第3話 EGOÏSTE(エゴイスト) −影を纏う−

 六本木では──弱さを見せたら終わりだ。立場は、空気の強弱と、一瞬の隙で決まる。


 だから俺は、CHANELのÉGOÏSTE を纏う。

 これは香水なんかじゃない。

 俺がここの夜を歩くための“鎧”だ。


 タクシーのテールランプが濡れた舗道で揺れ、雨上がりの夜が薄く光る。


 その一瞬、どこか“甘すぎない”懐かしさが、風にひっそりと混じった。


 思わず振り返った。

 けれど、そこにいるはずのない誰かの影が、一瞬だけ胸の奥で揺れただけだった。


 * * *


  彼女と出会ったのも、六本木の小さなバーだった。


 氷の鳴る音と、低く抑えたジャズ。

 カウンター越しに見えた横顔は、どこかプリティ・ウーマンのジュリア・ロバーツを思わせた。少し大きめの笑い方と、傷を隠すみたいな目の光が。


「その香り、ÉGOÏSTE? 似合ってるわね」


 初めて隣に座った夜、彼女はそう言ってグラスを傾けた。

 俺のÉGOÏSTEを指先でなぞるように名前を口にされただけで、胸の奥がくすぐられる。


「六本木に来る時は、これにしてるんだ」


「ふふ。分かる気がする。ここは、そういう街だものね」


 何度か会ううちに、ふたりの距離は曖昧になっていった。恋人と言うには軽すぎて、友人と言うには近すぎる。


 それでも、彼女が隣にいる夜、ÉGOÏSTEの香りはいつもより少しだけ甘く感じられた。


 * * *


 ある夜、彼女がふいに言った。


「ねえ、今度会うときさ……その香り、付けずに来てみない?」


「どういう意味?」


「誤解しないでね。その香り、嫌いなわけじゃないの。

 でも、あなたの隣にいるとき、いつも“香りの向こうのあなた”と話してる気がするのよ」


 冗談めかして笑いながらも、目だけはどこか真剣だった。


「香りの向こう、ね」


「うん。本当の声とか、素の間とか、もう少し見てみたいの。

 私が知ってるあなたって、いつもÉGOÏSTEを纏った“強そうなあなた”だけだから」


「……じゃあ、今度考えておくよ」


 そう返すのが精一杯だった。

 香りを脱いだ自分で彼女の前に立つことを想像すると、胸のどこかがざわついた。


 * * *


 約束の夜。

 扉を開けた瞬間、彼女はすぐに気づいたようだった。


「……今日も、同じ香り」


 一瞬返事に迷った。


「落ち着くんだよ、これが一番。仕事でも色々あったしさ」


「そうね。あなたらしいと思うわ」


 グラスを合わせ、他愛のない会話を続ける。

 けれど、どんな話題を差し出しても、彼女の視線はどこか宙ぶらりんだった。


「ねえ」


 氷が小さく崩れた音のあと、彼女がぽつりと言った。


「やっぱり、変わらないのね。……ううん、変わりたくない、かな」


「そんなことないさ。俺だって色々――」


「違うの。良い悪いの話じゃない。

 あなたはÉGOÏSTEを纏った自分が、一番好きなんでしょう?」


 言葉が喉に詰まった。否定しようとしても、喉の奥で固まって動かなかった。


「私ね、一度は試してみたかったの。

 この香りを脱いだあなたと、もう一度ちゃんと会ってみたいって。

 ……でも、たぶん、無理ね。あなたはこのままが、きっと一番心地いいんだと思う」


 会計を済ませ、彼女はドアの前で振り返った。


「責めてるわけじゃないよ。ただ――

 自分の影だけ見てる人の隣にいるのは、私には少し、しんどいかな」


 それが最後だった。


 翌週から、そのバーに彼女の姿が現れることはなかった。


 * * *


 それからしばらくしての、六月の雨上がり。俺は、六本木ヒルズの足元を、ひとりで歩いていた。


 胸元から立ちのぼるÉGOÏSTEの香りは、相変わらず心を落ち着かせてくれる。


 香りに包まれている限り、俺は“強そうな俺”でいられる。弱さも、空虚も、簡単に誤魔化せる。


 ふと、すれ違った女のコートの裾が揺れて、一瞬だけ、自分とは違う香りが雨上がりの夜に混じった。


 振り返っても、もう誰の姿もない。

 ビル風に攫われた香りの残像だけが、薄く尾を引いていた。


 そのとき、遅すぎる答えが、静かに形を取った。


 俺は彼女を愛していたんじゃない。

 ÉGOÏSTEを纏った“自分の影”に恋をしていただけだ。


 そう思った途端、胸の奥で何かが音もなく崩れた。けれど、ポケットに手を入れると、そこにはいつもの小さなボトルがある。


 ÉGOÏSTEの瓶を手に取る。


 蓋を開けた途端、あの頃の虚勢と、

 “強いふりをする俺”が静かに立ち上がる。


 ──もし、これを捨てたら。

 俺は少しは変われるんだろうか。


 そんな考えが、一瞬だけ胸をかすめた。


 だが。


 次の瞬間には、手首の内側へいつものようにひと吹きしていた。

 甘く、乾いたスパイスが肌の上でひらく。


 これが俺だ。

 捨てられないままの、俺だ。


 今夜も香りという鎧をまとい、俺はまた変わらない夜へと歩き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

香りの記憶 — Fragrance Triptych Spica|言葉を編む @Spica_Written

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画