黒い花嫁
藍
第1話 黒い結婚式
最初に違和感に気づいたのは、花の色だった。
式場は白で統一されている。ユリ、バラ、そして鈴蘭。
清潔で、幸福で、何も疑う余地のない光景。
なのにその中心に立つ花嫁だけが、夜のように黒かった。
黒いドレス。
黒いヴェール。
黒い手袋。
見間違いじゃない。
礼服でも喪服でもない。
明確に“花嫁の黒”だ。
ざわめきは、祝福の拍手に飲み込まれる。
ゲストは笑う。
司会は明るい声で進行する。
誰も「不吉」という言葉を口にしない。
口にした瞬間、自分が悪者になるからだ。
黒羽伶は、泣いていなかった。
笑ってもいなかった。
まるで、儀式の中心に置かれた彫刻のように静かだった。
新郎の秋山圭吾は、彼女を見ていた。
誇らしげで、どこか陶酔した目。
その視線は愛情というより、
“人生の完成形を手に入れた人間の顔”に近い。
「黒羽さん」
誓いの言葉の直前、圭吾が小さく囁いた。
マイクには乗らない声。
「……本当に、黒で来てくれたんだね」
伶は頷いた。
「約束したでしょう」
声は低く、温度がない。
しかし不思議と、冷たさが美しく聞こえる。
「君は、僕の……」
圭吾は言いかけて飲み込んだ。
涙が浮かんでいる。
彼が泣く場面だと、式場が理解して拍手を強めた。
人は、感動のタイミングを知っている。
あるいは、知っているつもりでいる。
「それでは誓いのキスを」
司会の合図。
圭吾が一歩詰める。
伶は少しだけ顎を上げる。
キスは短かった。
触れた時間は確かに短いのに、
空気だけが長く張り詰めた。
それは“誰もが見たい恋”ではなく、
“誰もが見てはいけない瞬間”の緊張に似ている。
伶はキスの直後、
ほんのわずかにヴェールを整えた。
その指の動きがやけに丁寧で、
その所作だけで、
この女が何かを支配できる人間だと伝わってしまう。
披露宴は無事に進んだ。
乾杯。
祝辞。
ケーキ入刀。
写真撮影。
伶は微笑まない。
けれど無礼でもない。
完璧に“花嫁として許される範囲の無表情”を守っている。
誰かが言った。
「クールで素敵ね」
誰かが続けた。
「最近こういうの、流行りだよ」
誰かが結論を出した。
「黒も、ありよね」
理由が決まれば、人は安心する。
伶が黒を選んだ理由は、
誰も知らないままでいい。
むしろ知らない方が、
この場の幸福は傷つかない。
——そのはずだった。
夜。
新郎新婦はホテルに移った。
スイートの窓から見える街の灯りは、
祝福の残響のように静かだった。
圭吾は酔っていなかった。
むしろ冴え切っている。
「ねえ、伶」
ベッドに腰を下ろした彼は、
指輪を見つめながら言った。
「僕は君を救えると思う?」
伶は答えない。
「君は……」
彼は言葉を探した。
言葉で彼女に触れようとする人の仕草だった。
「君は、何かを終わらせるために
結婚している気がする」
伶は、ようやく彼を見る。
「終わらせたいのは、私じゃない」
「じゃあ誰が?」
「あなた」
圭吾は息を呑んだ。
恐怖ではない。
むしろ、理解した人間の安堵に近い。
「僕……」
彼は笑った。
少しだけ泣きそうに。
「僕、君の物語になれるかな」
伶は立ち上がり、
窓の外の夜景に背を向けた。
「なりたい人は、なるの」
一拍置いて、あまりに静かな断定が落ちる。
「それがあなたの望みでしょう」
翌朝。
清掃スタッフが最初に見つけたのは、
床に落ちたタオルでも、
割れたグラスでもない。
冷たくなった新郎の身体だった。
浴室。
滑った痕。
頭部の打撲。
事故として完璧だった。
医師も警備も、
“事件性は低い”と言う。
——それでも。
フロアの廊下に人が集まり、
噂が形になっていく速度は
検死よりずっと早い。
伶は泣いていなかった。
彼女はスイートのテーブルに座り、
コーヒーすら飲まず、
ただ窓の光を見ている。
そして、
そこに置かれた小さなもの。
指輪。
外され、
丁寧に揃えられていた。
朝の光に、冷えた金属の白が痛いほど静かに光る。
それは誰の意思なのか。
圭吾のものか。
彼女のものか。
あるいは——
事情聴取の刑事が
声を硬くして尋ねる。
「指輪は、あなたが外したんですか」
伶は首を振った。
「彼が置いたの」
「亡くなる直前に?」
「ええ」
刑事は眉を寄せる。
常識の範囲内で
彼女を理解しようとして失敗している顔だった。
伶は、
黒いヴェールの隙間から
まっすぐに彼を見た。
「あなたは真実が欲しい?」
刑事が言葉に詰まる前に、
伶は続ける。
「それとも——
安心できる悪が欲しい?」
刑事の目が揺れた。
一瞬だけ、
“それなら裁ける”と安堵する光が混じる。
その瞬間、伶は確信する。
この世界は、
彼女を必要とし始めている。
悪女を。
物語を。
罰を。
彼女はゆっくり立ち上がり、
黒い手袋の指先を整えた。
そして、
誰にも聞こえないほど静かな声で言う。
「私は殺していない。
でも、彼は死んでくれる。」
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