不幸の森

由水李予

第1話

 ○


 ほら、息を大きく吸ってみて。夜の匂いが薄れてきた。

 匂いって、なんと言えば伝わるのだろう。少し湿り気を含んだ足下の土と石、まだ柔らかな頭上を覆う葉っぱ、ひんやりした木の幹に、そこかしこに落ちている折れた小枝。森の中の空気は心地よく冷えていて、少し舌に苦い。木々を通り抜ける風は優しく肌を撫で、上等な絹織物ってこんな感じかな、って想像してみる。いつ登っても山は山であり続けるけど、この時期はそこかしこに瑞々しさがあふれている。わたしはこの季節が一番好きで、森の邪魔しないように静かに息をひそめて、そっと楽しむことにしている。

 暗いうちから歩きはじめたけれど、やっと東の空が白んできた。薄明が木々の影を淡く浮かび上がらせているね。大丈夫、すぐに明るくなるよ。目的の場所は山頂近くで、何時間も歩かなくてはいけないんだ。この時間から登らないと、帰り道が暗くなってしまう。山道はまだ序盤だから、いまのうちにあなたにもこの空気を存分に味わってほしい。最後のほうは勾配がきついから、きっと楽しむ余裕はないよ。あなたは長いあいだ運動不足だから、わたしより疲れてしまうだろう。でもゆっくりしていると日が暮れてしまうから、早歩きで行こう。大丈夫、リズムをつかんでしまえば、慣れてくる。好きなリズムを思い浮かべて。あなたのお気に入りのジャズの一曲がいいかもね。だけど、メロディに身を任せてはダメ。注意散漫になるとほら、足下がおろそかになる。山道には大きな石や木の枝が転がっているから、転ばないようにね。転んでしまうと気分が台無しになるから。

 次第に空が明るくなる。濃紺に灰色、水色、ピンク。やがて抜けるような青に塗りつぶされるだろう。もうすぐ大きな曲がり角があって、そこを抜けると開けた場所に出る。そこで夜明けを迎えようか。


 ○


 夜が明けるまでの暇つぶしに、古い話をしよう。

 あなたも知っての通り、この道は、とても昔からある道でね。この地域では古くから山岳信仰があって、たくさんの巡礼者たちが山道を歩いた。山の中で修行を続けていれば、いつかこの世のあらゆる苦しみから解放されるらしい。様々な説話も残っていて、どんな苦境に遭っても、信心深く善い行いを続けていれば、いつか報われるのだと説いている。わたしたちは神さまも仏さまも信じられないから、ずっと苦しみ続けることになるのかな。

 でもわたしにはわからない。いま苦しんでいるということが、いつか報われるということと、どうつながるのだろう。いつもどこかで、誰かが苦しんでいる。たくさんの悲しい物語が次々と産まれている。どこか遠い時間、場所で、それらが報われるとして、過去の苦しみにとって、何の意味があるだろう。

 だから、わたしはこう思う。苦しみは、苦しみそれ自体で独立して存在している。それは何らかの救いとは一切合切関係ない。

 わたしがいま感じている苦しみは、わたしにしかわからない。あなたには何も理解できない。けれど、わたしが苦しんでいるという事実を、なかったことにしたくない。この苦しみの存在を、あなたには知っていてほしいと思うから、だから、わたしはあなたに語りかけている。

 向かいの山から太陽が顔を出した。空が明るくなる。露を湛えた木の葉がきらきらと光を反射する。まぶしさが目に沁みて、少し痛いくらい。涙が滲んできた。

 あなたがこの山を登ってくれてうれしい。わたしが好きなものを、あなたも好きになるかもしれない。それはすてきなことだと思う。だけど、たとえあなたが山を嫌いであっても、いまのわたしを何ら否定するものではない。

 光を直接浴びるのは、あんまり好きじゃない。身体に熱がこもって、頭がくらくらして、何もわからなくなる。暗がりから見上げるくらいがちょうどいい。

 さあ、小休憩はこれで終わり。まだまだ先は長いから、そろそろ出発しよう。


 ○


 鬱蒼と生い茂った木々の葉が日光を受け止めていて、光は足下までは届かない。見上げると、緑色に光が滲んでいるのが少しわかるくらい。森の中は意外と暗いでしょう?

 ただひたすら歩いているだけだと、飽きてきたかな。でも、あなたももう慣れてきたはずだ。呼吸に合わせて足を動かせば、身体は勝手に前に進んでいく。手を離した振り子のように、一定のリズムを刻みはじめる。もうメロディは必要ない。

 少し息苦しいくらいの負荷が心地よい。歩いているうちに、身体や思考の余剰が徐々に剥落し、最低限しか残らなくなる。どんどん頭が冴えてくる。

 森の中には様々な種類の生き物がいる。彼らは、複雑かつ緊密に絡み合って生きている。その姿は、お互いを助け合っているように見えるし、お互いを侵略し合っているようにも見える。わたしたちのように大きく手を振ったり、歩いたり、声を出したりしないから、森の中は静かに感じるけれど、彼らが確かに何らかの形で活発に活動している。

 森の息吹を人間の身体で知覚するためには、無心になるしかない。何も考えなくても身体は動く。明確な言葉はなくとも、神経から発生する漠然とした小さな複数の指示が身体のあちこちを動かして、足元の岩をよけたり、頭上の枝をかわしたりする。

本当は、わたしも言葉以外の方法で、あなたに伝えたい。言葉にすることによって、失われるものがある。だけど、わたしには言葉しかない。だからせめて、あなたにはわたしと同じように、実際に山に登ってほしかった。言葉を持たない彼らの蠢きを、全身で感じてほしい。


 ○


 山の途中から、大きな岩がごろごろ転がり、足場が悪くなってくる。岩場は滑りやすいから、しっかり足裏を地面につけて、慎重に登っていこう。流石にもう、景色を楽しむ余裕なんてないかな。

 わざわざこんな山深くまで歩いてきたのには、もちろん訳がある。

 わたしがそれを見つけた日は、気持ちのいい初夏の日だった。その日が、この山を登る最後の日になるはずだった。だから、わたしはいつもなら進まないような、藪の中にまで入り込んで、足を進めていた。わたしが行ける限界まで進みたくて、なんなら、迷って野垂れ死んだっていいと思っていた。額から汗が流れ、目に映るのはぼやけて曖昧な輪郭の緑色だけで、後ろは振り返らず前だけ見据えて枝葉をかき分けて山を登っていた。

 それは、一際険しい岩場を乗り越えたあとのことだった。

 はじめはそれがなんだかわからなかった。目の前に突然、緑と茶色の大きな壁がそびえ立っていた。見上げても、枝葉で隠れて壁の天辺は見えない。足下は木の根っこで凸凹して、苔が貼り付いたり、羊歯が生い茂ったりしている。緑が風にさざめく音をぼんやり聞いているうちに、ふと気がついた。

 それはとても大きな樹だった。

 岩場をおそるおそる降りて、根元に近づく。ぼこぼこと隆起した地面をおそるおそる歩き、幹に触れた。内部に水が通っているひんやりした生命が、わたしの手のひらの熱を奪い取ってくれた。荒かった息がだんだんと落ち着いてくる。同じ生き物であるはずなのに、自分の体温が煩わしく感じられて仕方なかった。わたしも、樹も、同じように生きているはずなのに、熱を持って、せわしなく手足を動かし、頭の中をごちゃごちゃ混ぜっ返している自分が、とても滑稽だった。

 この樹は何千年生きているのだろう? 

 わたしは根元に座り込んで、呆然と樹を見上げるしかなかった。このような、老いてなお大きく厳かな生き物に、どう接すればよいかまったくわからなかった。なぜわたしは、こんなにもちっぽけなのだろう。ともすれば悠久とまがうほどの時を生きているものを前に、わたしは自分の命を思う。


 〇


 このままではもう何年も生きられないでしょう。

 白い壁に濃い影がかかる診察室で受けた言葉が、頭の中に淀んでいる。目を閉じれば、大きなディスプレイに表示された灰色のレントゲン写真が浮かぶ。脳にぽっかり空いた黒い穴から、何かがこちらを見つめている気がした。医者の顔は全体としてのっぺりしているのに、口元だけ、はきはき動いている。

 だけど、あなたは運がいい。いまの最新医療なら生き延びることができるかもしれません。

 医者がディスプレイを軽くタッチすれば、鮮やかなポップ広告へ切り替わり『ニューロスピナー治験者募集中』という文字が飛び出てきた。軽快な文句が医者の口から続く。

 バイオテクノロジ―もついにここまで来ましたよ。『ニューロスピナー』というのは、言ってしまえば人工神経細胞です。人工と言っても、一度植えつければ自然増殖していく、タンパク質に自己増殖のプログラムを植え付けた有機的な細胞です。なに、手術はすぐに済みます。頭蓋骨に小さな穴をあけて、そこから注射器で『ニューロスピナー』の核を埋め込むのです。いわば、糸車の車輪ですな。車輪の動力は、項に張り付けた小さなソーラーパネルから供給されます。糸状の神経細胞が脳内を満たしていくほどに、脳の記憶容量は増えていき、従来の人間では到底叶わない、膨大な量の情報処理をこなすことができるようになるはずだと見込まれています。まだ治験段階なので実例は少ないですが、高次脳機能障害やアルツハイマー病の患者の回復事例が数件報告されています。また、保険対象外ですが、老化による認知機能の衰えを防ぐための医療サービスも最近は増えていますね。あなたの場合は、腫瘍があちこちに転移しているので、複数の『ニューロスピナー』の核を埋め込む必要があります。そうすれば、徐々に『ニューロスピナー』が自らの糸を紡ぎ、壊死した神経を徐々に補完し、そして最終的にはすべての細胞が『ニューロスピナー』に置き換わって、元通りの、いや元以上にきれいな状態の脳に生まれ変わるでしょう。ただし、増殖中は一時的に脳の機能が停止するため、『ニューロスピナー』の増殖が停止するまでは、生命維持装置を体に取り付けて、眠りにつく必要があります。そうですね、この規模感だと、ざっと、百年くらい。

 ひゃくねん。その時のわたしにとっては、それがとてつもなく永い月日に感じた。百年たてば、たいていの人間は死んでいる。両親も恋人も親友も、みんないなくなる。医者によれば、『ニューロスピナー』は増殖する際に、もともと脳に存在する神経線維を巻き込んで糸を紡ぐため、脳が物質的に置き換わるだけで、記憶は元のまま受け継がれるから、何の心配もないらしい。

 すべての脳が置き換わったわたしは、わたしと言えるのだろうか。わたしのことを誰も知らず、わたしに置き換わった新しい脳みそだけが、わたしのことを覚えている。

 でこぼこ穴が開いた脳みそのわたしと、ぴかぴかでまっさらな脳みそのあなた。

 わたしとあなたが同じであるという証明は、どうやったらできるのだろう。


 〇


 目が覚めたとき、あなたは何を感じた? きっと、はじめにかけられた言葉は、「おはようございます」で、次には「おめでとうございます。実験は成功ですよ」と祝われたことだろう。生き延びたことがわかって、うれしかった?

 未来の自分にかけられる言葉は、過去の自分に届くだろうか。いま感じているわたしの恐怖や不安は、何をもって報われるのだろう。

 未来と過去はどのようにつながっているのか。例えば、線で結ぶことはできるか。できるならば、とある点と点が結ばれている場合、どのような意味を持つだろうか。

 未来が救われれば、過去も救われるか。失われたものは、戻ってくるのか。

 きっと、何も戻ってこない。失われたものは失われたからこそ、こんなにも切実なのだ。

 わたしは最後まで『ニューロスピナー』の移植に悩んで、何度もこの山に登った。森の中にいるときだけ、不安を忘れることができたから。そんな状態だったから、いつもは足を踏み入れない場所にだって、躊躇なく進んでいけた。

 わたしがこの樹に出会ったとき、その幹は一部が朽ちかけ、空洞が生まれていた。そしてその空洞からは、鮮やかな新芽が伸びていた。

 わたしはその新芽の行く先を知りたかった。

 わたしが百年後の樹の姿を見たいということは、あなたに百年後の樹の姿を見てほしいということになると気づいて、わたしは『ニューロスピナー』を受けいれることに決めた。


 〇


 もともと、わたしというものが、不明瞭なのだと思う。熱や光や質量を伴うなんらかの蠢きを命と呼ぶならば、その命がわたしという幻想を作り出している。

 柔らかに芽吹いていたあの新芽は、百年後には立派な枝を伸ばしているだろうか。そして、朽ちはじめていた大樹はまだその姿を保っているだろうか。もしかしたら、空洞が広がって幹が倒れているかもしれない。その場合、周りの若木は無事だろうか。心配したらきりがなくて、そもそも百年後にこの森が残っているかどうかさえ、保証はできないと気づく。

 だからどうか、あなたに見届けてほしい。

 あなたがわたしをどう思うかわからない。馬鹿馬鹿しいと言って、切り捨てるかもしれない。いまわたしが感じている恐怖や悲しみを、あなたはどう感じるだろう。新しい脳で、クリアに処理された視界は良好だろうか。ここからどんなに目を凝らしてもけぶって見える景色の向こう側に、あなたの幸福が存在している。 暗闇から見上げる光が一番美しい。何層にも生い茂って重なり合った枝葉の影が地面に覆いかぶさり、わたしは薄暗がりに包まれている。風が吹く度に森が揺らめき、小雨のような光の粒がまばらに落ちてくる。緑のほろ苦い匂いが立ち昇ってわたしの肌を撫で、水を湛えた幹に熱が吸い込まれていく。

 手のひらですくえば透明な水も、よくよく見れば得体のしれない蠢きに満ちている。その一つ一つは、誰かの悲劇だったり、絶望だったり、慟哭だったりする。きっとあなたには見えないだろう。

 あなたが幸福であることは、わたしが不幸であることと何も関係がない。

 だから、わたしはあなたに語りかける。

 幸福なあなたが、もういなくなったわたしを忘れないように。わたしがいま感じている美しさをあなたに伝えるために。あなたが百年前のわたしと同じようにこの樹を直に見られたとしても、たぶんただの樹としか思えないはずだから。

 人が何によって救われるかは、最期までわからない。わたしの救いは、森を包み込むように枝葉を広げる大樹であり、その洞の中で弱弱しく軸を震わせている新芽である。

 悲しくなるほどに美しい対比がここにある。わたしの不幸として存在している。

 すぐに消えてなくなってしまう、あっけなく、みじめなわたしだけど、誰よりもあなたの幸福を願っている。

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不幸の森 由水李予 @riyo910110

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