【悲報】浮気された俺、聖人なので元カノは許します。→【朗報】ただし、俺を溺愛するヤンデレ家族が浮気相手(教師)を社会的に抹殺し始めた件について

@flameflame

第一話 聖者の失墜と悪魔の家族会議

春の柔らかな日差しが、教室の窓ガラスを透過して埃をきらきらと舞い上がらせる。ありふれた高校の、ありふれた昼休み。俺、天ヶ瀬 慈(あまがせ いつく)の日常は、そんな穏やかな光に満ち溢れていた。


「はい、慈。今日のお弁当、唐揚げ多めに入れておいたから」


目の前で可愛らしく笑いながら弁当箱を差し出すのは、隣の家に住む幼馴染にして、俺の恋人である柊 凛音(ひいらぎ りおん)だ。風に揺れる艶やかな黒髪も、快活に輝く大きな瞳も、全てが俺の宝物だった。


「いつもありがとう、凛音。凛音の家の唐揚げ、世界一美味いよ」


「もー、大げさなんだから。おばさんが聞いたら喜ぶよ」


俺の母ではなく、凛音の母親のことを「おばさん」と呼ぶ。逆もまた然りで、凛音は俺の両親を「おじさん、おばさん」と呼ぶ。生まれる前から隣同士で、物心ついた頃にはいつも一緒にいた俺たちは、二つの家族にまたがる一人の子供のようなものだった。


中学二年の冬、俺からの告白で始まった恋人関係は、周囲も公認の仲。校内では「美男美女カップル」とか「見てるだけで癒される」なんて囃し立てられることもあるが、俺たちにとってはそれが自然な日常だった。


「今日の放課後、陸上の練習長引くかも。顧問の蛇崩(じゃくずれ)先生、最近やけに熱心でさ」


「そうなのか。応援してるよ。でも、無理はするなよ」


「うん、わかってる。慈こそ、生徒会の仕事大変でしょ?ちゃんと休んでる?」


「大丈夫。凛音の顔を見れば疲れなんて吹っ飛ぶから」


俺が本心からそう言うと、凛音は少し照れたように顔を赤らめ、ぷいっとそっぽを向く。そんな仕草の一つ一つが愛おしくて、胸の奥が温かくなる。この幸せが、永遠に続くと信じて疑わなかった。この、昼下がりの穏やかな光のように、当たり前のものとして、ずっと傍にあるのだと。


その日の放課後が、俺の世界を根底から破壊する引き金になるなんて、想像すらしていなかった。


生徒会の仕事を終え、昇降口で凛音を待つ。いつもなら彼女の部活が終わるのを一緒に待つのだが、今日は委員会で使う資料作成に手間取ってしまった。


『ごめん、先に部室行ってるね!』


スマホに届いた凛音からのメッセージに、俺は『すぐ行く』と返信し、少し早足で校舎を出た。凛音が所属する陸上部の部室は、体育館の裏手にある少し古びた建物だ。角を曲がると、オレンジ色の西日が長く影を伸ばしていた。


部室の扉は少しだけ開いている。中から話し声は聞こえない。もうグラウンドに出てしまったのだろうか。そう思いながら、何気なく部室の裏手へ回り込んだ時だった。


「……んっ」


甘く、湿り気を帯びた声が聞こえた。凛音の声だ。でも、いつも俺に向けられるそれとは違う、どこか熱に浮かされたような、知らない響き。


壁の影から、恐る恐る顔を覗かせる。


そこにいたのは、ジャージ姿の凛音と、陸上部顧問の蛇崩猛だった。俺より一回りも二回りも大きな蛇崩の腕が、凛音の腰を強く抱き寄せている。そして――その唇は、固く結ばれた俺の恋人の唇を、貪るように塞いでいた。


凛音は、抵抗していなかった。それどころか、その首にそっと腕を回しているようにさえ見えた。


時間が、止まった。


遠くで運動部の掛け声が聞こえる。カラスの鳴き声が空に響く。風が砂埃を巻き上げる。五感は正常に機能しているはずなのに、俺の世界からは一切の音と色が消え失せていた。


カツン、と乾いた音がした。手に持っていた生徒会のファイルが、アスファルトの上に落ちた音だった。その音に、二人がハッと我に返ってこちらを向く。


「……い、つく?」


凛音の顔が、驚愕と焦燥で歪む。蛇崩は一瞬バツの悪そうな顔をしたが、すぐにふてぶてしい笑みを浮かべた。まるで、子供の遊びを見下す大人のような、不愉快な笑みだった。


俺は、何も言えなかった。怒りも、悲しみも、憎しみも、どんな感情も言葉にならなかった。ただ、目の前の光景が、ゆっくりとスローモーションで再生される。凛音の首に回された腕。蛇崩の満足げな表情。すべてが脳に焼き付いて、思考を停止させた。


俺は、二人に背を向けた。


「慈!待って!」


背後から凛音の悲鳴のような声が聞こえたが、足は止まらない。いや、止め方がわからなかった。自分の足なのに、まるで誰かに操られているかのように、ただひたすら家へと向かっていた。


帰り道の記憶はない。どうやって玄関のドアを開け、どうやって自分の部屋までたどり着いたのかも覚えていない。気が付くと、俺はベッドの上に倒れ込み、真っ白な天井をぼんやりと見上げていた。


世界が、終わった。


あの日から、三日が過ぎた。俺は一度も部屋から出ていない。学校も無断で休んだ。スマホの電源は切り、部屋のカーテンは閉め切ったままだ。


腹は減らない。眠りも浅い。ただ、瞼を閉じればあの光景がフラッシュバックする。開けば、真っ白な天井が、色を失った俺の世界そのもののように見えた。


凛音は悪くない。きっと、俺に至らないところがあったんだ。もっと男らしく、頼りがいがあったなら。もっと大人だったら。凛音を不安にさせることがなかったなら。そうだ、全部俺が悪い。俺が、凛音を……。


ぐるぐると、自責の念だけが頭の中を支配する。涙は、もう出なかった。


コン、コン、と控えめなノックの音が響き、静かにドアが開いた。


「慈、入るわよ」


現れたのは、母の麗華だった。おっとりとした優しい顔には、隠しきれない心配の色が浮かんでいる。


「慈、三日も何も食べていないでしょう。お母さん、心配で……。何か、あったの?話してくれないかしら」


母の手には、湯気の立つお粥の乗ったお盆があった。その優しい匂いに、固く閉ざしていた感情の堰が、少しだけ緩むのを感じた。


「……ごめん、母さん」


掠れた声でそれだけ言うのが精一杯だった。母は何も言わず、ベッドサイドに腰掛けると、俺の額にそっと手を当てた。ひんやりとしたその感触が、心地よかった。


「熱はないわね。でも、心の熱が高いみたい。大丈夫よ、慈。あなたを苦しめるものがあるなら、お母さんが全部取り除いてあげるから」


その言葉に、ついに堪えきれなくなった。俺は、子供のように声を上げて泣きじゃくった。三日分の絶望と悲しみが、濁流のように溢れ出す。母は、そんな俺の背中を優しく撫で続けてくれた。


やがて、父の宗一郎、兄の刻夜(ときや)、姉の詩織(しおり)も部屋に入ってきた。皆、俺の変わり果てた姿を見て、痛ましそうに顔を歪めている。


「慈、一体何があったんだ」


父の重く、しかし心配に満ちた声に、俺は途切れ途切れに、あの日の出来事を話した。凛音が、顧問の教師とキスをしていたこと。それを見てしまったこと。


話し終えた俺の口から出たのは、意外な言葉だった。


「……だから、お願いだ。凛音を、責めないでほしい。きっと、俺が悪かったんだ。俺が、凛音を不安にさせたから……。凛音は、悪くないんだ」


聖人君子。周りは俺をそう評することがある。自分でも、そうありたいと思っていた。誰かを憎むより、自分が至らなかった点を反省する方がずっと楽だった。


俺の言葉を聞いた家族は、一瞬、静まり返った。


最初に口を開いたのは、姉の詩織だった。


「そう……慈は、本当に優しい子ね」


姉は俺を強く抱きしめてくれた。兄の刻夜も、無言で俺の頭を撫でてくれる。父は、力強く俺の肩を叩いた。


「わかった。お前の気持ちは尊重しよう。凛音さんのことは、我々は何も言わん。今はとにかく、ゆっくり休むんだ。お前が元気になることが、我々にとって一番の幸せなんだからな」


「そうよ、慈。辛かったでしょう。もう何も考えなくていいの。あとは、私たちに任せなさい」


母の言葉を最後に、俺の意識は深い眠りの底へと沈んでいった。心労と睡眠不足が、限界に達していたらしい。


慈が、天使のような寝顔で眠りについたのを確認した後。天ヶ瀬家の四人は、静かに彼の部屋を出て、一階のリビングへと集った。


先ほどまでの温かく、慈愛に満ちた雰囲気は、そこには一片たりとも存在しなかった。リビングの空気を支配しているのは、絶対零度の怒りと、底知れぬ殺意。


革張りのソファに深く腰掛けた父・宗一郎が、氷のような声で口火を切った。


「さて、始めようか。我らが至宝、慈を傷つけた愚か者共への『処遇』を決める家族会議を」


彼の本職は、大手法律事務所の代表弁護士。しかし、それは表の顔。裏では、法の全てを知り尽くし、それを武器にも盾にもして、あらゆる敵を合法的に社会から抹殺する冷徹な策士だった。


「まずは情報の整理だ。刻夜」


「とうに済んでるよ、親父。件の男は、柊凛音の所属する陸上部顧問、蛇崩猛。32歳。複数の女子生徒との不適切な関係を示唆するデジタルデータ、借金の存在、経歴詐称の疑い。掘ればいくらでも埃が出る、絵に描いたようなクズだ」


兄の刻夜は、普段は物静かな国家公務員。だが、その指先は国家レベルのセキュリティすら突破する、神業のハッカーだった。蛇崩の個人情報など、彼にとっては赤子の手を捻るより簡単なことだった。


「まあ、下劣な輩ですこと。そういう輩は、まず社会的地位から奪って差し上げるのが定石ですわね。彼の周囲の人間関係を洗って、最も効果的な噂を流すのは私の得意分野ですわ」


おっとりとした笑みを浮かべる母・麗華。政財界に張り巡らされた彼女の情報網は、蜘蛛の巣のように獲物を絡め取り、精神的に追い詰めていく。


「物理的な痛みも必要じゃないかしら?例えば、そうね。偶然、事故に遭うとか。偶然、未知の病原菌に感染するとか。私が新しく調合した『薬』の臨床試験に、ちょうどいい検体かもしれないわ」


妖艶に微笑むのは、美人外科医の姉・詩織。彼女のメスは命を救うだけでなく、倫理観という枷を外せば、人を最も苦しめる形で内側から破壊することも可能だった。


家族の殺意に満ちた提案を聞きながら、宗一郎は静かに首を横に振った。


「いや、それでは生ぬるい。我らが慈が受けた心の傷は、そんなものでは到底釣り合わん。蛇崩猛については、お前たちの力を総動員し、二度と社会復帰できぬよう、あらゆる手段を講じて合法的に叩き潰す。社会的な死を与えた後、詩織の『治療』で絶望の淵を永遠に彷徨わせるのが妥当だろう」


その決定に、誰も異論はない。問題は、もう一人。


「それで、親父。柊凛音の方はどうする?」


刻夜の問いに、リビングは再び静まり返った。慈は「責めるな」と言った。その言葉は、彼らにとって絶対だ。


しばらくの沈黙の後、宗一郎が静かに、そして残酷に言い放った。


「彼女には、何もしない」


その言葉に、麗華が、刻夜が、詩織が、まるで悪魔のような笑みを浮かべた。


「何もしない。我々は、これまで通り、慈を愛する優しい家族として、彼女に、そして彼女の家族に接し続ける。慈もまた、立ち直り、彼女を『許し』、良き幼馴染、良き隣人として、あの聖人のような笑顔を向け続けるだろう」


宗一郎は続ける。その声には、愉悦の色すら滲んでいた。


「糾弾されることもなく、罰せられることもなく、ただひたすらに『許される』という名の地獄。自分だけが罪を抱え、隣からは毎日、自分が壊したはずの幸せな日常の音が聞こえてくる。これ以上の拷問があるかね?」


「素晴らしいわ、あなた。彼女は、自らの罪悪感に苛まれ、ゆっくりと、しかし確実に心を壊していく……。我々の手を一切汚すことなく」


麗華がうっとりと呟く。


「自分の愚かさを後悔しながら、永遠に救われないってわけか。最高に悪趣味で、俺は好きだな」


「自分が犯した罪の重さを、その身をもって、一生かけて償い続ける……。医学的にも非常に興味深い症例になりそうね」


刻夜と詩織も、心底楽しそうに同意した。


こうして、天ヶ瀬家の食卓で、二つの復讐計画――蛇崩猛に対する「完全なる社会的抹殺」と、柊凛音に対する「何もしないことによる無間地獄」――が、満場一致で採択された。


慈の安らかな寝息だけが響く静かな夜。世界で最も慈を愛する家族による、世界で最も残酷な断罪の幕が、静かに上がった。

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