ただいま」


熱気と共に、一人の騎士が入ってきた。


「うわっ……」


俺は息を呑んだ。

赤い。

頭のてっぺんから爪先まで、べっとりと赤い液体で濡れている。

銀色の美しい鎧も、白かった肌も、元の色が分からないほどだ。

血の鉄臭さが、一気に店内に充満する。


「お、おい! 大丈夫か!? 怪我は!?」


俺はタオルを掴んでカウンターを飛び越えた。

これだけの出血量だ。

生きて立っているのが不思議なレベルじゃないか。


駆け寄ろうとする俺を、彼女は片手で制した。


「寄るな。……汚れる」


「そんなこと言ってる場合か! どこやられたんだ! すぐ止血を……」


「違う」


彼女は兜を脱いだ。

バサリと、長い髪が広がる。

顔の半分も赤く染まっているが、その下にある瞳は、澄んだ青色のままだった。


「私の血ではない。……全部、奴らの血だ」


彼女は事もなげに言った。

手近なタオルを手に取り、無造作に顔を拭う。

赤い汚れの下から、白磁のような肌が現れた。

傷一つない。


俺はへなへなと力が抜けた。


「……マジかよ」


「マジだ。この鎧は、竜の牙も通さない」


彼女はニッと笑った。

その笑顔は、どこか少年のような無邪気さと、歴戦の戦士だけが持つ凄みが同居していた。


「それに、体が軽かった。……貴様の飯のおかげだな。剣を振るうたびに力が湧いてくるようだった」


彼女は血まみれの籠手を外し、カウンターに置いた。

ゴトリ、と重い音がする。


「ボスは斬った。群れも散らした。……当分は静かになるはずだ」


「……一人でやったのか?」


「ああ。誰かがやらねば、ここが潰されるからな」


彼女は店の中を見回した。

傷一つない床。

湯気を上げる鍋。

平和な空間が、そのまま残っていることを確認するように。


「ここはいい」


彼女はカウンター席に座り、大きく息を吐いた。


「背中を気にしなくていい場所というのは、それだけで武器になる」


「背中?」


「戦場では、常に全方位を警戒する。寝ている時でさえ、意識の一部は起きている。……だが、ここには壁がある。屋根がある。そして」


彼女は俺を見た。

まっすぐな瞳だった。


「帰れば、飯がある」


その言葉に、俺の胸の奥が熱くなった。


彼女は、ただ魔物を狩るために戦ったんじゃない。

この「帰る場所」を守るために、あの地獄へ飛び込んでいったんだ。

そして、実際に守りきって帰ってきた。


俺はただの料理人だ。

剣も振れない。

魔法も使えない。

けれど、この最強の騎士が「帰りたい」と思える場所を作ることはできる。


「……ああ、あるぞ」


俺は厨房に戻った。

鍋の蓋を開ける。

白い湯気が立ち上る。

味噌と出汁の香りが、血の臭いを上書きしていく。


「約束の豚汁だ。煮詰まって、さっきより濃いぞ」


俺は新しい丼になみなみと注いだ。

今回は特大サイズだ。

具も山盛りにしてやる。


「それに、これを使え」


俺は店の奥から、清潔なバスタオルと着替え(俺のジャージだが)を持ってきた。


「店の裏にシャワー室がある。魔導式だから湯も出るぞ。……血だらけで飯食うのもなんだろ?」


彼女は目を丸くした。


「シャワー……? この深層で、湯浴みができるのか?」


「水なら売るほどあるからな。さっぱりしてこい。飯はそのあとだ」


彼女はバスタオルを受け取ると、それを顔に押し当てて、クククと喉を鳴らして笑った。


「最高だ。……ここは本当に、天国か何かか?」


「地獄の99階層だよ。ほら、行った行った」


俺が追い払うように手を振ると、彼女はふらつく足取りで勝手口へと向かった。

その背中は、来た時よりもずっとリラックスして見えた。


足元でクロが「ニャァ」と鳴いた。

俺はしゃがみ込み、その頭を撫でてやる。


「……店主冥利に尽きるな」


独り言が漏れた。


俺はここに来てから、ずっと「守られている」側だと思っていた。

結界に守られ、壁に守られ、今は彼女に守られた。

でも、違う。

俺もまた、何かを守っているんだ。

俺の料理が、俺の作ったこの空間が、彼女の命を繋ぎ、心を支えている。


持ちつ持たれつ。

悪くない関係だ。


十分後。

シャワーを浴びて、サイズの合わないジャージを着たS級冒険者が戻ってきた。

髪は濡れていて、肌はピンク色に上気している。

風呂上がりの美女。

これまた破壊力抜群の光景だ。


「生き返った……」


彼女はカウンターに座るなり、豚汁の丼を両手で抱えた。

一口すする。

あふぅ、と情けない声が漏れる。


「染みる……」


「おかわり、あるからな」


俺は白米をよそいながら言った。


彼女は箸を動かしながら、ふと思い出したように顔を上げた。


「そういえば、名乗っていなかったな」


「あ?」


「私はエリザ。……また来る、と言ったが、訂正する」


彼女は箸を置き、真剣な顔で俺を見た。


「通わせてもらう。……いいか?」


常連確定宣言だ。

俺はニヤリと笑って、ドンと丼を置いた。


「おう。毎度あり、エリザさん」


地獄の底の定食屋。

最初のお客様は、どうやら俺の飯の虜になったらしい。


これで、なんとかやっていけそうだ。

俺は心の中でガッツポーズをした。


その時だった。


『……おい』


頭の中に、直接響くような低い声が聞こえた。

エリザの声じゃない。

もっと野太くて、威圧感のある声だ。


俺はキョロキョロと見回した。

店内には俺とエリザ、そして足元のクロしかいない。


『こっちだ、人間』


声は、下から聞こえた。

俺は恐る恐る視線を下げた。


そこで、クロが金色の瞳で俺を見上げていた。


『その煮汁……我にも寄越せ』


「……は?」


俺の思考が停止した。

今、猫が喋った?


「おい、人間。聞こえんのか? 鰹節もいいが、その豚の汁も美味そうではないか」


幻聴じゃない。

口が動いている。

可愛らしい黒猫が、おっさんのような声で、明確に豚汁を要求している。


俺とエリザの視線が、同時に足元の黒い毛玉に釘付けになった。


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第10話まで読み進めていただいた方向けに、現時点での登場人物と世界観の整理資料を作成いたしました!


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登場人物紹介

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【トオル(主人公)】

年齢:22歳

職業:結界師(Fランク)→ ダンジョン料理人(自称・ギルド非公認)


本作の主人公。現代からの転生者。ブラックな冒険者ギルドから「厄介払い」として、人類未踏のダンジョン99階層へ強制転移させられた不遇な青年。

性格は慎重かつ常識人ですが、料理のことになると熱が入るタイプ。本来は戦闘力皆無の結界師ですが、保有するユニークスキル『絶対安全圏(サンクチュアリ)』があまりに規格外なため、地獄のような環境でも涼しい顔で生活できています。


「死にたくない」一心で店を開きましたが、腹を空かせた客(たとえ魔物でも)を放っておけないお人好しな一面があり、その料理と人柄が殺伐としたダンジョンに奇妙な「縁」を生み出していきます。


得意料理:定食屋で出てくるような茶色いおかず(生姜焼き、唐揚げなど)


【エリザ(ヒロイン)】

年齢:19歳

職業:S級冒険者(二つ名:剣姫)


若くして冒険者の頂点に立つ、銀髪碧眼の女性騎士。

戦闘能力は人類最強クラスですが、ダンジョン深層への単独行による疲労と精神汚染で死にかけていたところを、トオルに拾われます。

性格は武人らしく冷徹でストイック……に見えますが、本性は美味しいものに目がない食いしん坊。トオルの料理(特に豚肉の生姜焼き)に胃袋を掴まれ、最初の常連客となりました。

現在はトオルの店を「唯一安らげる帰る場所」と認識し、店を守る最強の用心棒としても活躍します。


好きなもの:トオルの手料理全般、甘いもの(隠している)


【クロ】

種族:???(黒猫)

役割:店の招き猫兼マスコット


99階層に突如現れた、金色の瞳を持つ黒猫。

トオルの店に勝手に住み着き、当然のように鰹節や料理を要求してくるふてぶてしい性格。トオルの結界内を自由に出入りし、時には人間の言葉を話すなど、ただの猫ではない風格を漂わせています。

第10話時点では「喋る猫」ということ以外、正体は不明ですが、ダンジョンの魔物たちが恐れをなすほどの「格」を持っています。


好物:高級な鰹節、マグロ


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世界観・用語解説

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【奈落のダンジョン・地下99階層】

本作の舞台。通称「神々のゴミ捨て場」。

マグマが流れ、空気は硫黄に満ち、S級モンスターであるドラゴンやキマイラが雑魚として跋扈する地獄のエリア。

本来であれば人間が生存することは不可能で、数秒で即死するか、精神を病んで発狂する過酷な環境です。トオルの店以外に安全な場所は存在しません。


【深層食堂(しんそうしょくどう)】

トオルがギルドからの支給品(簡易店舗設営キット)を使って建てたプレハブの定食屋。

外観は赤提灯と暖簾がかかった、昭和レトロな定食屋風。

トオルのスキルによって守られているため、店内はエアコンが効いたように快適で、外の騒音や熱気も一切入ってきません。

極限状態の冒険者にとって、この店で温かい飯を食うことは、ポーションを飲む以上の回復効果(主に精神面)をもたらします。


【スキル:絶対安全圏(サンクチュアリ)】

トオルが持つユニークスキル。

「トオルを中心とした半径5メートル」を、あらゆる干渉から隔絶された聖域にする能力。

物理攻撃、魔法攻撃はもちろん、毒、熱、寒さ、そしてダンジョン特有の「精神汚染(瘴気)」さえも完全に無効化します。

本来は身を守るだけのスキルですが、トオルはこの中で料理をしたり、寝床を作ったりすることで、移動式の要塞兼自宅として活用しています。

強度は測定不能。ドラゴンのブレスだろうが、スタンピード(魔物の暴走)だろうが、ガラス一枚割ることはできません。


【アイテムボックスと食材】

トオルが所持している魔法の鞄。

ギルドから追放される際、「餞別」として大量の食材(米、野菜、調味料)や建材、魔導調理器具を持たされました。

水や火は魔導具によって無尽蔵に供給可能ですが、野菜などの食材は有限であるため、今後の在庫管理がトオルの悩みの一つとなりそうです。

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