第7話 孤独な営業と小さな訪問者

「待て! それは駄目だ!」


俺はカウンターへダイブした。

スライディング気味に滑り込み、黒い毛玉の行く手を遮る。


黒猫はピタリと止まった。

俺のカレー皿まで、あと数センチ。

鼻先がピクピクと動いている。

スパイシーな香りに魅了されているらしい。


「ニャァ(よこせ)」


猫は金色の瞳で俺を見上げ、不満げに鳴いた。

可愛らしい声だが、要求は明確だ。


「駄目だって言ってるだろ。カレーには玉ねぎが入ってるんだ。猫が食ったら死ぬぞ」


俺は猫を抱き上げた。

軽い。

けれど、筋肉はしなやかで、温かい。

暴れるかと思ったが、猫は大人しく俺の腕に収まった。

ただ、視線だけはずっとカレーの方を向いている。


「……お前、どこから入ってきた?」


俺は猫をカウンターの上に降ろした。

距離を取って観察する。


全身が闇のように黒い。

汚れ一つなく、艶やかな毛並みだ。

首輪はない。

耳も尻尾も普通だ。

見た目は、地球にいた黒猫そのものに見える。


だが、ここは99階層だ。

普通の動物が生息できる環境じゃない。

ということは、こいつも魔物(モンスター)の一種か?

『ダークキャット』とか『シャドウパンサー』の幼体とか。


俺は警戒した。

もしこいつがいきなり巨大化して襲ってきたら、俺のバットで勝てるだろうか。


「ニャッ!」


猫が前足でカウンターを叩いた。

早く飯を出せ、と催促している。

敵意は感じられない。

俺の『絶対安全圏』も反応していないということは、少なくとも今すぐ俺を殺そうとはしていないはずだ。


「……腹が減ってるのか?」


「ニャ」


肯定した。

賢い。

言葉が通じているみたいだ。


「カレーは駄目だけど、他のもんならあるぞ」


俺は厨房へ戻った。

猫が食べられて、かつ魔物でも満足できそうなもの。

冷蔵庫を開ける。

生肉?

いや、いきなり生肉を与えるのは衛生的にどうなんだ。

それに、せっかくなら料理人の腕を見せたい。


俺はアイテムボックスを漁った。

奥の方に、いいものを見つけた。


『最高級本枯れ節(ダンジョン産マグロ使用)』。


ギルドの支給品セットに入っていたやつだ。

ただの鰹節じゃない。

ダンジョンの海層で獲れた巨大マグロを、燻製にして乾燥させた逸品だ。

袋を開けた瞬間、濃厚な香ばしい匂いが立ち上った。


「ニャァァァァァッ!」


猫の目の色が変わった。

カレーへの執着が霧散する。

カウンターの端まで走ってきて、二本足で立ち上がり、俺の手元を覗き込もうとする。


「おっと、待て待て。今用意してやるから」


俺は小皿を取り出した。

鰹節を山盛りに削り入れる。

これだけじゃ喉が乾くだろう。

隣に、水を入れた小皿も添える。


「ほら、食え」


俺が皿を置いた瞬間だった。


ガツガツガツッ!


猫が顔を突っ込んだ。

勢いが凄い。

小さな口で、器用に鰹節を食んでいく。

喉の奥で「ゴロゴロ」と鳴らす音が聞こえる。

悦に入っている証拠だ。


「……そんなに美味いか」


俺は苦笑した。

どうやら、魔物だろうが何だろうが、美味いものを食う時の反応は人間と同じらしい。


俺は自分の席に戻った。

冷めかけたカレーをスプーンで掬う。

一口食べる。

辛さが舌を刺し、牛スネ肉の旨味が広がる。

美味い。


ふと横を見る。

黒猫が鰹節を夢中で食べている。

シャクシャクという咀嚼音が心地いい。


「……」


独りじゃない。

その事実が、じんわりと胸に染みた。


昨日の夜、一人で布団に入った時の孤独感を思い出す。

外は地獄。

中は安全だが、誰もいない。

世界に自分だけが取り残されたような不安。


だが今は、隣に温かい生き物がいる。

ただ飯を食っているだけだが、それだけで店の空気が和らいで見えた。


「おい、水も飲めよ」


俺が声をかけると、猫は一瞬だけ顔を上げ、「分かってる」と言いたげに水を舐めた。

そしてまた鰹節に戻る。


完食するのに、三分もかからなかった。

猫は綺麗になった皿を丁寧に舐め回し、最後に自分の顔を前足で洗い始めた。

満足そうだ。


「お代わりは?」


「ニャ(満腹だ)」


短い鳴き声。

猫はカウンターの上を悠々と歩き出した。

そして、俺が仮眠用に使っていた座布団(カウンターの隅に置いてあった)を見つけると、当然のようにその上で丸くなった。


「おいおい、そこは俺の席だぞ」


文句を言ってみるが、猫は無視して目を閉じた。

すぐに寝息を立て始める。

警戒心の欠片もない。


「……たくましい奴だな」


俺はため息をつきつつ、カレーの残りを口に運んだ。

不思議と、さっきより美味く感じた。


食後。

俺はコーヒーを淹れた。

香りが店内に満ちる。

座布団の上では、黒い毛玉が規則正しく上下している。


外から、遠雷のような音が響いた。

どこかで爆発でもあったのかもしれない。

だが、猫は耳をピクリと動かしただけで、起きようとはしなかった。


「ここは安全だからな」


俺は誰に言うともなく呟いた。


俺のスキルは、俺が認識した「客」を守る。

たとえそれが、どこの馬の骨とも知れない猫であっても。


俺は黒猫の背中を、指先でそっと撫でてみた。

温かい。

手触りは最高級のベルベットみたいだ。

猫は嫌がる素振りも見せず、むしろ俺の指に頭を擦りつけてきた。


「名前、どうするか」


飼うと決めたわけじゃない。

いつか出ていくかもしれない。

でも、呼び名くらいはあってもいいだろう。


「黒いから……クロでいいか」


安直すぎる。

文芸の才能がないのがバレる。

だが、猫は「好きにしろ」とばかりに尻尾の先を一度だけ振った。


「よし、クロ。家賃代わりに、ネズミが出たら追い払ってくれよ」


俺はクロの頭をもう一度撫でて、立ち上がった。

腹も満ちた。

話し相手(?)もできた。


さて、そろそろ開店準備だ。

まだ看板も出していないが、昨日の客――あの銀髪の女騎士が「また来る」と言っていた。

客商売に二言はない。


俺は暖簾を手に取った。

紺色に白抜きで『めし』と書かれた、渋い暖簾だ。

これを入り口にかければ、この店は正式にオープンする。


「よし」


俺は勝手口の鍵を確認し、クロの寝顔を一瞥してから、入り口の引き戸へと向かった。

99階層、最初で最後の定食屋。

本日開店だ。

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