第2話 殴られても退かない
「見て見ぬふりなんて、できねぇだろ」
さっき自分の口から飛び出したその言葉が、まだ耳の奥で反響していた。
女と男たちの間に体をねじ込んだ俺を、大学生どもが一斉に睨みつける。
「……誰だよ、お前」
元同級生の男が、心底うんざりした目で言った。
缶チューハイのアルコールと、夏の夜の湿った空気と、血の匂いになりそうな気配が混ざり合っている。
「店員」
とりあえず、それだけ答えた。
間抜けな返事だって自覚はある。
でも、他に名乗りようもない。
「あぁ? 店員なら中でレジ打ってろよ」
「そこの女の子、うちの客だからさ。
店の前で好き勝手されると、普通に困るんだけど」
言いながら、背後にいる女の気配を意識する。
振り返らなくても分かる。あの冷たい視線が、俺の背中をまっすぐ貫いている。
(そりゃそうだよな。知らん底辺フリーターがいきなり壁になっても、安心なんかしねぇよな)
自分で自分にツッコミを入れながら、それでも足は動かなかった。
「カズマ……だっけ?」
元同級生の男が、俺の顔をじっと見て目を細める。
「誰かと思ったら。……お前、まだこんなとこでバイトしてんの?」
鼻で笑われても、別に言い返す気にはならない。
事実だしな、としか思えない。
「真面目ちゃんが正義感出しちゃった感じ? ウケるわ」
「別に、カッコつけたいわけじゃねぇよ」
言葉だけは、意外と素直に出てきた。
「ただ――」
鼓動がうるさい。
足はじんわり震えている。
それでも、この一線だけは譲りたくなかった。
「見て見ぬふりなんて、できねぇだろ」
もう一度、同じ言葉を繰り返す。
さっきより、少しだけ強く。
元同級生の男は一瞬だけ目を丸くしてから、
馬鹿にしたように吹き出した。
「ははっ……マジで言ってんの、お前」
仲間の大学生たちもつられて笑い出す。
「何それ、ヒーロー気取り?」
「ダッサ。マンガの読みすぎじゃね?」
その笑い声は耳障りだったけど、
だからといって引き下がる理由にはならなかった。
(英雄になりたかったわけじゃねぇよ。ただ――)
頭の片隅で、親父の顔が浮かぶ。
『男なら誰かを守れる人間になれ』
『曲がったことはするな。見て見ぬふりは、一番ダセぇ』
とことん古臭くて、くせぇ台詞。
でも、俺にとっては、それが唯一の“芯”だった。
元同級生の男が、缶を地面に投げ捨てた。
中身が残ったままのアルミ缶が、安っぽい音を立てて転がる。
「いいよなぁ、お前ら。まだダンジョンにも入ってねぇ側だからさ。
現実知らねぇで、真っ当に生きるとか言ってられるわけだ」
その言い方が、妙に癇に障った。
「……真っ当に生きたいって思うの、そんなにおかしいかよ」
「おかしくねぇよ。ただ――」
男は手首の簡易モニターを光らせて見せつける。
「こっちはもう数字が違うんだわ。
ステ上がるってのは、そういうことなんだよ。
“真っ当”とか言ってるのは、何も持ってねぇ負け組だけ」
「……持ってようが持ってなかろうが」
自分でも驚くくらい、スッと声が出た。
「女の子に群れて絡むのは、ただのダセぇ奴らだろ」
あーあ、と心の中でため息をつく。
完全に火に油だ。
案の定、男の眉間に深い皺が刻まれた。
「お前さ、前からそういうとこキモかったわ」
ゆっくりと、俺のほうへ近づいてくる。
「いい子ちゃんぶってさ。何様のつもり?」
至近距離で見ると、
目の奥に妙な自信と苛立ちが渦巻いているのが分かった。
ダンジョンでステを上げて、
ようやく自分が“上に立てる側”になったと信じきっている目だ。
「そんなに殴られたいなら、付き合ってやるよ」
胸ぐらを掴まれる。
布越しに指の力が食い込む。
(ここで退いたら、一生言い訳し続けることになる)
頭より先に、体が勝手に判断していた。
俺は足を一歩だけ前に出し、
背中で女を隠すように立つ位置を調整する。
「おい、どけって」
「……どかねぇよ」
自分でも驚くくらい、あっさりした口調だった。
次の瞬間、視界が跳ねた。
横から飛んできた拳が頬を強打する。
頬骨に鈍い衝撃が走り、口の中に鉄の味が広がった。
「っ……!」
体が大きく揺れる。
それでも、必死に足の裏に力を込めて耐えた。
後ろに倒れたら、背中の女を巻き込む。
それだけは絶対に嫌だった。
「一発で倒れねぇのかよ」
「意外と粘るじゃん」
笑い声が飛んでくる。
二発目は腹に来た。
空気が一瞬で肺から抜ける。
(痛っ……! マジで、洒落にならねぇ)
情けない悲鳴が喉まで込み上げるのを、歯を食いしばって飲み込む。
同時に、どこか冷静な自分がいた。
(あー……ステ上がってるぶん、普通のパンチより重いな、これ)
殴られながらそんな分析してる自分に、
ちょっと笑えてくる。
「おい、代われよ。俺も試してみてぇ」
後ろから別の大学生が前に出てくる。
元同級生の男は、一歩引いてにやにや眺め始めた。
「お前らさ、店の前で暴れるの普通に迷惑だからな……」
なんとか口を動かしてそう言った瞬間、
別の拳が反対側の頬を打ち抜いた。
視界の端で、コンビニのガラスが振動する。
(……割るなよ、マジで。ガチで弁償コースはやめてくれ)
本当に心の底からそう思った。
自分の心配より、店の心配が先に出るあたり、
我ながら安月給の奴隷根性が染みついている。
三発、四発。
数を数える余裕はすぐに消えた。
殴られるたび、世界がぐらっと傾ぐ。
それでも、
足はまだどうにか地面を掴んでいた。
「なぁ、いい加減どけよ」
元同級生の声が、遠くから聞こえてくる。
「別にお前をボコりてぇわけじゃねぇんだよ。
そいつに少し痛い目見てもらったら帰るだけだからさ」
「……だったら、俺のとこで終わりでいいだろ」
唇が切れているのか、
喋るたびに血の味が濃くなる。
「こいつに手ぇ出す理由、どこにあんだよ」
返事代わりに、腹へ重い一撃が落ちた。
膝がガクッと折れる。
片膝が地面につきかけて、それでも必死に踏ん張る。
(あー……親父にバレたら、説教どころじゃ済まねぇな、これ)
真っ当に生きろって言われてるのに、
コンビニ前で殴られてるんだから、笑えねぇ。
でも、不思議と――
後悔は、なかった。
「ほんとに、バカね」
背中のほうから、低く冷たい声が落ちた。
氷みたいな女の声だ。
振り向けない。
でも、きっとあの無表情のまま言っているのだろう。
「あんたたちのほうよ」
短く、それだけ。
静かすぎて、逆に刺さる。
大学生どもが一瞬黙り込むのが分かった。
「てめぇ……」
怒鳴り声と共に、さらに勢いを増した拳が飛んでくる。
頬、顎、腹、胸。
狙いなんかどうでもいいって感じで、乱暴に振るわれる手。
俺は両腕を前に出し、
せめて軌道だけでも逸らそうとした。
やり返すつもりはなかった。
勝てるとも思っていない。
ただ、
背中のほうに飛んでいかないように、それだけを考えていた。
拳を受けた手の甲が痺れる。
骨まで響くような痛み。
(ステって、やっぱずるいよなぁ)
殴られながら、またそんな感想が浮かぶ。
ステータスなんか一つも上げていない俺と、
ダンジョンで数字を増やしてきたやつら。
そりゃ、殴り合いになったらこうなる。
分かってて、それでも前に立っているのは――
ただの俺の悪い癖だ。
視界の端で、女がこちらを見ているのが分かった。
表情は読めない。
だけど、その視線だけが、妙に鋭くて重かった。
(……ちゃんと、守れてるよな?)
自分でも笑いたくなるような確認をしながら、
また一発、重いのをもらう。
その時だった。
「お前ら、何をしている」
低い声が、空気そのものを変えた。
大学生どもの声じゃない。
俺のでも、女のでもない。
重い靴音が、アスファルトを何人分も踏み鳴らす。
殴る手がぴたりと止まり、
元同級生の首がびくりとそちらを向いた。
「はぁ? なんだよ、おっ――」
言葉が終わる前に、鈍い音が響いた。
ドスッ、と肉と肉がぶつかる重い音。
直後に、短いうめき声。
視界がまだぼやけている俺でも分かる。
誰かの腕がひねり上げられ、地面に叩きつけられた音だ。
「うわっ、おい何す――!」
「痛っ、痛い痛い痛い! やめ――!」
慌てふためく悲鳴と、関節を極められたとき特有の息の詰まる声。
顔を上げると、
黒いスーツの男たちが数人、大学生どもを地面にねじ伏せていた。
夜の街灯の下でも分かる、鍛えられた体つき。
動きに一切の無駄がなく、
表情もほとんど変わらない。
完全に、“仕事”としてやっている動きだった。
(……やっぱ、いたんだ。護衛)
遅れてきたのか、
もともと様子を見ていたのかは分からない。
ただ一つだけ確かなのは――
最初から、この女にはこういう連中がついていて、
俺なんかいなくても守られる運命だったってことだ。
「声を上げるな。人の迷惑だ」
スーツの男のひとりが淡々と言うと、
大学生のひとりが情けない声を上げた。
「腕、折れる折れる折れるって! マジで、離せって!」
「少しは理解したか。数字が少し増えた程度で、調子に乗るな」
感情の乗っていない声。
叱責というより、事務的な確認。
そのうちのひとりが、俺のほうをちらりと見た。
「怪我は」
「あ?」
まともに顔を上げると、視界が二重にぶれた。
「……大丈夫っす。たぶん」
口の端から血が垂れているのが自分でも分かる。
舌で触ると、切れている感触がした。
「立てるか」
「立ってます。ギリギリ」
そう答えると、男はそれ以上何も言わず、
また大学生のほうへ視線を戻した。
その瞬間、背中からふっと力が抜ける。
女が、一歩俺の横に出る気配。
「……遅い」
それだけ。
静かで、低くて、冷たい声。
怒っているのか、呆れているのか、
感情の温度は読み取れない。
けれど、スーツの男たちは全員、
小さく頭を下げた。
「申し訳ありません」
彼女に対する態度だけが、
はっきりと“こちらが下”だと物語っている。
(……ほんとに、普通の家じゃねぇんだな)
改めてそう実感して、
俺はぐらりと揺れた膝をどうにか踏ん張った。
「おい、こいつらはどうする」
「車を回してある。しばらく冷静になってもらおう」
物騒な会話が聞こえる。
深入りしないほうがいい種類の話だ、ということだけは分かった。
口の中の血を飲み込みながら、
俺はそっと女のほうを見た。
さっきと同じように無表情――に見えたけど、
ほんの少しだけ、瞳の奥が揺れている気がした。
「……怪我、してないか」
自分でも驚くくらい自然に、その言葉が出た。
自分の顔がどうなっているかなんて、今はどうでもいい。
女は一瞬だけ瞬きをして、
小さく頷いた。
「してないわ」
それだけ。
それだけなのに、
胸の奥の重さがふっと軽くなる。
「そっか。……良かった」
心の底からの本音が、そのまま口からこぼれた。
頬も腹も、拳も、全部痛い。
ガチで明日のシフトに響きそうなくらいには痛い。
それでも、
“守れた”と思えたことが、素直に嬉しかった。
(……ほんと、バカだよな、俺)
自嘲気味に笑うと、
氷みたいな女の視線が、ほんの一瞬だけ俺に縫い付けられる。
「さっきの男たちはバカだけど、あんたは大馬鹿ね」
そう言って本当に一瞬だけだが、彼女が微笑んだような気がした。
その意味は分からない。
けれど、その瞬間だけは、
さっきまでより少しだけ“人間味”があったように見えた。
この夜を境に、
俺の“逃げない悪い癖”が、
あの女の人生と、俺自身の人生を
がっつり巻き込んでいくことになるなんて――
そのときの俺は、まだ知る由もなかった。
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ヤクザの孫娘を救ったら、なぜか婚約者になっていました。 〜底辺フリーターのダンジョン×裏社会成り上がり〜 伝説の孫の手 @magonote
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