第5話 陥落するS級の舌

「ふぅ……」


深い、満足げな吐息が聞こえた。


カウンターの上には、空になった皿が積み上げられている。

丼が三つ。

平皿が三枚。

味噌汁のお椀が三つ。

綺麗に空っぽだ。

米粒一つ、キャベツの欠片一つ残っていない。


「食ったなぁ」


俺は呆れ半分、感心半分でその光景を見下ろしていた。

あの細い体のどこに消えたんだ。

ブラックホールか何かか。


目の前の女は、空になったコップ(お冷も五杯目だ)を両手で包み、うっとりとした表情で宙を見つめている。

入店時の殺気はどこへやら。

今の彼女は、日向ぼっこをしている猫のように無防備だった。


「どうだ、落ち着いたか?」


俺が声をかけると、彼女はハッとして我に返った。

青い瞳が俺を捉える。

そして、積み上がった皿の山を見て、自分の口元を拭って、最後に俺の顔をもう一度見た。


一瞬で、彼女の白い肌が朱に染まった。


「……あ、すまない」


彼女は咳払いをして、背筋を伸ばした。

S級(らしい)冒険者の威厳を取り戻そうとしているようだ。

だが、口の端にマヨネーズがついているので台無しだ。


「取り乱した。……その、あまりに美味だったので」


「そりゃどうも。作り甲斐がある食いっぷりだったよ」


俺はおしぼりを渡してやる。

彼女はそれを受け取り、丁寧に口元を拭いた。


「しかし、信じられん」


彼女は自分の掌をじっと見つめ、握ったり開いたりしている。


「魔力欠乏による倦怠感が消えている。傷の痛みもない。……貴様の料理には、回復魔法でも付与されているのか?」


「まさか。ただのオーク肉と生姜だ」


「嘘だ。ただの肉で、ここまで精気が満ちるはずがない」


彼女は真剣な顔で断言した。


この世界の常識は知らないが、俺の世界じゃ「美味いものを腹いっぱい食えば元気が出る」のが当たり前だ。

病は気から。

回復も気からだ。

恐怖と空腹で縮こまっていた体に、熱量(カロリー)と幸福感が叩き込まれれば、そりゃ調子も良くなるだろう。


「食後の茶でも飲むか?」


俺は急須にお湯を注いだ。

緑茶の香りが立ち上る。

彼女の鼻がピクリと動いた。


「……頂こう」


湯呑みを差し出す。

彼女はそれを両手で受け取り、香りを楽しみ、一口すする。


「ほう……」


長い息。

肩の力が完全に抜けている。


俺はカウンターの向こうで、洗い物を始めた。

水音が心地いい。

外の世界――結界の向こうでは、まだ遠くでドラゴンの鳴き声がしている。

だが、この6畳の店内だけは、奇跡のように平穏だった。


不思議な感覚だ。

つい一時間前まで、俺はここで死ぬ恐怖に震えていた。

それが今はどうだ。

見知らぬ美女(大食い)と茶を飲み、皿を洗っている。

日常と非日常が混ざり合って、変なリアリティを生んでいる。


「……店主」


洗い物を終えた頃、彼女が静かに口を開いた。


「ん?」


「代金だ」


彼女は懐に手を入れた。

そういえば、忘れていた。

俺は商売をしに来たんだったか。

いや、元々は生き残るためのシェルター作りだったはずだが。


「いいよ、金なんて。材料は支給品だし、俺も作りすぎた分を食べてもらったようなもんだ」


俺は手を振った。

本心だ。

こんなダンジョンの最深部で、金を受け取っても使い道がない。

コンビニも自販機もないのだ。

それに、彼女には命拾いをした恩(というより、殺されずに済んだ安堵)もある。


だが、彼女は首を横に振った。


「断る」


きっぱりとした拒絶だった。

彼女の青い瞳に、強い意志が宿っている。


「施しは受けない。冒険者として、対価は支払う。……それに」


彼女は少し視線を逸らし、小声で付け加えた。


「また、来たいからな」


「え?」


「タダで食わせてもらう道理はない。金を払えば、私は『客』として、またここに来られる。……違うか?」


俺は目を丸くした。

なるほど。

律儀な奴だ。

そして、どうやら俺の生姜焼きを相当気に入ってくれたらしい。


「分かった。じゃあ、お代を頂くよ」


俺はエプロンで手を拭いた。

彼女が『客』でありたいと言うなら、俺も『店主』として振る舞うべきだ。


「いくらだ?」


「そうだな……」


相場が分からない。

地上の定食屋なら、生姜焼き定食で800円くらいか。

三杯食べたから2400円。

それに命がけの立地手当と、深夜(ダンジョン内はずっと暗いが)料金を含めて……。


「銀貨3枚ってとこか」


適当に言ってみた。

ギルドで聞いた話では、銀貨1枚で宿に一泊できるくらいの価値だったはずだ。

少しぼったくりかもしれないが、ここは99階層だ。

水一本輸送するコストを考えれば、破格の安さだろう。


「銀貨……3枚?」


彼女が怪訝な顔をした。


「高すぎたか? なら2枚で……」


「安すぎる」


彼女は呆れたように嘆息した。

そして、革袋から一枚の硬貨を取り出し、カウンターに置いた。


カチャン、と硬質な音が響く。


「釣りはいらん。次回の分も含めての『先行投資』だ」


俺はその硬貨を凝視した。


銀色ではない。

金色でもない。

透き通るような青白い輝きを放つ、美しい金属。

表面には精緻なドラゴンの刻印が彫られている。

店内の照明を反射して、キラキラと虹色の光を撒き散らしていた。


俺は貴金属に詳しくない。

だが、本能が告げている。

これは、ヤバい。

銀貨や金貨なんてレベルじゃない。

プラチナ?

いや、ファンタジー小説で読んだことがある。

この輝きは、おそらく。


「……これ、まさか」


俺が恐る恐る顔を上げると、彼女は涼しい顔で立ち上がっていた。


「ミスリル貨だ」


あっさりと言われた。


ミスリル。

魔法金属の最高峰。

装備にすれば国宝級。

通貨として流通していること自体が奇跡のような代物だ。


「ちょ、待て! こんなの受け取れるか! お釣りなんて出せるわけないだろ!」


俺は慌てて硬貨を突き返そうとした。

だが、彼女は既に背を向けていた。


「言ったはずだ。先行投資だと」


彼女は入り口の引き戸に手をかけた。

その背中は、来た時とは別人のように力強かった。

鎧の歪みも、血の汚れも気にならないほど、彼女自身が発する覇気が満ちている。


「腹は満ちた。……行ってくる」


彼女は戸を開けた。

熱風が吹き込む。

外からは、先ほどよりも近くで魔物の咆哮が聞こえた。


「おい、行くのか? 外はまだ……」


「問題ない」


彼女は振り返り、ニヤリと笑った。

初めて見せる、不敵で美しい笑みだった。


「今の私なら、ドラゴン如き素手でも引き裂ける気分だ。……貴様の飯のおかげだな」


彼女は熱風の中へと踏み出した。

銀色の髪がなびく。

その姿は、俺が今まで見たどんな人間よりも強そうで、そして輝いて見えた。


パタン、と戸が閉まる。


店内に静寂が戻る。

カウンターの上には、青白く輝くミスリル貨がポツンと残されていた。


「……マジかよ」


俺は震える手でそれを拾い上げた。

重い。

物理的な重さ以上に、意味が重い。


俺は、とんでもない常連客を作ってしまったのかもしれない。

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