明日の空もきっと青い
いわし。
一話完結
朝の光が、東京の安アパートの窓から差し込む。
美月、32歳。
目覚ましのアラームを止めるために伸ばした指が、スマートフォンの画面に触れる。
画面には、昨夜母と交わしたLINEの履歴が残っていた。
「仕事も順調そうで安心したわ。彼氏くんとも仲良くね」
私が送ったのは、部署異動でキャリアアップ、週末は彼と美術館へ――
そんな順風満帆を装った、完璧な虚偽だった。
実際には、4度目の退職で、絶賛5回目の職探し中。
5年間を費やした恋人とは、半年前に彼の浮気が発覚し、声高に罵り合うこともなく、ただ静かに終わった。
鏡の中の私は、少し疲れていた。
…いや、だいぶやつれている。
かつて夢見ていた人生は、こんなものじゃなかった。
25歳で結婚し、28歳で出産。
穏やかな家庭を築いているはずだった。
「あの時、仕事を辞めなければよかった」
「あの時、浮気を許してしまえば、今よりはマシだったかもしれない」
後悔と自己嫌悪が、胸の中で、粘着質な澱(おり)となって渦巻いていた。
故郷の親に見栄を張り続ける自分は、もう見栄しか残っていない人間なのではないか。
靴下を履きながら、そう自嘲する。
今日の面接は事務職。倍率は高そうだった。
私は、ネットで調べた「前向きな転職理由」と「貴社で実現したいこと」というテンプレートの言葉を頭の中で反芻する。
(…御社を志望した理由は、これまでの経験を生かせると思って――)
『次の方、お入りください』
「はい、失礼します」
面接室の扉を開けるたびに、心が冷えていく。
面接官の目は、私という人間そのものを見ているのではなく、履歴書に並ぶ転職回数という「数字」を見ているようだった。
『キャリアシートを拝見しました。これまで4回も転職されている理由を、具体的にお願いします』
ネットで覚えた文言を必死に思い出す。
「前職では、自分の力が活かせる環境を求めておりまして…スキルアップのため、新たな分野に挑戦したいと…」
その瞬間、面接官が鋭く口を挟んだ。
『つまり、居心地の悪い場所から逃げてきた、ということですか?あなたには、弊社で何をやりたいという強い意志が全く感じられません』
テンプレートを暗記しただけの、なんの想いも籠ってない言葉。
(やりたいことなんて、ない。ただ、苦痛なく生活できるだけのお金を、人並みに稼げればいい。それだけなのにな…)
心の中で叫んだ言葉は、当然、口には出せない。
「申し訳ございません。」
面接は、重苦しい沈黙の中で終わった。
午後三時。
スマートフォンに届いた一通のメール。
「誠に恐縮ながら、今回は貴意に沿いかねる結果となりました」
それは、「あなたという人間を見ましたが、わが社には必要ありません」と拒絶されたことと同義だと、私は知っている。
帰り道、駅前のカフェから、仲睦まじそうに笑い合う恋人たちの声が漏れる。
公園からは、親子の楽しそうな声。
それらはすべて、私が夢見た人生の残像だった。
恨みこそないが、言いようもない劣等感と自己嫌悪に、深くため息をついた。
(なんで、こんなにも満たされないのだろう)。
自宅に戻ると、疲れ果てて靴を脱ぎ捨てる。
着替えもせず、ただソファに沈み込んだ。
「こんなはずじゃなかったのにな……」
私は、とうとう声を上げて泣き崩れた。もう何度目かも分からないお祈りメール。
見栄を張り続ける孤独。夢と現実の乖離。
そのすべてが重くのしかかり、涙が止まらない。
これが人生のどん底だと思った。
どれくらいそうしていただろう。
涙が枯れた頃、スマホ画面に光った。
長年の友人、恵からの電話だった。
恵:「ね、美月。急にごめんね、元気にしてる?最近全然連絡してなかったから、暇だし電話しちゃった」
その他愛ない声を聞いた瞬間、私は堰を切ったように本音を話しそうになった。
(実は私、仕事も辞めちゃって、恋人にも振られて、転職活動もボロボロで、なのに見栄っ張りで、最低で…)
でも、喉の奥で言葉は引っかかった。
「…びっくりしちゃった!もちろん元気だよ。私も恵とそろそろゆっくり話したいなって思ってた」
結局、いつもの嘘をついた。
恵:「よかった~!そうそう、おすすめのカフェがあるから今度一緒に行きたいなって思って、たまには気晴らしにいこう!あ、ごめん仕事のキャッチ入っちゃった。また連絡する!」
恵は変わらず嵐のような人だ。
電話を切った後、部屋は物音一つしない。
私はソファに顔を埋める。
――涙が止まらない。
恵は私の現状を知らない。
それでも、ただ「元気?」と声をかけてくれる繋がりがある。
それが、わずかだが心の支えになった。
「こんなはずじゃなかったのにな……」
その夜、私は泣き疲れて眠りに落ちた。
翌朝。
泣き腫らした目で、重い体を引きずって窓に近づいた。
カーテンを開ける。窓ガラスの向こう。
空は、昨日までの澱んだ気持ちを吹き飛ばすかのように、雲一つない、深い快晴だった。
「わあ……」
思わず声を漏らした。
自分の絶望とはまったく関係なく、世界は美しく、そして確実に回っている。
その事実に、微かな安堵を覚えた。
「美味しいものが食べたい」
急にそう思った。私は重い腰を上げ、冷蔵庫の残り物で簡単な料理を作った。
久しぶりにちゃんと作ったオムライスは、不恰好だったが、一口食べると心から「美味しい」と感じた。
(そうか、私、まだ美味しいって感じられるんだ)
それから、久しぶりに鏡に向かい、乱れた髪を整え、服を着替えた。
見栄ではなく、自分自身のために。
本当に小さなこと。
雲一つない快晴の空。美味しい食事。友人との繋がり。
絶望を打ち消すほどの強さはない。
けれど、その小さな小さな幸せの点々が、私の心に、「生きるエネルギー」を、わずかだが確かに注いでくれた。
(…よしっ)
私は立ち上がった。
「こんなはずじゃなかった」と嘆く人生だとしても、もう過去を悔いるのはやめにしよう。
恋人の浮気も、仕事を辞めたことも、面接で落ちたことも、すべて私という人間が選び、そして受けた結果だ。
「でも、この人生を生きていくしかない」
見栄を張ることは、まだやめられないかもしれない。
けれど、今日のこの青空、料理の味、友人の声を、この絶望の中にいる自分が見つけられたのなら。
大丈夫、なんとかなる。
私は、部屋の隅で散らかったスニーカーをきれいに並べ直した。
小さな秩序を回復する。そのささやかな行動が、静かな決意となった。
完璧な幸せではない。
でも、明日の空もきっと青い。
明日の空もきっと青い いわし。 @iwashi0141
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