第5話 揺らぐ忠誠
少女はカリュースの家のベッドに寝かされていた。
その部屋には、カリュースとリーディス以外の人はいない。カリュースとリーディスは、ベッドのそばの椅子に座って、じっと少女の様子を伺っていた。
少女が気がついたのは、カリュースたちが家に着いてから一時間ほどしてからだった。
少女はうっすらと目を開けると、見慣れぬ景色と人物を目にした。そして、ばっと体を起こし、この場から逃げ去ろうとした。
だが、彼女が体を起こすと同時に、彼女の体は何か目に見えない糸で引っ張られるかのように、ばたりと後ろに倒れ込んだ。
「まだ無理をしてはいけません。あなたは
リーディスは優しい声で言った。カリュースは、少女が目覚めたことに気がつくと、少女のいるベッドの端に腰をかけた。そして、少女の目を見ながら、
「どうして、俺を襲ったのだ?」
「……」
「名前は?」
「……」
カリュースはふうっと
「俺は君に殺されかけたんだ。名前ぐらい教えてくれてもいいのじゃないかな?」
「……フィーメル」
「フィーメル? それが君の名前?」
「……そうだ」
「なぜ俺を襲った?」
「お前が上級騎士だからだ……」
少女は
「皇帝は兄さんを裏切り、ジェドラは兄さんを殺した!
だから、私は帝国の軍人はみんな嫌いだ!」
カリュースはフィーメルの言葉に息をのんだ。そして、リーディスと目を見合わせた。
リーディスは、カリュースの言わんとすることを察知すると、こくりとうなずいた。
「君が、ジェドラを殺したのだね? しかし、ジェドラといっても帝国の軍人。君のような女の子に、そう簡単にやられるとは思えないが」
「私は、兄さんの元で
あんな奴を殺すことなど簡単だ!」
フィーメルはそう言い切った。
(やはりそうか……)
カリュースは、フィーメルに最後の問いをした。
「君のお兄さんの名前は?」
「ロウス。兄さんはファランの将軍だったんだ。宮廷の汚い
皇帝が──いや、ラフューン大宰相が言ったんだ。
ファランの内情を全て話すのであれば、帝国への亡命を許可しよう、って。
それなのに、奴等は兄さんを裏切った!
兄さんは、民衆の目の前で
私は帝国も、皇帝も、お前も許さない!
きっと、皇帝を暗殺してこの国を滅ぼしやる!」
フィーメルはそう叫ぶと、ばっとベッドの上に立ち上がり、開け放たれていた窓から飛び降りた。カリュースはすぐに窓から顔を覗かせたが、もはやフィーメルの姿はラウェルの闇に溶け込み、追っても追いつくことはかなわなかった。
「カリュース様」
リーディスは、少し深刻な顔つきで言った。カリュースは心配そうな表情で窓を閉めると、ベッドに腰をかけ、リーディスと向かい合った。
「この話、真実であれば、
「ああ」
「これは、我々の胸の内にとどめておく方が賢明かと」
「いや、俺は明日大将軍にことの真偽を
「カリュース様!」
「リーディス。もし本当のことだとしたら、どちらに正義がある?」
「それはそうです。ですが……」
「お前は、正義と自分の身の安全、どちらが大切だ?」
「カリュース様をお守りすることが私の生涯の努め。
カリュース様に従うのが、私の意思でございます」
「じゃあ分かってくれ。すまない、リーディス」
「いえ……ですが、これだけは申し上げておきます。決して、グリブロー大将軍以外には口外せぬよう。
万一別の人物の耳に入ったならば、事態はよからぬ方向へと向かうことでしょう」
「分かった」
「では、もうお休み下さいませ」
リーディスは軽く頭を下げ、ゆっくりと部屋から出ていった。
カリュースは、そのままベッドに寝転がり、今夜の出来事を頭の中で
翌朝、カリュースはすぐに帝国城へと向かった。
(もし昨夜のことが真実であれば、俺はどうすべきだろうか。俺は、今までと同じように皇帝陛下に対して忠誠を誓えるだろうか?
いや、誓えるはずだ。あの獅子王のような陛下であれば、きっと深い訳があるのだろう。
きっと……)
カリュースは、内心心苦しかった。カリュースの目にした皇帝は、既に十年以上も前のものであり、それ以降、彼は一度も皇帝の姿を目にしていないのであった。
彼がその時見た皇帝の姿は、若き偉大な獅子のような、
だが、彼が実際に騎士となって、帝国軍人として仕えはじめてから耳にするのは、皇帝の
彼の頭の中の皇帝と、実際に耳にする皇帝との差が激しいため、フィーメルの言葉が真実だったとすれば、やはり同じ忠誠を皇帝に誓えるかどうかは、カリュース自身も怪しいと思っていた。
カリュースは、グリブローの部屋の前に着くと、辺りをちらちらと見回した。そして軽く扉をノックし、返事が返ってくるとすぐに、部屋の中に入った。
グリブローは大将軍専用の大きなテーブルに肘をつき、カリュースを見上げるように見ていた。
「どうした、突然」
「大将軍に少しお
「伺いたいこと?」
グリブローは
「はい。先日広場で処刑されたロウス将軍が、本当は帝国に亡命してきた将軍であったということです。これは本当なのですか?」
カリュースの問いに、グリブローの表情は一変した。
「……何」
「皇帝陛下は、本当にロウス将軍との約束を破り、彼をあのような
グリブローの額には、脂汗がにじみでていた。カリュースは口調を強めていった。
「真実はどうなのですか、大将軍」
「……皇帝陛下には、深いお考えがあるのだ……我々が口出しすべきことではない……」
カリュースの表情は、一気に
「馬鹿な! 陛下はロウス将軍を受け入れる、そういう約束でファランの内情を聞いたのではありませんか!
それなのに、情報だけ受け取ったら、あとは跡が残らないように、利用するだけ利用してゴミのように捨ててしまうのが、皇帝陛下の深いお考えと言われるのですか!」
グリブローは、眼前の若い騎士の言葉をじっと耐えて聞いていた。
「俺は、皇帝陛下を信用したい。ですが、このようなことが続けば、いや、既に今まで聞いてきた話が全て真実だったとすれば、もはや皇帝陛下は信用できるとは思えません。
陛下は、イプソス草原大戦の時でも、あるいは今回のファランとの戦争の時でも、戦死した兵達に、
かつてのように、陛下御身自らが出向いて、軍の指揮をなさったことがありますか!
陛下はいつも自分の宮殿に閉じこもり、安全なところにいて自分が思うままの生活を送っている。大将軍には、それが陛下の深いお考えだと思われるのですか!」
「……」
「このままでは、帝国は滅亡の一途をたどるでしょう。大将軍は、どうして行動なさらないのです!」
カリュースは、少し
彼には、カリュースの言うことが真実であると分かっていた。だが、分かってはいても、カリュースの言うように行動はできなかった。
何故ならば、皇帝に直接進言できるのは大宰相ラフューンだけであり、ただの一武官であるグリブローには、どうしても皇帝に直接進言することはできないのであった。
彼らは、しばらくお互いを見つめあったまま沈黙していた。彼らの間を張りつめた空気が漂う。
そんな彼らの雰囲気を打ち崩したのは、予想外の人物であった。
「今の言葉、皇帝陛下に対する反逆の意思があるとみても、よいのではないかな」
「!!」
「ラ、ラフューン大宰相閣下!」
グリブローは椅子から立ち上がると、すぐさまラフューンに対して平伏した。
ラフューンは鋭い眼光をカリュースに向け、低い声で言った。
「お前の名は何という」
ラフューンはそう訊ねた。彼自身は、目の前に立っている若い騎士がカリュースであるということは知っていた。
カリュースが『
だが、あえてその様な問いをしたのである。カリュースは、ラフューンの問いに答えなかった。答えたのは、床に平伏しているグリブローである。
「カリュース=アスベイル中騎将であります、大宰相閣下」
「お前は何故答えぬ!」
グリブローはカリュースにそう怒鳴りつけた。その声は厳しく、威圧的である。だが、カリュースはじっとおし黙ったまま、ラフューンの言葉に一切答えなかった。
「そうか、その沈黙は陛下に対する反逆の意思がある、そう言っておるのだな」
「大宰相閣下! どうかこのことは、わたくしに免じて、陛下のお耳には……」
ラフューンは、カリュースをじっと
「ふん、今回はグリブローに免じて聞かなかったことにするが、次はないと思え!」
ラフューンは体を返すと、きつい足音を立てながら大将軍室を後にした。ラフューンは大将軍室の扉を閉めると、その場に立ち止まった。その顔には何か陰謀を秘めた表情が浮かんでいた。
(二十代で上級騎士となり、現在では中騎将……
このままあの男に力を与えれば、必ずや帝国に乱を起こすであろう……
陛下の御身の為にも、あの男をどうにかせねば……)
ラフューンは、陰々と響く足音をたてながら歩き出した。その後ろ姿には、闇神ウォルが
一方、大将軍室に残った二人は、黙ってお互いを見ていた。グリブローは冷たい汗を背中一面にかいていた。
「どうして答えなかったのだ、カリュース。あれでは、陛下に対して反逆の意思がある、そうとられてもおかしくはないぞ」
「俺は、答える必要がないと思ったから答えなかった。
それに、陛下に対して反逆の意思などない。
意思のない者に、どうして反逆などできようか!」
カリュースはそう言い放つと、
そんなカリュースの後ろ姿を、グリブローは不安げな顔つきで見つめていた。
太陽が次第に天に昇り、大将軍室に明るい日差しがさし込む。そんな日差しに照らされたグリブローは、まぶしそうに目を細め、カーテンを閉めようと窓に近づいた。
窓からは帝国城の中庭が見おろせた。そこを通るカリュースの姿もまた、見ることができた。
グリブローは立ち去るカリュースの姿を見つめながら、何かよからぬことが起きるのではないか──そう無意識に感じとっていた。
古き権威と若き息吹。
受け入れあうことのない二つの力は、ほんのささいなことで、違う方向へと向かい始めた。
それは、大陸全土を揺るがす大波を誘う、小さな呼び水であった。
真実は伏せられたまま、物語だけが静かに先へ進んでいく。
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