第3話
「あー…昨日は飲みすぎたなぁ…」
仕事を終え、駐車場へ向かって歩いていた唯のポケットで、携帯が軽く震えた。
画面に浮かんだのは 岡崎 晃哉 の名前。
「はぁい、もしもーし。お疲れ様ぁ」
『唯?今日、大丈夫だった?』
「あっはは、こうちゃん昨日はありがとう。ちょっと飲みすぎたかな」
『ちょっとじゃないでしょ。完全に飲みすぎだよ』
電話の向こうで晃哉が笑う。
「なんとか仕事頑張って、今終わったとこ。酔いが落ち着いたらさ……お腹すごく空いちゃって」
『俺、今日夜勤だからさ。さっき起きて買い物してきたんだよ。…ってか、今どこ?』
場所を伝えると、偶然にも唯の職場から晃哉の社宅はすぐそこだとわかった。
『パスタ作ったけど、食べる?』
「え?!食べる!本当にお腹すいちゃった。いいの?わーい」
無邪気に喜ぶ唯の声に、晃哉がふっと息を漏らす。
家までの道順を説明しながら、
『なんか買ってく?』
「なんもいらないけど……あ、じゃあ微糖のコーヒーお願い」
電話を切ると、唯は車のエンジンをかけた。
⸻
晃哉の社宅は驚くほど近かった。
だが、地元育ちの唯ですらその建物の存在を知らなかった。
古びた2階建てのアパート、その端の部屋。
ピンポンを押すと、重い鉄の扉がギィと開く。
「いらっしゃい」
ラフな格好の晃哉が迎え入れてくれた。
唯はコンビニの袋を揺らしながら、
「ただいまぁ!わぁ、いいにおーい!」
と玄関に立つ。
晃哉はその姿を見て、ふと手を止めた。
「コーヒーありがと。…それ制服?なまら似合うっしょ」
「そぉ??なんか地味じゃない?」
とスカートの裾をつまむ唯を見て、晃哉が慌てて言う。
「…あ、唯まだ見ちゃだめ。そっちの部屋行ってて。今ご飯持ってくから」
「はぁい」
木の引き戸を開けた瞬間、唯は思わず目を見張った。
そこにはまるでクラブのような空間が広がっていた。
ほんのり漂うCHANDANの香り。
すぐ横にはDJブース。
壁にはレコードがぎっしり並び、
天井から揺れる星型のライトが柔らかい光を落としている。
家具は最小限で、隣の部屋とは襖が外され、広いワンフロアに。
奥の部屋にはベッドがひとつあるだけだった。
「ひろーい!すごいオシャレな部屋だね」
晃哉がお皿を持って現れた。
「はい、お仕事お疲れ様。口に合うかわからないけど、どうぞ」
「いただきまーす!」
ひと口食べた瞬間、唯の目がキラキラと光る。
「美味しい!幸せ!ありがとう」
その顔を見て、晃哉も自然と微笑んでしまう。
ふたりは昨日の続きのように、あたり前に話し始めた。
やがて、晃哉はブースに立ち、唯のためだけに曲を繋ぎ始めた。
「すごい、私のためのDJだ!」
はしゃぐ唯に合わせるように、晃哉は彼女の好きな曲を滑らかに繋げていく。
――Doesn’t Really Matter
「あっ…」
音に酔いしれる唯の表情が、晃哉にはたまらなく心地よく映った。
「最後の曲ね」
そう言って流れた曲は、唯には初めての曲だった。
「これ、なんて言うの?」
「…“smile in your face” って言うんだ。いい曲だよ。きっと唯も好きな曲」
その時の晃哉の表情が、どこか少しだけ悲しげに見えて、唯は胸がざわついた。
⸻
気づけば夜の21時半。
時間を忘れていたふたりは、晃哉の夜勤に合わせて一緒に玄関へ向かった。
「今日はありがとう。すごく楽しかった!お仕事頑張ってね」
「また連絡するね。まっすぐ帰るんだよ?」
本気で心配する声に、唯は思わず吹き出す。
「もう、子供扱いしないでよね、笑」
「…あーぁ、仕事行きたくねぇな」
晃哉のつぶやきに、唯は肩を軽く押すように言う。
「ほら、遅刻しちゃうよぉ? 頑張ってね!またね!」
両手をぶんぶん振りながら、晃哉を送り出した。
⸻
ねぇ、こうちゃん。
少しずつ縮まって行く距離がとても嬉しかった。
八つ年上のあなたは、いつも大人で、
それがくすぐったくて、いつも私は子供扱いされるのを嫌がっていたね。
でもね。
あなたが教えてくれた曲たちを
私は今でもひとつも忘れられずにいるよ。
――“smile in your face”
こうちゃん。
あの歌詞みたいに思えた“誰か”が、もうあなたのそばにいたのかな…
ねぇ、こうちゃん。
どうしてその手を離したの?
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