第6話 99階層の夜とカレーの匂い
嵐のような客だった。
俺はカウンターの上に残された、青白い硬貨を見つめていた。
ミスリル貨。
指先で弾くと、キーンと澄んだ音が店内に響く。
重い。
たった一枚のコインなのに、掌に食い込むような存在感がある。
「……これ、どこにしまえばいいんだ?」
レジなんて立派なものはない。
俺は厨房の棚から、空の紅茶缶を取り出した。
とりあえず、こいつが金庫代わりだ。
カラン。
缶の底に硬貨が落ちる音が、やけに虚しく響いた。
売上第一号。
金額がデカすぎて実感が湧かないが、これは確かに俺が料理を作って稼いだ金だ。
「よし」
俺は缶の蓋をきつく閉めた。
感傷に浸っている場合じゃない。
客が帰れば、店主の仕事は片付けだ。
俺はカウンターに残された皿を下げた。
三回もおかわりをした割に、食べかす一つ落ちていない。
行儀がいいのか、それほど腹が減っていたのか。
洗い物をシンクに運ぶ。
水を出して、スポンジで洗う。
単純作業をしていると、高ぶっていた神経が少しずつ落ち着いてくる。
ふと、入り口のガラス戸を見る。
外は相変わらず赤い。
マグマの光が、ブラインドの隙間から差し込んでいる。
ドラゴンの咆哮は遠ざかっていた。
「……静かだな」
一人は怖い。
さっきまでは、あの殺気立った女剣士がいたおかげで、逆に気が紛れていたらしい。
誰もいない店は、世界から切り離された孤島のようだ。
皿を拭き、棚に戻す。
厨房の掃除を終えると、急激な眠気が襲ってきた。
時計はないが、体感では深夜を回っているはずだ。
ギルドに呼び出されたのが朝で、そこから転移させられて、店を建てて、接客して。
長い一日だった。
「寝るか」
俺は店の奥にある休憩スペース(といっても畳二畳分だ)に布団を敷いた。
これも支給品セットに入っていたものだ。
布団に入り、電気(魔導ランプ)を消す。
真っ暗になる。
外の赤い光だけが、ぼんやりと天井を照らしている。
怖い。
寝ている間に結界が消えたら?
ドラゴンが壁を突き破ってきたら?
俺はスキル『絶対安全圏』の状態を確認した。
体の中にあるスイッチのような感覚。
『ON』のままだ。
魔力消費もほとんどない。
呼吸をするように自然に維持されている。
「大丈夫だ。俺は死なない」
自分に言い聞かせる。
布団を頭まで被った。
生姜焼きの残り香が、少しだけ鼻をくすぐった。
◇
目が覚めた。
天井が見える。
生きていた。
俺は跳ね起きた。
すぐに体を確認する。
五体満足。
壁も天井も無事。
結界は正常に稼働している。
「……朝か?」
外を見る。
風景は変わらない。
溶岩と黒い岩。
99階層に朝なんて来ないらしい。
だが、体の疲れは取れていた。
顔を洗う。
冷たい水が気持ちいい。
腹が減った。
そういえば、昨日は客に食わせるばかりで、俺は味見程度しかしていなかった。
「仕込みついでに、自分の分も作るか」
俺はエプロンを締め直した。
店主モードへの切り替えだ。
こうしていないと、ここが地獄の底であることを思い出して足が竦みそうになる。
今日のメニューはどうするか。
生姜焼きは好評だったが、毎日同じというわけにはいかない。
それに、いつ客が来るかも分からない状況だ。
注文が入ってから作るのもいいが、作り置きが効くメニューがあれば楽だ。
「カレーだな」
煮込めば煮込むほど美味くなる。
匂いの拡散力も最強クラスだ。
昨日の女騎士――また来ると言っていたが――のような腹ペコには、カレーこそが正義だろう。
俺は大鍋を取り出した。
玉ねぎを大量に刻む。
涙が出るが構わない。
飴色になるまで炒める。
ニンニク、生姜、そしてアイテムボックスに入っていた『ダンジョン牛(ミノタウロス種)のスネ肉』。
肉を賽の目に切って放り込む。
表面を焼いて旨味を閉じ込める。
水を入れ、アクを取りながらコトコト煮込む。
一時間後。
店内は、暴力的なまでのスパイスの香りで満たされていた。
カレールー(市販の固形タイプだが、隠し味にチョコとコーヒーを入れるのが俺流だ)を溶かし込む。
とろみがつく。
茶色い魔性の液体が、ボコッ、ボコッと音を立てて呼吸を始める。
「いい匂いだ」
味見をする。
熱い。
辛い。
そして、牛スネ肉の濃厚な出汁が効いている。
昨日の生姜焼きにも負けない出来だ。
俺は自分の分の皿に飯を盛り、カレーをかけた。
福神漬けがないのが悔やまれるが、贅沢は言えない。
カウンターに座り、スプーンを口に運ぼうとした、その時だった。
ガサゴソ。
音がした。
入り口じゃない。
店の奥。
厨房のさらに奥にある、勝手口の方だ。
俺の手が止まる。
スプーンを持つ手が震えた。
ネズミか?
いや、ここはダンジョンだ。
ネズミといっても、体長1メートルの『キラーラット』かもしれない。
あるいは、匂いに釣られたもっとヤバい何かか。
勝手口は、ゴミ出し用に取り付けた小さな扉だ。
鍵はかけてある。
だが、木製の扉なんて魔物の爪にかかれば紙切れ同然だ。
もちろん、結界があるから中には入れないはずだ。
だが、もし「結界の隙間」をすり抜けるような小型種だったら?
ガリッ、ガリガリ。
引っ掻くような音。
明らかに、扉の向こうに『何か』がいる。
しかも、必死に中に入ろうとしている。
「……クソッ」
俺はスプーンを置き、カウンターの下のバットを握りしめた。
確認しなきゃならない。
放っておいて、扉を食い破られたら修理が面倒だ。
俺は忍び足で厨房に入った。
勝手口に近づく。
音は足元から聞こえる。
低い位置だ。
やはり小型か。
俺はバットを構え、意を決してドアノブを回した。
ガチャリ。
少しだけ隙間を開ける。
熱気が入り込む。
俺は隙間から下を覗き込んだ。
「……あ?」
そこにいたのは、キラーラットでも、醜悪なゴブリンでもなかった。
黒い毛玉だった。
いや、違う。
闇を切り取ったような漆黒の毛並み。
金色の瞳。
小さな体躯。
「猫……?」
そいつは、俺と目が合うと、「ニャァ」と短く鳴いた。
そして、あろうことか俺の足元をすり抜け、堂々と店内に侵入してきたのだ。
「おい、待て!」
俺は慌てて扉を閉め、振り返った。
黒い毛玉は、一直線にカウンターの方へ走っていく。
目指す先は一つ。
俺のカレーだ。
「ふざけんな、それは俺の朝飯だぞ!」
俺はバットを放り出し、小さな侵入者を追いかけた。
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