サブトルQ ーSubtle Quirksー

馬村堂 白雄

第一話 スイートホーム

悪夢

母の絵をプレゼントしようと画用紙にクレヨンで絵を描いていた。肌色で大きな円を描き、黒で目や鼻を描き茶色で沢山の線を引いて髪の毛を描いた。ピンクで口を描いたが色が薄く感じて赤を上から重ねた。


母は鮮やかな赤い口紅を好まなかった。幼い頃、それが不思議で濃くて鮮やかな真っ赤な口紅を使わないのかと聞いた事がある。女性の顔を彩るには派手な方が良いと思っていたからだ。


「派手な色は好きだけど、好きな色が自分の顔に似合うというわけではないのよ」


母の答えが強烈な記憶として残っている。医師と付き合ってただけに美女で何でも似合うと思っていた母の口から好き嫌いと合う合わないは別の判断基準ということを言われたのは幼い私には衝撃だったのだろう。


夢中で絵を描いている私はふと顔を上げた。


母がキッチンのテーブルに片肘をつき椅子に座って無表情で私を見ている。


周囲の気温が下がり血の気が引く感じがした。


母が私の目を見つめたままゆっくり立ち上がった。


眼前に広がった画用紙の豊かな色彩と打って変わって景色から彩度が失われモノトーンの世界に変わっていく。


「加奈子はなぜ私の化粧品で絵を描くの?」


母の言葉にギョッとして手にしたクレヨンを見ると、それは母の口紅だった。

さっきまでクレヨンが散らばっていたはずの場所には母の化粧箱がひっくり返っており、ファンデーションやマスカラのボトルが転がっていた。


近付いてくる母に慌てて説明しようとしたが口の中がカラカラで声が出ない。ただ息を荒くして目を見張り首を横に振って慄くばかりだった。


「本当にあいつにそっくり。半分は私の血が入っているはずなのに……加奈子はどうして私が嫌がることばかりするの?」


目の前に立った母がそう言った瞬間、周囲は暗闇に変わり深く落下していく感じがした。闇は私を中心に捻じれて絡みついてきた。とても息苦しい。


漆黒の濁流の中で溺れもがく私に何度も聞いた母の罵詈雑言が嵐のように襲いかかってくる。闇に飲まれて手も足もどこにあるかわからなくなる。


呪いの言葉が渦巻く暗黒に意識だけが落下していく感覚の中で悪夢は終わった。


まだ暗い中で布団を跳ね除け上半身を起こした。心臓の鼓動を全身で感じる。汗だくのパジャマが急激に身体を冷やしていく感覚がある。腕や脚、特に肘や膝が熱く燃えるようだ。身体が震えている。肩で息をしている事に気が付いたが、しばらくは呼吸を整える事は無理だろうと悟った。


子供の頃から何度となく繰り返し見続けた悪夢。実際に母の化粧品で絵を描いて叱られたことはないと思うが、今となってはどちらでもいい。


この夢を見るたびに母のことや自分のことについて改めて見つめなおすことになる。


母は看護婦で当時付き合っていた医師との間に身籠った。

しかし、妊娠したことで結婚とはならず、堕胎を勧められて怒った母と父は破局した。

母は意地で私を産み、一人で私を育てたが、少なくとも記憶にある限り私に憎しみ以外の感情を見せたことはない。


父とは幼いころに何度か会ったはずだが、こちらも記憶にはないまま会うことがなくなった。母は毎年、父にだけ年賀状と暑中見舞いに私の写真を印刷したものを送っていた。


幼い頃は私の成長した姿を見せてやりたいという想いからだと理解していたが、年頃になった頃にはそれが母の陰険な嫌がらせなのだと気付いた。


小学生高学年からは食事も洗濯も自分のための家事一切を自分でやる事を命令されてその通りにやってきた。母が夜勤の時は音を立てなければ顔を合わせずに済むのが数少ない安らぎの時間だった。


そんな母に対して、せめて学業で成果を上げれば喜ぶだろうと高校受験で頑張って進学校に入学した時も無関心だったし、大学入試では有名国公立大学が確実という判定をもらった事を胸を張って伝えた時は、むしろ不機嫌になった。


「あんたの学費も生活費もあいつが出すんだから、遠方のもっと学費の高い私立大学に行きなさい。そしてその時から私とあんたは他人よ。二度と私の前に現れないでくれる」


そして私立渡叶≪とかない≫大学校に入学が決まり、引っ越す際に聞いた母の言葉。それが私の生涯において母の最後の記憶になるのだろう。


「せいせいした」


悪夢と共に思い出すその言葉。思い出すたびに私のこれまでの人生と母の私を産んでからの時間に何の意味があったのだろうと考えてしまう。母は父を呪うために私を産み、母自身もまた私によって呪われたのだろう。では私は。そんな私は一体なんなのだろう。テレビで見るような幸せな家庭を絵空事のようにしか思えない私は。憎しみ合うために生み出された私は。


これからの人生をどんな希望を持って生きて行けばいいのだろうか。


独りで暮らすようになっても悪夢は続き、何度となく苦しんできた。


呼吸が整ってきて苦痛に顔を歪めていた事に気が付いた。


周囲の様子が視界に入ってくると部屋は暗いが夜明けが近づいているらしくカーテンの端が薄っすら青く光って見える。


暗闇に目が慣れてくると部屋の様子も少しわかってきた。


隣に惺≪さとる≫の寝顔が薄っすらと見えた。悪い夢など一度も見たことが無いような寝顔が私の尖った心をそっと撫でて棘を少し柔らかくしてくれた。そんな気がした。


私の唯一の希望。


大学の一つ上の先輩で私の所属する渡叶大学記者クラブというサークルを立ち上げた部長であり、女子の間では影で変人呼ばわりされている男、狛飼≪こまかい≫惺


特別イケメンという訳でもなく、さりとて不細工でもない。ごく普通の大学生に見えるが、無口で友達は極端に少なく、服装は凡庸だ。風変わりというか変人と影で噂される理由はいつも洒落てる訳でもない陶器のペンダントを下げていて足はゴム草履履きという所、そして極めつけなのは鞄を持たずにいつも教科書やノートをスーパーの紙袋やビニール袋に入れて持ち歩いている所。

そんな様子から女子の間で変人と陰口を叩かれている。


入学当初まだ面識のない頃からビニール袋を持って草履履きで歩き回る惺は悪い意味で目についていた。しかしそれが自分の入るサークルの部長でしかも後に恋人になるなんて当時は夢にも思わなかった。


恋人と言っても付き合って数か月、同棲して1か月、毎日横で寝ているのに未だにキスすらしたことがないのも惺の変人っぷりを証明しているかもしれない。


そして惺には見た目以上の変な癖がある。人と話している最中だろうが何かしている途中だろうが突然フリーズしたように動きがピタリと止まるのだ。本人は考え事をしていたり何かを想像しているのだと言っているが、その間は人の話を全く聞いていないどころか周りで起きていることにも気付いていない。突然現実からログアウトしたように宙を見つめたままピクリとも動かず空想の世界に入り浸ってしまうのだ。


私はその様子からハビタット世界に行っちゃっているとし、ハビタっていると呼んでいる。


私が心臓が爆発するような思いで人生初の告白をした時も惺はハビタっていて何も聞いていなかった。ショックで泣いている私に気付いたサークルのメンバーで惺の唯一の親友である芸術学部の今宇島≪こんうじま≫先輩が惺をさんざん叱ってくれたお陰で私の恋はなんとか成就した。そしてそれ以降、惺はハビタっている事を指摘されると申し訳なさそうにするようになった。


とは言えハビタつ頻度が減った訳ではない。相も変わらず話している途中で頻繁にハビタっている。


そしてハビタった後は時々、胸にぶら下げた陶器のペンダントを握って幽かに聞こえるほどの声で変な音を出す。それは一体何なのかと聞いたらおまじないのようなものだと言う。


何と言っているのかと聞くと日本語では言いにくいという。


私にはブラスコと聞こえるが、彼が言うには、ブの口の動きはウと言うように口を閉じずに発音するが喉から音を出すので音としてはヴに近い。ラは発音記号のæに近い。スはフと発音する口で舌を丸めて息を吐いて口笛の様に言う。コは舌を上顎に付けて息を吐く音で言う……などと細かい発声方法があるらしい。


そんな発音で遥か遠くからバッグパイプの音が幽かに聞こえるかなと感じる位の声量でブーラスコーという音を出すのだ。


惺に頼まれてブラスコと唱える時に握る陶器のペンダントを作ってやったという今宇島先輩にブラスコについて聞いた事があるが先輩の返事も要領を得ないものだった。その時聞いた内容から察するに空想がちな惺にはブラスコという心の友。俗にいうイマジナリーフレンドがいてそれを呼び出す合図なんだろうと理解している。私にも幼い頃はそんな存在がいたから理解できる。


そんな事を改めて思い返しても惺は変人極まりない男で、私と同じゼミの友達も付き合い出した頃からやめた方が良いと言っていたし、自分でも時々惺の事を同じ人間に思えない時があって付き合っている自分自身に対して奇妙だと感じる時がある。初カレでなければきっともう隣にはいなかっただろうというのは友達も言っているし自分でもそうだろうと思っている。


しかし、私が彼を好きになった理由は明白だ。


惺はとても優しいし抜群に料理が上手いのだ。


記者クラブで話をしていてお互い父がおらず母が忙しいこともあり子供の頃から料理をしているという共通点がわかり、その場のノリで一緒に料理をして飲み会を開こうと言う流れになったのだが、総菜や冷凍食品を並べて料理としていた私の省エネ料理と違い、惺の料理は全て本格的だった。


スーパーでレンジでチンするだけの食材や揚げるだけの冷凍食品を買い込んで惺の家に着いた時、惺は大きな鍋で鶏ガラの出汁を取っていた。その時点で完全に異次元に足を踏み入れたと思っていたが、その後もキッチンは理解できる世界の向こう側といった感じで私はひたすら呆気にとられていたのだった。


どうして同じ小学生の頃から料理をしていてこんなに違うのか。そう質問した時、彼は言った。


「僕のお母さんは雑誌の記者で帰りも遅くて滅多に顔を合わせる事もなかったんだ。昼はおばあちゃんが来て僕の晩御飯まで用意してくれてたんだけど、お母さんは晩御飯も外で食べているみたいだから僕がお母さんの晩御飯を作っておこうと思って料理を始めたんだよ。最初はおばあちゃんに習いながらだけどね。時々手紙でおいしかったって伝えてくれるのがうれしくて買い物も料理も自分でやるようになったらなんでも一人で出来るほど慣れちゃったんだね」


私はその言葉を聞いた瞬間、涙が溢れ出し泣き崩れるという文字通り床にうずくまってむせび泣いた。惺はそんな私にすっかり困ってしまい、どこか具合が悪いのかとか救急車を呼ぼうかと狼狽えていた。


私と似た母一人子一人の境遇でありながらまるで真逆な親子の情に打ちのめされた。惺の母への健気な愛が冷え切った家庭で育った私の胸を深く抉った。考えても仕方のない事だが私が惺の様な優しさを持っていたら母は私を愛してくれただろうか。


その日の飲み会は私が泣きながら惺の料理を食べるので変な空気になってしまったのは思い出したくないほど恥ずかしい。


サークルのメンバーは惺と私で料理のレベルが違い過ぎてプライドが傷付いたのだと理解したみたいだった。その証拠にサークル内で料理の話が避けられるようになっているのを感じている。


でもあの時は惺の料理の一つ一つがおいしければおいしいほど涙があふれたのだ。そう思われても仕方ないかもしれない。


そして涙が乾いた時、惺と一緒なら私にも幸せな家庭が作れるのではないかという幽かな希望が生まれたのだ。それからは惺の数々の変な癖もあまり気にならなくなって好意的に見れるようになり、色々あった上で付き合う事になった。


そして毎日惺の家へ食事に通っていたが、面倒くさくなって住み着いてしまい今に至る。


横で寝息を立てる惺の寝顔を見ながら、胸の内でいまや私が冷たい家庭の住人ではないと反芻する事で心を落ちつかせていくのが最近の悪夢への対処法だ。


惺を眺めていると好きな色と似合う色がイコールではないと言う母の言葉が思い出される。好みかと言われれば見た目はそこまででも無いのだが私にはこの人しかいないと思える男性。今一緒にいられる時間を永遠に繋げていきたい。心からそう思うしソレが私の荒んだ心を包みこむ唯一の癒しなのだ。


気が付けば端だけ明るかったカーテンが全体で淡く青い光に包まれ部屋の家具がある程度認識できるくらい明るくなってきた。


忌々しい記憶から現在に近づいて落ち着きを取り戻し、惺の平和な寝顔を眺めていると私の気配に気付いたのかモゾモゾと動いた後で薄っすらと目を開き私を確認して起きてたの?と聞いてきた。


「うん。ちょっと前に目が覚めた。珈琲淹れる?」


「ううん、今日は講義が午後からだからいらない」


目を擦りながら返事をして再び布団に潜る惺を横に私はベッドから出て一人分の珈琲を用意し始めた。

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