香りの記憶 — Fragrance Triptych
Spica|言葉を編む
第1話 POISON(プアゾン) −香りの記憶−
記憶とは、残酷なほど気まぐれだ。
昨日の会話は霧のように薄れ、
十年前の一瞬だけが、香りの輪郭まで鮮やかに蘇る。
特に──
DiorのPOISON(プアゾン)。
甘く濃密で、どこか毒めいた余韻を残す香り。
その匂いに触れた瞬間、胸の奥の古い扉がかすかに軋む。
* * *
5月の表参道。
春の柔らかな気配と初夏の光が混ざり合う、いちばん心地よい季節。
根津美術館を出て、けやき並木を歩く。
風に揺れる葉の陰が、彼女の頬に淡く落ちる。
「秋の表参道も良いけど……この時期も悪くないでしょう?」
半年という時間を、彼女の一言がそっと示す。その“積み重ね”を、僕はようやく意識した気がした。
アニヴェルセルの前では、新郎新婦が拍手に包まれていた。
「ああやって祝われるって、素敵よね。」
彼女は少し照れたように笑う。
未来の影を、ほんのりまとわせながら。
返事をしようとしたそのとき──
風に混じった甘い匂いに、僕は思わず足を止めた。
DiorのPOISON。
皮膚の奥がざわめき、十年前の面影がひそやかに立ち上がる。
* * *
当時の彼女が纏っていた、強くて脆いあの香り。過去に閉じ込められた記憶の欠片が、現在と無理やり重なり始める。
僕は、目の前の彼女を見ているつもりで、実際には“香りの記憶”ばかり追いかけていた。
そんな曖昧な自分をごまかしていたある日──
彼女が不意に問いかけた。
「ねえ……DiorのPOISONって、そんなに特別なの?」
心臓がわずかに跳ねた。
逃げ場のない静かな追い詰め方だった。
彼女は、少し意地悪そうに微笑む。
「昔の恋人がつけてたって、前に言ってたよね。そのときのあなた……声が少し変わったの。覚えてる?」
見透かされていた。
柔らかい声色のまま、彼女は続けた。
「でもね、私は“いま”のあなたが好きなの。」
軽く言ったように聞こえるのに、胸の奥では何かがほどけていくのを感じた。
* * *
けやき並木の影がゆらぎ、光が足元に落ちてゆく。
彼女の髪が風に揺れ、香りがまたふわりと胸をかすめた。
その香りが、本当にPOISONなのか──
もう確かめる気にはならなかった。
ただ、胸の底でひそやかに疼く疑念だけが残る。
もしかしたら、彼女は“わざと”纏っているのではないか。僕の癖(よわさ)を知ったうえで。
それが愛なのか、策略なのか。
優しさなのか、支配なのか。
その境界線は曖昧で、どちらとも言えなかった。
でも、僕たちは並木道を歩き続けた。
彼女は隣から離れなかった。
──毒は、こんなにも甘い。
気づかないふりをしたまま、僕たちは表参道を抜けて、渋谷へ向かった。
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