そんなにわたしはダメですか

田島絵里子

第1話

 小説へのストラグル~そんなにわたしはダメですか~


1:苦闘の過去、自力の遠さ


 真っ白な原稿用紙を見てこう考えました。

 どれほど努力しようと、よしもとばななや群ようこにはなれやしない。

 よしんば岸本葉子だって無理だよね。

 そもそも、なんでBlog書いてるの?


 日記なんて公開するもんじゃないよ、恥ずかしいからやめときなよ。


 もうひとりのわたしが反論します。

 だって、書くこと自体が好きなんだもん。

 楽しいんだから、書いてもいいじゃん?

 うまくいけば小説家にだって、なれるかも!


 小説ねえ(あきれる自分)。

 そのまえに、エッセイすら書けてないじゃん。

 まともなBlogも書けてないのに、小説が書けますかっての。


 それで思い出します。

 もともとBlogをはじめたきっかけは、1995年(ネット黎明期)にネットを開設した夫が、作品をUPしてみたらどうかと誘ってくれたことでした。


 そこでネットにUPした小説は、『みんなでRUN AWAY』ってタイトルで、主人公はイカれた科学者に振りまわされるごくふつーのサラリーマン。


 そこへ宇宙船『ぽんぽこにゃんにゃか』から借金取り立てで追われてきた宇宙プリンセス『サクンタラ』が絡んでくると言う、SFコメディでした(なぜか『朝日新聞』の【みんなで新聞】ってリンクに誘われ参加しましたが、出版には漕ぎ着けませんでした)。


 このコメディには、当時の昼のワイドショーのアナウンサーをコケにした部分もあって、それがたぶん、一部のメディアの人の目を惹いたのかもしれません。


 それはともかく。

 わたしは自分が認められたことが嬉しかったので、小説を書こうと思い立ちました。

 しかーし!

 認められたのは、単に『当時としてはアイデアが面白かった』からで、文章が面白かったからではない、ということが、徐々に判明してきました。


 なぜわかったか。

 Blogを書いたからです。

 もし、「本物」だと認めてもらえていたならば、どんなことをしても相手からお呼びがかかったはず。


 そうはならなかった。

 そりゃそうだ。

 当時のBlogは、こんな感じでした。

「今日はスーパーでお買い得品を買ってきた。楽しかった」

 小学生かいっ!


 それでも、いちど味わった成功体験って、なかなか脱却できないものです。

 めげずにその後、(持病の再発を除くと通算)四〇年は、Blogを続けています。

 ネバーギブアップの精神でした。


 コメントもほとんどつかないし、アクセスもほとんどない。

 まわりは『アルファブロガー』でどんどんカネを稼ぐ。

 ちなみにアルファブロガーとは、お役立ち商品をBlogで紹介して、手数料で儲ける人たちのことです。その人たちはそれで生計を立てましたが、わたしは、なんとか、末端でもいいから、文章で食っていきたかった。


 だけど、芸能人とか有名人のエッセイならともかく、ふつーのことをふつーに書いたって、売れるわけない。「玉磨かざれば光なし」。

 ならば。

 ふつーでも磨けば、面白い話は書けるはず! だって一度は認められたじゃないの!


 どうすりゃ面白くなるのか。

 文章HOWーTO本を読みました。


「文章を書き写せ」


 基本が書いてありました。

 わたしは考えに沈みました。

 文章を書き写すとしたら、なにからはじめよう。

 いままで読んできた本からでしょう。


 わたしの今まで影響を受けた文章って、どんなものがあったっけ?

 真っ先に思い浮かぶのが翻訳版(SF・ファンタジー)。

 翻訳本って、知ってる人も多いと思うけど、めちゃくちゃわかりづらい。


 あんな悪文、書き写したら恥ずかしくない?


 まあ、それが芸になる人もいるけど。

 「要するに何が言いたいの」って思うこと、時々ありましたからね……。

 それを書き写すのは、かなーり勇気が要ります。

 待てよ。明治時代の文豪なら、評価も安定している。

 試してみる?

 

 うちの実母が、夏目漱石の名文の冒頭をよく暗唱していました。


山路やまみちを歩きながらこう考えた。

 智に働けば角が立つ

 情に竿させば流される

 意地を通せば窮屈だ

 とかくにこの世は住みにくい」


 ご冗談を。

 しかつめらしい顔して、「ジャジャジャジャーン」とピアノぶっ叩きそうな名文ですが、それを書き写したからって自分も名文を書けるとは思えない。


 じゃあどうする。

 もっと身近な、宮部みゆきセンセの文章を書き写そう。


 ということで、『荒神』の書き写し、やってみました。

 冒頭三行で、すでに「アナリスト」ではなく、「読み手」になってました。冒頭の少年の恐怖描写が、じつにリアル。


 三頁書き写しました。いくらなぞっても、「リズム、構成、言葉の重さ」が感じられない。読み手としては面白いけど、作者の魂がそこに宿ってるとは、ちょっと感じられなかった。


(それに、作品としては『ソロモンの偽証』の方が好み)。


たしかに冒頭は面白かったけど、最後まで書き写すには長すぎた。根気がなさすぎた。わたしには、ものの本質は判っても、持続力がなかった。

 どうやら作家の技術を手作業で学ぶなどという芸当は、できないみたい。


 単に文字をなぞるだけでは、「思考の痕跡」は身体化されない。そんな現実問題が立ちはだかってきたのです。

 

 夫がお金を出してくれるというので、東京の文芸通信講座に通うことにしました。

 担当の先生は、「構成力がない」というご指摘をしてくださいました。


 原稿を提出し、通信教育で文章を添削してくださったのはありがたかったですが、それが身になった気持にはなりませんでした。


 添削ではなく、「その文章を添削する意図はなになのか」がわからなかった。

「ここはこうしましょう」と朱い字で書かれてるんですが、どうしてそういう指摘になるのか、そのあたりがわからない。


「事実をちゃんと確認して書かない悪い癖がある」というご指摘も。

 そして、具体的に絵も描いてくださいました。それはわかったんですが、そこに込められた作者(わたし)の意図については、こういう解釈ですか、ということがなにも書かれていない。 


 わたしはこれでも、それなりに実績はあるんですからね(なにげにプライド)

 生徒からの質問票もついていたんですが、初歩的な質問みたいで気が引けました。


 たとえば、『プレバト!!』夏井いつき先生は、原稿に朱を入れるときに、作者の意図を確認して朱を入れるわけですが、そうじゃなかったわけです。

 人にものを教えるのって、難しいですよね。とくに通信教育の場合。


 顔を見て言うのなら、質問もできます。東京に住んでいたのなら、もっとあの先生に、ぶつかっていけたかも。

 「文章を楽しんで書いている」というご感想を先生からいただきました。

 楽しんで書けるのは、ひとつの才能なのかもしれません。

  

 東京の文芸学校での体験は、三〇万円もかかりましたが、貴重な体験となりました。


 文学について、夜を徹して話し合った人もいました。生まれて初めての体験でした。文章を書くことがやめられない、というその人は、起きている間はずっと創作のことばかり考えているそうです。


 オフ会では、喫茶店で同じカレーを食べながら、先生を独り占めする人もいました。あの時、他人を押しのけても自分の作品を売り出すというそのパワーに圧倒されたことを、ありありと思い出します。それくらいでなければ、生き馬の目を抜くこの業界ではやっていけないのだと実感されました。


 だけど、そうやってゴリ押しした人の文章を見てみると、そこにはまったくと言ってもいいほどの、文芸臭がありませんでした。むしろSFでしたね。間違って受講していたのかもしれません。才能はあると思いました。描写もすごかった。だからどうしたってかんじだけど(滝汗)。


 こういった文芸学校での努力は報われず、わたしはBlogを続けて行きました。なにしろ日々の体験は誰にも否定されない、純粋な自力の文章。完成度も問われない。


 そこに愛着が生まれるのは当然でしたが、それはあくまで「感情の吐露」でしかなく、エッセイや小説に必要な「論理構成」「プロット」といった構造的な技術を鍛えるものではなかったのです。


 この体験で、あらたな問題が持ち上がってきました。

「構造的な技術」を自力でどう表現するか、という問題。

 他力を借りても、書き写しで自力に挑んでも、日記で感情を吐露しても、わたしは「構造を構築する能力」を得られませんでした。

 そこで登場するのが、全く新しい道具でした。




 2:他力への転落と愛着の解体


 ある日、元IT技術者の夫がこんなことを言い出しました。

「ぼくらには従量制の純日本製生成AIツヅミが使えるんだけど、使ってみる?」


 ツヅミ?


 そんなものがあるとは初耳でしたが、面白そうなので使ってみました。

 ツヅミは生成AIです。NTTが作ってるマイナーな日本語専門生成AI。最近、医療・教育現場用にパート2が出たそうですが、この二〇二五年当時はまだパート1しかなかった。


 生成AIに関する動画は既に山ほど出ていたので、無料でそれを視聴して応用することに。

 実際に、自分の書いた美容院観察日記をツヅミに「向田邦子風に」リライトして書かせたら、なんとまあ、自分じゃないみたいなプロの仕上がり。


 今は亡き向田さんもまっさおになること請け合いです。

 たとえば、わたしが何気なく美容院のことを書くと、向田邦子さん風には、それはそれは細かい中にも文芸的な匂いのするエッセイになる。日記ではなくなる。

 いってみれば、ただのシロウトの木工品が、職人技で修正されて金賞に輝く、みたいな。


 自分には出来ないことが、生成AIには出来る。

 純粋に、驚きましたし感動もしました。


 わたしには芸術は難しいし、だいたい芸術ってよほどの人じゃないと買ってくれないからなあ。現実は厳しい。

 そこで、このツヅミを巫女さんに設定して、こいつといっしょに異世界を冒険するラノベを書こうか、とまで考えてしまいました。


 キーワードをいくつか考えます。

 異世界とか無双とかあやかしとか巫女(ツヅミ)さんとかアレコレ。

 書いてくれるかなとワクワクして待ってました。



 ……出来ませんでした。


 なんと出来るのは8,000字程度。

 十万字書ける仕様じゃなかったんです(それに従量制だったから、あまり挑戦できなかった。うちはビンボーです)。




 あと、もう一つ。

 8,000字のラノベを見て、かなり、違和感を覚えたのです。


たしかにラクにお話が出来る。それらしく面白くもある。だけど、なんだか物足りない。オチがイマイチというか、意外性がないっていうか。


 ツヅミにかぎらず生成AIは、わたしの言葉で書いてない。わたしらしさがまるでない。

 わたしのリズムで書かれてない。たしかにリズムは均一で、そこそこいいものが書けてるけれど、説得力のある感情があまりなく、なんというか、プレスされた量産品のポテトチップス的な無機質さがある。


 なにより愛着が湧かない。過去のエッセイや小説には、言葉をフィットさせるために、自分の脳内衣装ダンスを物色した記憶があるけれど、AI作品には「苦闘の歴史」という実感がない。もみじ饅頭が量産化されていく様子を店頭で見てる感覚(広島人なのです)。


もみじ饅頭も、量産化されるまでにかなりモメました。職人技だった饅頭を機械にさせるなという声もあったそうですが、なんとなくそれに近い感覚がある。


 もみじ饅頭が、どの店で売られようと同じ味なのと同じように、そのうちラノベもイラストも、どこの出版社でも同じ味付けになっていくかもしれないな、とふと考えたのです。


 売れなければ、生き残っていけません。だれも「個性」なんて求めてない。その場をなんとか乗り切ってくれたらそれでいい。


 それに気付いたとき、生成AIの存在する意味を考えてしまいました。

 いま、なぜ、わたしは小説を、しかもよりによってラノベを書きたいのか?


 過去にわたしは、文章を書けたらなんでもいい、と純文学を学びに東京の通信教育を受けました。

 それがダメだったので、コロナ禍のもと、児童文学を学ぶためにZoom講座も受けました。


 このZoom講座は数人の生徒たちがメールで児童文学協会に原稿を出し、先生の監修のもと、お互いに感想を言い合う、というものでした。わたしは「発想が平凡でありきたり」という先生のご感想をいただきました。


 悔しかったので、自分のオリジナルとはなにか、を考えたんですが、「つまらない」というみなさんのご感想でした。しょうがない、わたし自身もあまり面白いとは思わなかった。


 協会主催のZoom講座でした。今でも連絡を取ってる人はいますが、彼女は町内会の役員になり、児童文学どころではなくなりました。他の方とは連絡が取れません。

 

 最後のチャンスとばかりに、広島で募集していた純文学の講座にも参加したのですが、あることがきっかけで病を得、復帰に二ヶ月以上かかってしまって、もうそこで、講座を受けることをあきらめました。


 通学に片道一時間かかることもありますし、昼一二時を超えるとなると、主婦の仕事が押してくる(汗) 作家は身体が資本だと言いますが、ほんとそうですね。


 そんな中で現れた、文章をラクに作ってくれる生成AI。

 誘惑がなかった、と言ったら嘘になります。キーワード(プロンプト)さえ書けば、評価の安定している文体で、質の良い文章を書いてくれる。サクサクやりたいことをやってくれる。これさえあれば、と思わないわけがない。


 だけど……。

 もし、これに完全に頼ってしまったら、過去に悪戦苦闘した自分を否定することになるのでは?


 つまり、「創作者としての自分へのこだわり」がなくなってしまうのでは?

自分が小説を自力で書きたいと言ってるのに、生成AIを借りるのは自己矛盾ではないか?


 元IT技術者としては、こだわりなんて『古い価値観』なのかもしれません。

 もみじ饅頭の職人が、饅頭の作り方にこだわったように、たかがラノベの作り方ぐらいで目くじら立ててる。それはなぜなのか。


 

 自分の限界を、認めたくないからなのでは。


 日記やエッセイ(感情ベース)は書けても、プロット(論理ベース)が書けないのは、論理的な思考がそもそも欠けているから。(ということは、もともとIT技術者には向いてなかったってことだけど)。



 現実を直視しましょう。

 わたしは自分の経験したことを、順を追って話すことは出来るけれど、演出力はまるでないし、しばしば脱線する。だからPLOTを書いてもらって、現在だってGeminiの提案した構成案に沿って、自分の経験や思いを語っている。


 Geminiの支援がなければ、わたしの作品は、ただの雑文でしかありません。読むに堪えない。

 生成AIにPLOTを書いてもらい、あとはぜんぶ自分で書く。それなら自分でも出来る。

 それは、どういうことだろう。


 劣等感と自己嫌悪に陥りました。「訓練が足りないんだよ」って人は言うんですが、どれだけ人の書き写しをしたか、知らないから言えるんです。

 書くこと自体の意味が、わからなくなった。能力の限界を乗り越えたい、だけど出来ない。生成AIをやると愛着が湧かなくなる。


 生成AIなんて、ただの道具だと思いたい。いくらオリンピックの人が速くとも、新幹線には負ける。それと同じ、と割り切れば良いと思うんです。

 割り切れる人は割り切れるんです。でも神社が巫女さんプロフィールを生成AI作成したら炎上したこともある。


 わたしが生成AIでPLOT書きや編集をしてもらったのを中国新聞新人短編賞に投稿しようとしたら、「応募要項に充たしてない」という理由でキョヒられちゃったこともある。肝心なのは、なんだろう? 


 人がどう思おうと、わたしは自分の納得できる作品を作りたい。そのための道具として、生成AIを使いたい。

 でも、納得できるものが、そもそも作れるのかという問題もある。


 チャッピーなんかは言うんです。

「ラノベ編集者として言うけれど、あなたは一つのシーンに情報を盛りすぎ」

 ところが、わたしは情報の多い世界で育ってきたんです。情報量の程度がアメリカン・コーヒーじゃなくて、エスプレッソの方が好きだし、それが本だと思ってるから、話が合わない。


 それを言い出したら、そもそも編集者との相性の話になる。機械を編集者だと思うなら、合わせなくちゃならない。


 それすらイヤなら、Kindleで本を売ってみればいいですよね。


 売る気もない、実力もない、自信もないのに、いやだいやだって、絵里子さん、あなた、マジメにやる気あるの? 要はアマチュアの甘えじゃんか。


本は商品だ。その意見には、一理あります。

 出版社として「売る」以上は、儲けなければならないからです。社員を養う義務がある。でも読者としては?


 本を読むことって、自分をどこか違う価値観のところへ連れて行ってくれるはずだと思ってるんです。お金を払ってその価値観を買う。その世界に没頭する。動物が人語をしゃべり、オペラを歌い、木々が踊る世界。そんな世界が「商品」だとは、わたしにはどうしても思えない。


 理想論を言っても仕方ない。日本は資本主義国家。お金と引き替えに、夢という毒を買うのが読者なのでしょう。

 

そんな風に思い、8,000字の完成したラノベを見ながら、虚無感に襲われるのを感じました。作品は形になりました。向田邦子も草葉の陰で、自分の与えた影響に驚くはず。しかし、わたしは過去の自分に向けて、恥ずかしい思いを感じるのです。あの時と同じ喜びも達成感も、まるで感じられなかったから。

 

生成AIを使うのは、わたしにとって「ラクをしたい」という安直なものではなかったのだ、と思い至りました。


 創作、それ自体は「結果」ではなく、「葛藤と解決」の中にしか存在しないのではないでしょうか。


 AIは過程を省略したことで、結果の重みというものを軽くしてしまった。「気軽に創作したい人」にはそれでいいかもしれないし、アメリカン・コーヒーに慣れている人だって多い。実際、生成AIはビジネス用(特に管理者)に作られており、クリエーターは射程外です。


 もう一つ言うと、ビッグデータにもとづく生成AIの書く文章は、「いままでウケてきた作品群の傾向と対策」であって、「今後ウケるであろう作品の提案」ではない。

 

 つまるところ、生成AIは、「同じところをグルグル廻っている水車」でしかないんですね。読者の嗜好がWeb小説より自分の作るAI小説ばかりになったら、推進力を失うばかりです。


 では、なぜ、それでもわたしはなおもラノベを書くのかってこと。


 べつにラノベでなければいけないって理由はないわけです。それこそ、売ることを度外視したら、エッセイでもいい。

 哲学的だなと思いつつ言うんですが、いま、見まわしてみても、少なくともわたしの知る限りでは、小説、とくにラノベにおける生成AIの限界について、書いている人はいないみたいです。


 とくにホワイトカラーは、みんな職を失うって騒いでる。


 だいじょうぶです。知的ブルーカラーに転職すればいい。植木職人、タクシードライバー、バスの運ちゃん、仲居さん、農家や漁師など……人手不足が叫ばれてます。


 今のホワイトカラーより、いい給料で雇ってもらえるかもしれない。古い価値観しか持ってない人たちに、新しい価値観と技術を持ち込んで重宝される、まさに異世界ものの典型を地でいけるかもしれません。キーボードを打ってるより、対面のほうがはるかに健康的だし。


 ともかく、今後、先細りが予想できるラノベ業界に、わざわざ還暦すぎの病持ちが乱入するのは無謀でしかありません。


 次に、先細りの理由としてあげたいのは、自分の身近(東京)に起こる範囲で縮こまってるファンタジーアニメのことが多すぎるっていうこと。


 西洋の人はあまりにも世界が狭すぎると、不満を漏らしているようです(それならお金を払って、気に入った作者に地方を取材させろよな)。


 今後のことを考えると、衰退の兆しはすでに見え始めているように思えます。


 また、ラノベにおける根本的な問題もあります。

「なぜ、あなたはラノベを読むのか」

 という問いです。これが解決出来ない限り、人気は衰えていくと予測しています。なぜなら、いままで長続きしてきたラノベ作家は、いずれも、


「自力で問いを発してきた」


 という実績を持っているからです。アニメのおかげもありますが、それ以上に、自分で自分の道を切り拓いてきたのです。


 それは生成AIには出来ないこと。そして、そのパイオニア精神にこそ、読者は投資する価値がある。お金を払う価値がある、とわたしは思うわけです。

 

 わたしは今まで、達成感が欲しくて文章を書いてきました。その道行きの途中で、興味のあること、ふしぎに思ったことなどを日記やBlogなどに書いてきました。


 ごく普通のことをふしぎがっているから、投資には価しないかもしれませんが、人よりは本質がわかるつもり。わたしにはアメリカン・コーヒーも、エスプレッソも作れませんが、エネチャージぐらいは出せるかもしれないわけですよね(こんなエッセイで元気が出る人いるのかいw)


 こうしていま、自力でエッセイを書きながら、自分の「愛着」がただの自己撞着どうちゃくではないことを祈っています。


 なぜなら好きなことを仕事にしたら、ぜんぜん楽しめなくなった人もいるからです(わたしも、読書を分析的に読んで、つまらなくなりました)。


 愛着のある作品をけちょんけちょんにされて、落ち込む人だっているはずです。自分の作品にまるで愛着がなくて、単なる「仕事」としか思ってない人もいるでしょう。自分は文章の創作マシンだと割り切ってる人、ゴーストライターに任せてふんぞり返ってる人、いろんな人がいます。


でも、だれでも一度は、「あの時は楽しかった」って思う一瞬がある。



 それは、真夏の花火かもしれません。

 桜吹雪かもしれない。

 もみじの花かもしれない。

 早朝の雪だったりするかも。


 その瞬間を求めて、一生懸命、創作するんです。

 そんな人たちの努力をよそに、先の読めるテキトーな生成AIにお話を書かせた自分が恥ずかしい。


 そして、そんなテキトーな作品すら、自力で書けない自分が腹ただしい。

 一シーンあたりの情報量を薄くすることすら出来ない。


 だけど角度を変えると、それは一方で、自分には「書きたい情熱がある」ってことになるのでは?


 自分の8,000字の向田邦子風エッセイよりも、自力で書いた昔のラノベ(異世界食堂をマネた宇宙食堂の話です)を引きくらべてみました。


 自分のは、あまりにも、たどたどしい。

 しかし、そこにはAI作品にはなかった、「自分」の刻印が記されていたのです。

 自力って結局、「能力の有無」ではなく、「苦闘のプロセス」を諦めないこと。

 そこにこそ、ほんとうの文章への愛着と、お金で買えない「報酬」がある。



 ……でもそれってほとんどヤリガイ搾取だよね(w)



 3:終章~創造の重さと未来への挑戦


 結局のところ、わたしも含めて人が他力を求めるのは、「産み出すことへの重さ」から逃れたい本能と、「能力の限界」という切実な理由があるのかもしれません。

 

 ものを産み出すのは、苦しくて大変です。しかし、苦しい時代、たとえば三〇〇年前のように、江戸から東海道を歩いて伊勢参りなんて出来ないでしょう(体力的にムリ)。


 時代は変わったのです。わたしはこれからもプロットの壁にぶつかり続けるでしょうが、AIを「答え」ではなく、「問い」として扱い、すべてを生成AIには任せない、AIは道具にすぎないと考え続けて行くことでしょう。そして、たとえ毒だとわかっていても、ひとつだけの夢に向けて、ひたすら邁進していくつもりなのです。


 冒険心、パイオニア精神、それが今後のラノベには必要です。

 少なくとも、わたしはそう考えます。

 だからわたしも、文章をあきらめない。

 ゲット・グローリー!

 わたしは明日への扉を開ける(新井素子より)。

 

 


 

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