第9話 窓の外は地獄絵図
エリザが落ち着きを取り戻してから、三十分ほどが過ぎた。
彼女はもう泣いていない。
腫れた目を蒸しタオルで冷やし、今は食後の茶をすすっている。
その背中は、最初に来店した時のような張り詰めたものではなく、休日の縁側でくつろぐ老人のようにリラックスしていた。
「……美味かった」
彼女がぽつりと呟く。
「そりゃよかった。お代わりもあるぞ」
「いや、十分だ。これ以上食うと体が重くなる」
彼女は首を振った。
プロの冒険者らしい判断だ。
満腹すぎれば動きが鈍る。
あくまで「燃料補給」としての食事ということか。
俺はカウンターの中で、彼女が出した空の丼を下げようとした。
その時だ。
ズズズズズズ……。
低い音が響いた。
最初は耳鳴りかと思った。
だが、すぐに違うと気づく。
床が微振動している。
棚に並べたコップが、チリチリと音を立てて触れ合っている。
「……地震か?」
俺は天井を見上げた。
ここは地下99階層だ。
もし岩盤崩落でも起きたら、いくら『絶対安全圏』でも生き埋めになって窒息するんじゃないか?
「いや、違うな」
エリザが茶を飲みながら、さらりと言った。
「虫だ」
「虫?」
「あるいは獣か。……来るぞ」
彼女が言い終わるのと同時だった。
ドォン!!
店の入り口付近で、爆発のような衝撃音がした。
続いて、何かが壁に激突する音が連続して響く。
ガンッ! ゴンッ! ベチャッ!
「ひっ!?」
俺は思わずカウンターの下に身を屈めた。
何だ?
何が起きてる?
恐る恐る顔を上げ、入り口のガラス戸を見る。
そこには、この世の終わりみたいな光景が広がっていた。
真っ黒だ。
窓の外が、黒い蠢く何かで埋め尽くされている。
赤いマグマの光さえ遮断され、店内が一気に暗くなった。
よく見ると、それは生物だった。
巨大なムカデ。
角の生えた狼。
ドロドロした粘液状の何か。
それらが、窓ガラスにへばりつき、押し合いへし合い、互いを踏みつけにして流れていく。
「ス、スタンピード……!?」
ギルドの講習で習った言葉が脳裏をよぎる。
魔物の大暴走。
何らかの原因でパニックになった魔物が、津波のように押し寄せる現象だ。
メリメリメリ……。
ガラス戸の向こうから、嫌な音が聞こえる。
数トンの圧力がかかっているはずだ。
普通の建物なら、一瞬でペシャンコだろう。
「わ、割れる! 入ってくる!」
俺は悲鳴を上げた。
バットを握りしめるが、手汗で滑る。
あんな量が雪崩れ込んできたら、バット一本でどうにかなるわけがない。
死ぬ。
今度こそ死ぬ。
定食屋を開業して一週間足らずで、魔物の餌になって終了だ。
だが。
「……静かだな」
エリザの声が、場違いなほど落ち着いて響いた。
「え?」
俺は震える声で聞き返した。
彼女を見る。
エリザは湯呑みを片手に、興味深そうに窓の外を眺めていた。
「外は阿鼻叫喚だろうに。……結界の中は、振動さえ伝わってこない」
彼女は感心したように言った。
言われてみれば、そうだ。
視覚的には地獄絵図だが、店内には暴走の轟音も、魔物の咆哮も、ほとんど聞こえてこない。
防音ガラスの向こうで起きている無声映画のようだ。
「割れないのか? あれ」
「貴様のスキルだろう? 私に聞くな」
エリザは呆れたように肩をすくめた。
「だが、見てみろ。あの『アイアンブル』の突進を受けても、ガラスにヒビ一つ入っていない。……呆れた強度だ」
彼女が指差した先。
窓の外で、戦車のような巨大な牛が、ガラスに角を突き立てていた。
だが、ガラスは鋼鉄以上に硬いらしく、逆に牛の角がポッキリと折れるのが見えた。
牛はそのまま後続の魔物の波に飲み込まれ、姿を消した。
「す、すげぇ……」
俺は腰が抜けたまま、その光景に見入った。
『絶対安全圏』。
半径5メートルを無敵化するスキル。
まさか、物理的な質量攻撃すら完全にシャットアウトするとは。
「これなら……大丈夫、なのか?」
「ああ。ここが世界の中心で一番安全な場所だ」
エリザは最後の茶を飲み干し、トンと湯呑みを置いた。
「さて」
彼女が立ち上がる。
椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく響いた。
「い、行くのか?」
俺は目を見開いた。
外は魔物の海だ。
ここを出た瞬間、あの濁流に飲み込まれることになる。
「死ぬぞ。止めておけ。嵐が過ぎるまで待ったほうがいい」
「待っていたら、獲物が逃げる」
エリザは口元を歪めて笑った。
その笑みは、豚汁を食べていた時の穏やかなものではない。
S級冒険者『剣姫』の、獰猛で美しい笑みだった。
「それに、腹は満ちた。体も軽い。……今の私なら、あの群れごとボスを叩き斬れる」
彼女は腰の剣に手をかけた。
鞘の中で、魔剣がカチリと鳴る。
その音だけで、周囲の空気がビリビリと震えた気がした。
俺はゴクリと唾を飲み込んだ。
止めても無駄だ。
彼女はここへ逃げ込みに来たんじゃない。
戦うために、休憩しに来ただけだ。
「……弁当、持っていくか?」
俺ができるのは、それくらいだった。
引き止める言葉の代わりに、俺は厨房へ走った。
ラップに包んだおにぎりを二つ。
具は鮭と梅干しだ。
「ほら、夜食にしろ」
俺はカウンター越しにそれを投げた。
エリザは片手で見事にキャッチした。
一瞬だけ、驚いた顔をする。
そして、おにぎりを愛おしそうにポーチへしまった。
「……気が利くな。貰っておく」
彼女は入り口へ向かう。
ガラス戸の向こうには、相変わらず魔物の壁が渦巻いている。
「店主」
ドアノブに手をかけ、彼女は背中越しに言った。
「帰ってきたら、またあの汁を頼む。……あれは、いい」
「ああ。いくらでも作ってやるよ」
「約束だ」
彼女は一気に戸を開け放った。
ゴオオオオオオッ!!
結界によって遮断されていた轟音が、一瞬だけ店内に吹き荒れる。
腐臭と熱風。
魔物の群れが、開いた隙間から雪崩れ込もうとする。
だが、それより速く。
「邪魔だッ!!」
エリザの一喝。
同時に、銀色の閃光が走った。
ズンッ!
衝撃波。
ただの剣圧ではない。
魔力を纏った斬撃が、入り口を塞いでいた魔物の山を、真正面から吹き飛ばしたのだ。
肉片が舞う。
黒い濁流に、ぽっかりと大穴が開く。
道ができた。
エリザはその中へ、躊躇なく飛び込んでいった。
銀色の髪をなびかせ、瞬く間に魔物の群れの中へ消えていく。
パタン。
俺は慌てて戸を閉めた。
再び静寂が戻る。
「……化け物かよ」
俺はへたり込んだ。
魔物よりも、あいつのほうがよっぽど化け物だ。
あんな地獄へ、ピクニックに行くみたいに飛び込んでいきやがった。
足元で、クロが「ニャァ」と鳴いた。
見ると、俺が投げたおにぎりの残りの米粒を突いている。
「……強いな、あいつ」
俺はクロの頭を撫でた。
手の震えは止まっていた。
窓の外では、まだ魔物たちが蠢いている。
だが、その中心で銀色の光が瞬くのが見えた。
あそこで、俺の作った豚汁をエネルギーに変えて、一人の剣士が戦っている。
そう思うと、この地獄絵図も、少しだけ頼もしく見えてくるから不思議だ。
「さて」
俺は立ち上がり、彼女が残した湯呑みを手に取った。
まだ温かい。
「帰ってくるまでに、もう一鍋仕込んでおくか」
俺は厨房へ戻った。
今度はもっと具沢山にしてやろう。
あいつはきっと、腹を空かせて帰ってくるはずだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます