第3話 剣とエプロン

「腹、減ってないか?」


俺の問いかけに、女の動きが止まった。

喉元に押し当てられていた刃の圧力が、わずかに弱まる。


青い瞳が、俺を凝視していた。

値踏みしている。

あるいは、俺が呪文の詠唱を始めないか見張っているのかもしれない。


「……はら、だと?」


掠れた声。

唇が乾燥してひび割れている。

そこから血が滲んでいた。


俺はゆっくりと、刺激しないように両手を高く上げた。

完全降伏のポーズだ。


「見ての通りだ。俺は武器を持ってない。あるのはこのエプロンと、後ろにある調理器具だけだ」


「……」


「ここは店だ。あんたが客なら歓迎する。強盗なら……まあ、金はないから諦めてくれ」


冗談めかして言ってみる。

女の眉がピクリと動いた。

殺気は消えていない。

だが、混乱の色が強くなっている。


無理もない。

ここは地獄の99階層だ。

エプロン姿の男が「いらっしゃいませ」なんて言っている状況は、悪夢以外の何物でもないだろう。


女の視線が、俺の顔から店内へと彷徨った。

白木のカウンター。

丸椅子。

壁にかかった空白のメニュー札。

そして、天井で回る魔導ファンの静かな駆動音。


「幻覚、魔法……?」


女がうわ言のように呟く。

足元がふらついた。

剣先が下がる。


チャンスだ。

バットで叩き落とすか?

いや、腐っても冒険者だ。

俺が殺気を見せれば、反射的に反撃されるリスクが高い。

それに、こんなボロボロの相手を殴り倒すのは寝覚めが悪い。


俺は賭けに出ることにした。


「幻覚じゃない。とりあえず座ってくれ。……水くらいなら出す」


「水……」


その単語に、女の瞳孔が反応した。

喉がごくりと鳴る音が、静かな店内に響く。


渇いているんだ。

出血も酷い。

人間、極限状態になれば食欲より先に渇きが来る。


俺はゆっくりと背を向けた。

背筋が粟立つ。

今、後ろから刺されれば即死だ。

心臓が早鐘を打つ。

「刺すなよ、絶対に刺すなよ」と念じながら、俺はカウンターの内側へ回り込んだ。


厨房に入る。

シンクの前に立つ。

蛇口を捻った。


ジャーッ。


勢いよく水が出る。

何の変哲もない、透明な水だ。

だが、その音が背後の女に与えた衝撃は大きかったらしい。

息を呑む気配がした。


俺はガラスのコップを取り出した。

製氷機(これも魔導式だ)から氷を二つ、カランと落とす。

そこに水を注ぐ。

コップの表面が瞬く間に白く曇り、水滴がつく。


キンキンに冷えている。


「ほら」


俺はカウンター越しに、コップを滑らせた。

氷とガラスが触れ合う、涼やかな音がした。


女は動かない。

コップを睨みつけている。

まるで、それが猛毒の入った瓶であるかのように。


「……毒など、効かんぞ」


強がりだ。

声が震えている。

体は正直に反応して、コップの方へ重心が傾いている。


「ただの水だ。毒なんて高級なもん、うちには置いてない」


俺は自分の分もコップに注ぎ、その場で煽ってみせた。

冷たさが食道を通り抜ける。

美味い。

緊張で乾いた喉に染み渡る。


「ぷはっ。……ん、どうした? 飲まないなら下げるぞ」


俺が手を伸ばそうとした瞬間、女の手が伸びた。

速い。

残像が見えるほどの速度で、コップをひったくる。


彼女はまだ疑っていた。

コップの中身を鼻に近づけ、匂いを嗅ぐ。

次に、指先を少しだけ浸して、舌に乗せる。


その瞬間。

女の目が、限界まで見開かれた。


「っ……!?」


疑念が消し飛ぶ。

彼女はコップに口をつけると、一気に煽った。


ゴク、ゴク、ゴクッ!


喉を鳴らして飲み干す。

氷が唇に当たるのも構わず、最後の一滴まで吸い尽くす。

勢いが凄すぎて、口の端から少し溢れるほどだ。


ガアンッ!


空になったコップが、乱暴にカウンターに置かれた。

割れなくてよかった。


「……もう一杯」


低い声。

だが、さっきまでの殺気はない。

あるのは純粋な渇望だ。


「はいよ」


俺はピッチャーを取り出し、トクトクと注ぐ。

今度は躊躇わなかった。

両手でコップを包み込み、大切な宝物でも扱うように口へ運ぶ。

一口ずつ、噛み締めるように飲む。


俺はその様子を観察した。


兜の隙間から見える肌は、泥と煤で汚れている。

だが、水を飲むその横顔は、神々しいほどに整っていた。

長い睫毛。

通った鼻筋。

血の気が戻り始めた唇。


相当な美人だ。

そして、間違いなく「上」の人間だ。

装備の質が違う。

ボロボロだが、鎧の素材はミスリルだろう。

剣の柄には魔石が埋め込まれている。


そんな手練れが、なんでこんな場所で死にかけていたんだ?


「ふぅ……」


女が息をついた。

二杯目も空だ。

彼女はコップを置くと、手の甲で口元を拭った。


そして、信じられないものを見る目で俺を見た。

いや、俺の手元のピッチャーを見ている。


「……冷たい」


独り言のように彼女が言った。


「濁りがない。臭みもない。魔力の淀みすらない……。貴様、これは何だ? どこの湧き水だ?」


「え? いや、ただの水道水だけど」


「スイドウ……?」


また通じない単語が出たらしい。

彼女は眉を寄せた。


「この深層で、これほどの純粋な『水』を生成するなど……。高位の精霊魔法か? それともアーティファクトか?」


ぶつぶつと言っている。

どうやら、この世界(あるいはこのダンジョン)では、綺麗な水というのは貴重品らしい。

俺にとっては蛇口を捻れば出るタダ同然の液体だが、彼女にとってはポーション以上の価値があるのかもしれない。


認識のズレを感じる。

だが、悪い方向じゃない。

少なくとも、今の彼女にとって俺は「得体の知れない敵」から「極上の水を出す何か」に昇格したようだ。


女は椅子に手をつき、ゆっくりと腰を下ろした。

重い鎧が軋む音がする。

緊張の糸が切れたのか、その場に崩れ落ちる寸前に見えた。


「……助かった」


消え入るような声だった。

彼女は俺を見ない。

空になったコップを見つめたまま、ぽつりと呟く。


「礼を言う。……美味かった」


素直な感想だった。

その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かがカチリとハマった気がした。


怖い。

怪しい。

面倒くさい。

それらの感情が、少しだけ後ろに下がる。


俺は料理人だ。

(といっても、本職は結界師だが)

自分の出したものを「美味い」と言って平らげた客を、無下に追い出すことはできない。


「水で満足するなよ」


俺はコップを下げながら、ニヤリと笑った。

自然と、営業スマイルが出る。


「うちは飯屋だ。水はただのサービス。……本番はこれからだろ?」


「……?」


女がきょとんとして顔を上げる。

その腹の虫が、タイミングよく盛大に鳴り響いた。


「グゥゥゥゥ……」


静寂な店内に、間の抜けた音が木霊する。

女の顔が、耳まで真っ赤に染まった。

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