第2話 ANTLION(アントライオン) −宵の蝶−(薄羽蜉蝣)

 夜はやさしい。

 夜だけが、私の味方だ。


 昼の光は体の線を暴くけれど、

 夜は輪郭だけをそっと残し、余計なものをすべて溶かしてくれる。

 だから私は、夜が好きだ。


 煙草を吸うと、少しだけお腹が落ち着く。

 良くないのは分かっている。でも──

 “食べると醜くなる”という声だけは、身体の奥に巣を作って抜けない。


 DURANの ANTLION。

 私がつけている香水の名前。

 砂に落ちたものをじわりと沈めていく、あの蟻地獄の名だ。

 きっと私の心にも、同じ穴が開いている。


 * * *


 東京の夜は、いつからこんなに冷たくなったんだろう。

 いつものバーへ行く気にもなれなくて、ふらりと入ったのは博多料理の店だった。


 福岡を離れて三年。

 地元の匂いがするだけで、胸の奥がじんとした。


 カウンターに座ると、隣の男が 「福寿」 を頼んでいた。

 兵庫の酒。知らない土地なのに、なぜだろう──

 地元を大事にできる人の声は、どうしてあんなにやわらかいんだろう。


「日本酒、好きなんですか?」


 気づいたら声が出ていた。

 彼は少し驚いたように目を瞬かせて、穏やかに笑った。

 その笑顔が、胸のどこかをやさしくくすぐった。


 ──本当は、誰でもよかった。

 でも今は、誰かの温度に触れたかった。


 * * *


 ANTLIONの香りは、夜にだけよく馴染む。そして、体温が薄いほど、甘さが濃く立つ。


 ベッドの上で抱き寄せられたとき、彼の手が私の冷たさにわずかに震えた気がした。


 知っていた。

 最近は髪が抜けやすくなって、誤魔化すためにショートにしたことも。

 右肩の小さな蝶のタトゥーが、痩せた骨に沿って歪むことも。


 私は美しいわけじゃない。

 ただ、夜の中でだけ形を保てる“薄羽蜉蝣(うすばかげろう)”。


 * * *


 朝。

 窓から差す光が、私のすべてを暴いた。


 ANTLIONの甘い香りが薄れ、浮き上がった骨ばった影が、静かに真実を突きつける。


 彼は言った。


 「……君は、充分綺麗だよ」


 その言葉は、優しさの形をした刃だった。

 “充分”と言われた瞬間、胸の奥のどこかがすっと冷えた。


 私はもっと綺麗に、もっと軽く、もっと透明に。

 そうじゃないと、昼の世界には立てない。


 微笑んだ。

 震える唇のまま。


 でも私の美しさは、もう夜にしか咲けない。

 昼に触れた途端、影になって崩れてしまう。


 * * *


 彼はチェックアウトへ向かい、昼の世界へ戻っていった。

 私は反対側へ歩く。

 夜の隙間へ、また戻るように。


 ──私は昼の蝶になれなかった。

 でも、夜の光の中で揺れる “薄羽蜉蝣” なら、生きていける気がした。


 肩の小さな蝶のタトゥーが疼いた。

 宵の蝶は羽ばたかない。

 ただ、落ちていく光の中で、ひっそりときらめくだけ。

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