第8話 安全地帯の本当の意味

開店から三日が過ぎた。


客は来ない。

当たり前だ。

ここは99階層。

通りがかるのは、全長20メートルのドラゴンか、頭が三つある犬くらいのものだ。

あいつらが「ヘイ大将、やってる?」と暖簾をくぐる姿は想像したくない。


「ニャ」


足元で鳴き声がした。

見下ろすと、黒猫のクロが俺の足に体を擦りつけている。

腹が減ったらしい。


「はいはい、今やるよ」


俺は小皿に煮干しを出してやった。

クロは嬉しそうに尻尾を立て、ガツガツと食べ始める。


この数日、俺の仕事といえばクロの世話と、腐りやすい食材の下処理くらいだった。

暇だ。

暇すぎて、店内の床を磨き上げすぎて鏡みたいになってしまった。


「……あの女騎士、また来るって言ってたけどな」


俺はカウンターを布巾で拭きながら呟いた。

社交辞令だったのかもしれない。

あるいは、途中でドラゴンに食われたか。


カラン、コロン。


入り口に取り付けたドアベルが鳴った。

俺は弾かれたように顔を上げた。


「いらっしゃい!」


条件反射で声が出る。

引き戸が開いていた。

熱風と共に、一人の人間が入ってくる。


銀色の髪。

見覚えのあるミスリルの鎧。

エリザだ。


「よう、待ってたぞ。今日は……」


俺の言葉は途中で止まった。


様子がおかしい。

前回のような、獲物を狙う獣のような覇気がない。

彼女は幽霊のようにふらふらと歩き、一番端の席にドサリと座り込んだ。

顔色が悪い。

白いを通り越して、青白い。

目は開いているが、焦点が合っていない。


「……おい、大丈夫か?」


俺は慌ててカウンター越しに声をかけた。

怪我はしていないようだ。

鎧も破損していない。

だが、雰囲気が異常に暗い。


「…………」


返事がない。

聞こえていないのか?


俺は水を出した。

コップを置く音で、彼女はピクリと肩を揺らした。

ゆっくりと顔を上げる。

死んだ魚のような目だった。


「……あ、あぁ。店主、か」


声が掠れている。

喉が潰れているわけじゃない。

気力が枯渇している声だ。


「随分と顔色が悪いな。何かあったのか?」


「……少し、ボスとやり合ってな。……頭が、割れそうだ」


彼女はこめかみを押さえた。

指先が震えている。


風邪か?

いや、ここはダンジョンだ。

未知のウィルスや毒の可能性もある。

だが、俺のスキル『絶対安全圏』の中にいれば、状態異常は無効化されるはずだ。

もし毒なら、店に入った時点で解毒されているはずだが。


俺は彼女を観察した。

呼吸が浅い。

瞳の奥に、怯えのような色がこびりついている。


肉体的なダメージというより、精神的に参っているように見えた。

ブラック企業で連勤した後のサラリーマンと同じ顔だ。

相当キツい戦闘だったのだろう。


「……何か食えるか? それとも、少し寝るか?」


「食う……。何か、温かいものを……」


うわ言のように彼女が呟く。

体温を求めているらしい。


俺は厨房へ向かった。

温かくて、消化に良くて、弱った体に染みるもの。

カレーは刺激が強すぎる。

生姜焼きも重い。


なら、あれだ。


俺は鍋に水を張った。

出汁パックを入れる。

大根、人参、ごぼう。

根菜をいちょう切りにする。

ザクザクという音が、静かな店内に響く。


フライパンで豚肉を軽く炒める。

脂が出たら、野菜を投入。

油が回るまで炒め合わせる。

こうするとコクが出る。


出汁を注ぐ。

ジュワーッという音と共に、湯気が立ち上る。

アクを取り、豆腐を手で崩し入れる。

最後に、ネギをたっぷりと。


味噌を溶く。

合わせ味噌だ。

白味噌の甘みと、赤味噌のコク。

香りが立つ。

日本人のDNAに刻まれた、安心する匂い。


「……いい匂いだ」


背後で、小さな呟きが聞こえた。

振り返ると、エリザが鼻を動かしている。

死んでいた目に、少しだけ光が戻っている。


「特製豚汁だ。野菜も肉も入ってる」


俺は大きめの丼になみなみと注いだ。

七味唐辛子を少し振る。

カウンターに置く。


湯気が彼女の顔を包む。


エリザは震える手で丼を持ち上げた。

熱いはずだが、それを求めているように指を押し付けている。

口をつける。

汁をすする。


「…………」


長い、長い沈黙があった。


彼女は丼を置かない。

そのまま二口、三口と汁を飲み続ける。

喉を通るたびに、彼女の凍りついた肩から力が抜けていくのが分かった。


「……あぁ」


深いため息。

それは、重い荷物をようやく下ろした時のような、心からの安堵の音だった。


「具も食えよ。大根、味が染みてるぞ」


俺が言うと、彼女は箸を取り、大根を口に運んだ。

ハフハフと息を吐きながら噛む。

煮込まれた根菜の甘みが、口いっぱいに広がっているはずだ。


彼女は黙々と食べた。

前のような猛獣のような勢いはない。

一口ずつ、確かめるように、噛み締めるように食べている。


俺はその様子を見守りながら、自分用の茶を淹れた。


不思議なことがある。

彼女が入店して数分。

最初は土気色だった顔に、赤みが戻ってきている。

ただの食事でここまで回復するものか?

いや、俺の『絶対安全圏』には、俺も知らない効果があるのかもしれない。


例えば、外の過酷な環境ストレスからの完全遮断。

静寂。

安全。

そして、温かい飯。


それらが揃ったこの空間は、彼女にとって最高の「薬」になっているのかもしれない。


「……店主」


丼が半分ほど空になった頃、エリザが口を開いた。


「ん?」


「ここは、不思議な場所だ」


彼女は丼の中の味噌汁を見つめたまま言った。


「外にいる時は、頭の中にずっと『死ね』という声が響いていた。……ボスの精神攻撃だ。幻聴も、幻覚も消えなかった」


精神攻撃。

やはり、そういう厄介な敵だったのか。


「でも、この暖簾をくぐった瞬間……声が消えた」


彼女は顔を上げた。

青い瞳が、俺をまっすぐに見ている。

そこにはもう、怯えの色はなかった。


「頭の霧が晴れたみたいだ。……貴様のスキルか?」


「さあな」


俺は肩をすくめた。

スキルの詳細をペラペラ喋るつもりはないし、正直俺にも分からない。

ただ、俺が設定しているのは「俺の客にとって快適な環境であれ」という漠然としたイメージだけだ。


「俺はただの定食屋だ。客が飯を不味く感じるような雑音は、シャットアウトしてるだけさ」


俺は茶をすすった。


エリザは目を丸くし、それからふっと小さく笑った。


「……そうか。雑音か」


彼女は残りの豚汁を一気に飲み干した。

丼を置く。

カタリ、と優しい音がした。


「おい、泣いてるのか?」


俺はぎょっとした。

彼女の目から、大粒の雫がこぼれ落ちていたからだ。

頬を伝い、顎からカウンターに落ちる。


「……え?」


エリザは自分の頬に触れた。

濡れていることに驚いているようだ。


「なんだ、これは。……私は、なぜ」


彼女は慌てて目を拭った。

だが、涙は止まらない。

ボロボロと溢れてくる。


「すまない、違うんだ。悲しいわけではない。……ただ、温かくて」


彼女は言葉を詰まらせた。

張り詰めていた糸が切れたのだろう。

死ぬかもしれない恐怖。

精神を蝕む攻撃。

それらに耐え続け、ようやく辿り着いた「安全な場所」で、温かい味噌汁を飲んだ。


緊張が解けて、感情が溢れ出したんだ。


俺は何も言わず、新しいおしぼりを渡した。

彼女はそれを受け取り、顔を埋めた。

肩が小刻みに震えている。

嗚咽を噛み殺す声が、静かな店内に漏れていた。


足元で、クロが「ニャ」と鳴いた。

心配そうに、彼女の足元に寄り添っている。


俺は厨房の奥に引っ込んだ。

泣いている客をジロジロ見るのは無粋だ。

お茶のお代わりでも入れてやろう。

泣き止んだ後、水分補給が必要になるだろうから。


この店は、ただ腹を満たすだけじゃない。

地獄の底で、唯一「人間」に戻れる場所。

それが『安全地帯』の本当の価値なのかもしれない。


俺はヤカンの湯が沸く音を聞きながら、そんなことをぼんやりと考えていた。

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